自分の親が老いる時
2016/12/19 16:21
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:燕石 - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分の親が老いる姿は、できれば見たくない―子は誰でもそう思う。しかし、本来喜ばしいはずの「長生き」が、残酷な親の「老い」を子供の前に突きつける。その「老い」は、気分屋で自己中心的であり、詮無いことの繰り返しであり、そばに居る子供をひたすら苛立たせ、憂鬱にさせる。まして、尊敬していた親の老いる姿は、哀しさを通り越して、怒りさえ覚えさせる。
「だけど退屈だよ。ほんとうに退屈だ。これで死んだら、死因は『退屈』なんて書かれちゃう」。いや、老いた親自身が、どうしようもなく、自分を持て余しているのだろう。親が居なくなったとき、そのことに思い至り、子供も自らの「老い」を意識する時を迎える。
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89歳で亡くなった父の最後の数年間、仮ふぉりにあから熊本の遠距離介護。進行中はバトルアリーナそのもの。で、終わった後の心象は、これまでの親子の形で決まるのかもしれない。おそらく悔いだらけだろうが、親は、きっと、全部まとめて許してくれてるんじゃないかと思う。
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出会いはたしか、小林聡美『読まされ図書室』 (宝島社文庫)、吉本ばななのおすすめ本として登場して、読んでみたくなって探した。
…と思っていたら、それは佐野洋子『死ぬ気まんまん』(これも光文社文庫)のほうで、伊藤比呂美の本は「scripta」2016年秋号に載っていた荻原魚雷連載「中年の本棚・15」で触れられていて、読みたくなったのだった。
日記風文学というのはどうしてこうもおもしろいのだろう。…と、武田百合子『富士日記』なども思い出しながらおもう。
母を見送り父を遠距離で介護するあわただしい日々の由無し事、さばさばとした筆致で自分のおろおろや周囲へのむかつきなどもつづられている中に、ときどき詩のような宝石のような思いが垣間見えて、はっとさせられる。
こども心には頼もしく大きな存在だった親が、心身が弱っていくさまをつかず離れず見守る心境、仕事や自分の家族を抱えつつもたもたして手がかかるようになっていく老親に付き合うしんどさ、相手の状況を察しあえる大人同士だからこそのせつなさややりきれなさ…遠からず我が身も体験することになるのだろうと思いながら読んだ。こういうのを読んでから向き合うか、知らずに向き合うかで、気の持ちようはまったく違うと思う。
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女性詩人が、実家熊本の父をカリフォルニアから行き来しながら看護する日記。作者の父を思う気持ち、その実行力、介護におけるどうしようもない気持ちが率直に表れていて共感する。老いの衰えはどうしようもなく、人生の最後はやはり大変で、それを支えてくれる人がいる人は幸せである。後書きの作者の言葉と最後の詩にはしみじみとする。
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なんとも辛くて切ない内容です。私は59歳、母は83歳、熊本で二人暮らしです。読んでいると現状の自分にリンクする部分が多々あります。思わず頷く部分、反省してしまう部分、涙する部分がありました。作者はカリフォルニアと熊本での生活、本当に頭が下がる思いです。でも、結局は、その二重生活を解消するのは、この結末しかないのだなあと感じます。その事実が人をひとつ成長させるのだと思います。辛いですね。
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自分のときと照らし合わせて、辛かった。私はここまでできなかった。色んなことがあったけど、自分はこの人が可愛がってくれた娘なんだってことを思い出すことができてとても良かった
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みとったひとにしかわからないだろうと思う。自分と父とが重なって切なかった。人ひとりを送り出すということの重み、死にゆく人の世話をさせてもらえて幸運だったとおもえる、親が子にさいごに与えてくれたもの。