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「大ゲサすぎたのだ。限度。学問とは、限度の発見にあるのだよ。大ゲサなのは、子供の夢想で、学問じゃないのです。」
太宰の死について、「不良少年とキリスト」ほど的確に、そして愛情深く書かれた文章は無いのではないだろうか。
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人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。第二次世界大戦において、正しい道を歩もうとして間違った道を歩んだ日本を批判し、堕落することによって救われるという坂口独自の考えを中心に書かれたエッセイ集。
「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。」
坂口安吾の視線がとても斬新、そして納得させられてしまう。
堕落を受け入れることで、人は追い詰められることなく健全に生きられるのだろうと思ったし、堕落を受け入れる心を持ちたいと思った。
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新潮文庫版と表題が同じだが、収録されている作品は7割がた異なっている。新潮の方が、割と長めのものを多く収録するのに対し、こちらは比較的短いものが多い。
「デカダン文学論」「恋愛論」が特に良かった。
なかなか同じ作品を繰り返し読むことのない僕だが、「堕落論」「日本文化私観」などは新潮とダブって収録されているので、自然と二度読むことができて良かった。
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強い。全体的に。
この考えになれますかと聞かれると、なれないと思います。
だからこそ、人々から憧れの眼差しで見られるのではないでしょうか。
そして自分の弱さを確信する本。
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堕落論や続堕落論で書かれていることは非常に本質的だと思った。日本人の所謂ムラ的なるものの、建前性がよくわかる。天皇に関する考察も共感できて、現代の政治でも未だに見られる権力の二重構造状態である。
日本人の未発達な自我が、こういったエゴイズムや建前を生むのではないか。
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2010/12/18 読了。
初めは少し古い文体に戸惑ったが、慣れてくると大して気にならなかった。
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思春期の頃に読んだかも。読んでないかも。
久し振りにこういうのを手にしたが、とりあえず今はこういうのはいいや。
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好きなんだけど、多分自分にもこういうとこがあって、読むと堕落の道に走りそうだから読まないで、しかし棄てられないでいる本
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・収録作品・
日本文化私観
青春論
☑堕落論
続堕落論
デカダン文学論
戯作者文学論
悪妻論
☑恋愛論
エゴイズム論
欲望について
大阪の反逆
教祖の文学
不良少年とキリスト
注釈
磯田 光一・解説 坂口安吾―人と作品
檀 一雄・作品解説
年譜
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終戦間もない頃に書かれた『堕落論』は太宰治の『斜陽』などとともに戦禍の後の焼け野原に残された人々のハートをがっちり掴んだとされている。
・気になった部分
日本人はもともと強い憎悪を感じることが少なく、仇討ちに燃えた武士は多くなかった(むしろ水に流すことが多かった)
・「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉は日本国民を戦地に赴かせるためのイデオロギーである
・義士も聖人も人間である以上、堕落から免れることはできない。堕落こそが人間を救う
・藤原氏のように、天皇を政治的に利用して冒涜するものが最も天皇を崇拝してきた
・価値観や利害の対立は、どれほど社会が進化しようと変わらない。対立の中にこそ人間の真実の生活がある
全体として「大和魂」とか「仇討ち」とか「忠義」といった言葉にこびり付いた手垢が剥がれ落ちていく爽快感と共に「義士」や「聖人」といった世俗的な評判の空しさを感じる。
天皇であろうと、聖人君子であろうと、庶民であろうと人間は人間である。ありのままの自分と向かい合ってこその人生なのだと思った。この文章からはそんな力強さも感じられた。
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人間は堕落するものだ、と言うと後ろ向きなようだが、実の所、その真実を踏まえてから考えていこうという前向きな本。
武士道が日本人の本質のように語られることがあるが、そうではなく、武士は力があるので寧ろサボりたいというのが本音であり、それを制する為の武士道、という考えのほうがリアリティがある。武士道は本質的ではない。すなわち人は堕落の部分を見つめ、自分なりの武士道を見つけるべきだ・・・といった感じ。
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個人的には堕落論よりもデカダン文学論・教祖の文学・不良少年とキリストの方が面白かった。他はあまりしっくりこなかったが、無頼さがひしひし感じられた。
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20年ぐらい前に買った本で、ずっと置いてあった本。
今だから分かる部分も多い。安吾が書いていた年齢と今の自分の年齢が近いからか、買った当時では理解できなかったと思う。
書かれた時代を確認すると戦後直後も直後。戦争中の言論の自由を奪われていたころを思うと、若者にセンセーショナルを巻き起こしたことも理解できる。
「堕落」という言葉は強い言葉だけれど、ダメ人間になれということではなく、もともと人間はダメなところを持っていて、その自覚を持てということか。今の時代でも十分通じる話である。
ただ、今の戦後とは違う混乱期をどう見る?恋愛も政治も社会も歴史は生きている人間が作っている。過去はあくまで過去だ。
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安吾の考える美とは何か。
「堕ちることで生きよ」とセンセーショナルな論調で戦後文壇を席巻した坂口安吾のエッセイ集。表題作「堕落論」ほか、「日本文化私観」「青春論」「続堕落論」「デカダン文化論」「戯作者文化論」「悪妻論」「恋愛論」「エゴイズム小論」「欲望について」「大阪の反逆」「教祖の文学」「不良少年とキリスト」の13編収録。
研ぎ澄まされた包丁で根菜がすぱりすぱりと切られていく―終始そんな気持ちにさせられる文章です。その理由が冒頭の「日本文化私観」でわかります。解説によればこの作品はブルーノ・タウトの同名の評論に題をかり、平明簡潔に、安吾のあらゆる思考の手引か解説をでもしているように見えるという一編です。
一般的にもっとも日本的と考えられている町・京都での自身の体験を語り、そこにある寺院や文化について触れていくのですが、読み進めるうちに安吾の中では「真に日本的なるものなどは無い」のだと気づかされます。建築も芸術も意図的なものであって、むしろそこに在るがままの人間に価値を置いているところが、続く12編を読み解くための鍵となっているのです。安吾のこうした主張は、日本の伝統美について論じたブルーノ・タウトについて触れた次の文章からも観て取れます。
<…即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。>
今を生きる日本人の生活がどのようなものであろうとそれこそが紛れもない日本であって、桂離宮と日光東照宮のどちらが日本的かなどというのは意味がない。簡素であろうと豪奢であろうと、意図的であるということにおいてはどちらも同じ。タウトさん余計なお世話です―とまでは言っていませんが、この論のタイトルがタウトの評論と同名であることが、一つのアイロニーになっていることを感じさせます。
そんな安吾の考える美とは何か。「日本文化私観」の最終章において、それは明らかにされます。小菅刑務所と築地にあったドライ・アイスの工場、港町に錨をおろした軍艦の3つを挙げ、ここには、美しくするために加工した美しさが一切なく、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているからこそ美しいのだというのです。建造物に想起されたこの思いは、安吾自身の仕事、即ち書くということへ収斂していきます。
<美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくさねばならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからず実質」が求めた所の独自の形態が、美を生むのだ。>
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本文より"美しいものを美しいままで終らせたいという小さな希いを消し去るわけにも行かぬ。未完の美は美ではない。その当然堕ちるべき地獄での遍歴に淪落自体が美でありうる時に始めて美とよびうるのかも知れない"
人間の堕落について戦争や日本古来の思想から分析し淡々と事実として述べており面白い