人は筋立てをしたがる
2017/09/24 01:08
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投稿者:ヤマキヨ - この投稿者のレビュー一覧を見る
刑事ドラマで、初動捜査の段階で「筋立て」を考える場面があります。まだ犯人像が固まらない時点や動機が見えない時にも、「犯人はこんなやつだ」と実体化させようとします。これも物語を求める状況の1つだと思えました。人はもやもやと曖昧な状況は嫌いなようで、AかBかとか、○か×かとか、はっきりすると落ち着きます。そのために与えられた情報にたっぷりと主観を加えて、納得できる物語を完結させるのかもしれません。(全然関係ないけど、『銀の匙』はどうなるのでしょう)物語に整合性があるかどうかよりもとにかく完結していることが重要になると、世論が極端に動いたり、冤罪を引き起こしたりすることにもなりかねない危うさも感じました。
「求めるのか」というよりは。。。
2019/10/05 15:51
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
なぜ小説は次々と生み出され、読まれるのか。そのあたりを期待したのだが本書は「物語をなぜ求めるか」の一歩手前、「物語とは何か」が主な内容。その奥にはなんでも「お話」として作ってしまうという人間の性質があるということらしい。
他人からしたら意味が通らなくても、自分が納得する形で自分の周辺の出来事をまとめたい。そういう感覚は自分でも感じていた。自分自身を理解するため、世界を理解するため、人は自分が理解できる形にまとめないと落ち着かない、というところだろうか。
哲学的な用語を使った考察が結構あってそれほど読みやすくはなかった。最近の小説や漫画も引用して具体的な説明をしているので「そういう読み方もあるのか」という「小説の読み方例」の面白さもあったが、「物語を求める」ことについてというよりは「物語の特徴」の説明だったか。
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投稿者:あ - この投稿者のレビュー一覧を見る
人が物語を求める理由が、わかりやすい言葉で書かれている。とても興味深い内容だった。
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人は物語る生き物だ。ある個人の人生について考えるとき、なにか事件が起きたとき、知らず知らずのうちに物語の形式でとらえようとする。
それは人に備わる便利な能力に違いないが、ときに自分や他人を傷つけ、苦しめ、危険をもたらすこともあると著者は指摘する。
たとえば災害を天罰だととらえること。自分が悪いことをしたから不幸に見舞われたと考えること。被害者に責任を負わせる論理。犯罪者はこんな人間だと決めつけること。親が子どもに勝手な理想を押しつけ、思い通りにいかないと嘆くこと。
なにごとにも原因があると思い込んでストーリーに落とし込み、自分にも他人にも当てはめようとすることは、その人を「わかった」気にさせ、安心させる効果があるが、逆に、人は知らぬ間にストーリーを作り上げてしまったために他人や自分を苦しめてしまうことも多い。
世の中には簡単にストーリーに当てはめられないことが多々あるし、公正な社会というのも虚構にすぎない。
不幸であるのは、だれのせいでもなく、ただ不幸であるだけなのだ、と思うのはたしかに難しいが、実際に「ただ不幸である」ことが存在するのは事実だ。
有名な古典作品や歴史上の出来事、「黒子のバスケ」事件やアイドル刺傷事件での加害者の供述、著名人の発言など、わかりやすい例を取り上げながら、人が物語ることとはどういうことなのかを解き明かし、あらゆる出来事のとらえ方について、新しい示唆を与えてくれる。
考えすぎて自分のせい、人のせいにしてしまうひと、周囲や親の描くストーリーに縛られて苦しんでいる人、単純に物語という人間の認識の枠組みに興味があるひとなどなど、さまざまな人にオススメできる本だ。
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人間は「わからない」のが不安だから、情報の空白を埋めるように因果関係を作って、無自覚なままストーリー形式で世界を把握している。その心の癖の落とし穴や危うさを丁寧に読み解いてあり、考えさせられた。
認識の枠組みである物語に、自覚的でありたい。
「二度生まれの人」の話が印象に残った。人生それ自体にたいする「なぜ?」という深刻な問いに取りつかれ、煩悶し、もう一度生まれ直す必要があるタイプの人、のような意味合い。「崖から手を離す」とともに、念頭に置いておきたい。
あと、巻末の読書案内が参考になった。
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タイトルは内容を正確に表していない。正確を期すならば「人はなぜ『物語』としてできごとを理解しがちなのか?そのしがらみから逃れるヒント」とでもなろうか。
色々な論者の言葉を数多く引用しつつも、筆者の主張はきわめて貧弱。私が示したタイトルに尽きてしまう。その上、思い込み、さらにはパラダイムから逃れる処方箋もほのめかす程度。ちくまプリマー新書とは言え、これを読む若者は気の毒だ。
しかし、末尾の読書案内の書籍、本文で引用されている原著に直接あたれば、実りある読書ができる点は救いだ。物語に過度の期待を抱かない世界観をきちんと創造したい。
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「将来の夢は?」とか「弊社に入ったら何を(達成)したいですか」とか、そう聞かれて「特にありません」と答えると、つまらない・取るに足りない人だと思われる。その人が物語を持っているかどうかで判断されることは少なくない。それも、聞いた側が納得できる物語を持っているかどうか。
物語をそのまま生きていけるならいいけど、それができないと生きるのはとても苦しくなる。この本が登場するのはここ、その苦しさが現れた時。自分が苦しんでいるのは誰の、何のせいなのか。それは自分が作った物語のせいかも知れないよ、という視点をもたらしてくれる。
もしも、自分を苦しめているこの物語は自分が作ったのではない、周りが要求するものなのだと思っていたら、その時点でその物語を受け入れてしまっているのと同じこと。この本の内容に抵抗があると感じたら、自分の物語に“こだわり”を持って自ら苦しんでいる人かも知れない。
物語に巧妙な仕組みがあることを知れば、その枠組みの外側に立つこともできる。物語の便利なところはおいしく利用し、そうでないところはさっさと放棄して楽に生きよう。“自分らしく”生きることにムキになって苦しんでいた何年か前の自分のような、この本の言葉が届かない届きにくい人にこそ届いてほしい。淡々としてドライに思えるかも知れないけど、こんなに優しい本はないよ。
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とても面白かったです。ビジネス書のように読んで即・回答が出るわけではないけど「物語る」という事について、とにかく色々な引用を交えて言及している。そのモチーフへの執着力たるや・・・。言い方は悪いけどヘタな人が頑張って描いた絵のような・・・。カオスだけど熱量は伝わってきて、肝心な問いについては、正直読めば読むほど、わからなくなる(笑)でもそこが好き(笑)
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136頁「人はできごとの理由を自分の知っているパターンに無理やり落としこみたい」と思っているというくだりで、なんだか自分が信じられなくなってきました。だれかと会話をしていてもその中身はFAQになっているのではないかしらんと思うと。これでは、あまり新しいアイディアも解決策も生み出されないような気がしてきました。
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ヒト (他人) はどうして考え方が凝り固まったりするのか,というのを検証していくうちに,自分の考え方もまた凝り固まってるから生きづらかったりするんだよ,っていう印象。
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物語学(ナラトジー)の入門。世の中を理解するのに物語が必要であり、出来事を述べることには何かもっともらしい理由がないといけない。時系列で起こったことにはそれぞれに理由があるべきであると考え、無理やりにでもでっち上げる。べき論は概ね感情的なものであり、さらに、それが一般論と一致すると納得感が増す。自分のしたことでさえ、説明的な一般論で納得してしまう部分がある(実際は何の理由すらないかもしれない)。
期待という放物線の予測はありがちなものであり、これをなくすことで物語から自分が解放されうる。
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ストーリーは人間の認知に組み込まれたひとつのフォーマット(認知形式)
状態と出来事=地と図
筋に逆らってまで隣接連合によって叙述の密度を高めるものを「リアリズム」的な要素と考える(ロマン・ヤコブソン)
世界に対する「なぜ」という問と、それへの回答(原因や理由)とが、ストーリーのストーリーらしい滑らかさを生むのです
因果関係が明示されると、なぜ物語としてなめらかな感じがするのか?それは、できごとが「わかる」気がするからです。どうやら僕たちは、できごとの因果関係を「わかりたい」らしいのです
わけがわかると、ストーリーが滑らかに感じられ、「わかった」という感情が芽生える
人間は時間の中で前後関係にあるふたつのことがらを、因果関係で結びつけたがる習性を持っている(ヒューム「人間関係論」)
前後関係の誤謬をいわば体系的に濫用するのが「物語」(ロラン・バルト「物語の構造分析序説」)
わかる、というのは秩序を生む心の働き。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれる。つまり、わかったという感情。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれる。(「わかる」とはどういうことか 山鳥重)
ストーリーは個別の問題(存在命題)ですが、それぞれの理由や「因果関係」が「わかった」気がするときは、その背後には実は一般論(普遍的な話題、全称命題)が存在している
一般論は「類」
説明付きのストーリー(プロット)は類の一例、「種」
一般論=人は、悲しみのあまりみずから死期を早めてしまうことがある
ストーリー=あるとき、ある女王が悲しみのあまり死んだ
一般論とストーリーの関係は、「タイプ(人間一般に関すること」と「トークン(物語の登場人物である特定のこと)」の関係にある
ことわざや格言は、「一般論」
読者が物語に求めるものは、ひとつはしかるべき論理一貫性、そしてもう一つは「なぜと問う」必要をなくしてくれる権威である
「自分が不愉快な状況にあるのは、☓☓だからだ」というストーリー的な説明が起こるのは、人間が「なぜ自分は不本意な状況にあるのか?」と問うて、その問に答えようとするから
人はAのあとにBが起こると、AのせいでBが起こったと思う傾向がある(前後即因果の誤謬)
前後関係だけでなく、因果関係が加わると、ストーリーが滑らかになる
人は個別の事例から一般論を帰納し、その一般論から演繹して新たな事例の原因・理由を説明したがる
不本意な状況に置かれると「なぜ私が?」という実在的な間が起こり、ストーリーがそれに無理やり答えようとする
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印象的な箇所のまとめ
・世界にたいする何故とその回答が物語の物語らしさを生む。
・人は生きる意味を求める。生きている原因より意味(目的)を知りたがる。
・人生に期待すると失望する。期待しなければ希望がもてる
・人生に期待するのでなく誰かの人生の期待に責任を持ってこたえる自覚を持つ。
・物語の前後の因果関係は運命だと言える。物語とは運命を認識する方法。
・自分達が現実たと思っていることの多くは、自分達が無自覚なまま構成させられてしまった物語である。
・無根拠で不適切な一般論から脱する。
・べき論、コントロール願望を捨てる。
・感情行為直結説(こう感じているからこう行動する)から行為選択可能説(行為は自由に選べる)へ。
・人は知らないことを自分の解釈の格子で埋めていく。
・自分が知らないということを知る。
・正しい私は報われるべきだ、評価されるべきだという被害者意識の物語は極めて無責任。他責的ストーリー。
・人間はストーリーを不可避に合成してしまう。
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久しぶりの新書。
もしかしたら養老孟司さんの『バカの壁』以来か。
一体何年前だよっヾ(--;)
『人はなぜ物語を求めるのか』
新聞の書評欄で紹介されていてこのタイトルが気になり、書店を数件巡ったが置いておらずネット書店で購入。
最近、「なんか世の中って‘物語’だらけじゃないか」と思い、息苦しさを感じていたのでジャストタイミングだった。
自分の頭の中まで‘物語’だらけだもの。
本書を読んで思い返したのは軽い認知症の祖母のこと。
「あれをしてくれないから私のことなどどうとも思ってない」と言ったり、不都合や不具合があると自分勝手に家族を責めたりする。
私の不幸=家族のせい
という強固な‘物語’が頭の中に鎮座しているのかな。
それで自分を苦しめているのかなと思った。
これも私自身が勝手に解釈した‘物語’に違いないけど。
中身は私にはちょっと難しいところもあり、時折「は?」と二度三度文章を読み返したりしながら読んだ。
でも『自分のぼんやりした考えを、豊富な文献と読みやすい文章で形にしてくれた!グッジョブ!』と思ったり、考えが私には思いもかけぬ方向に着地したりして読み物として楽しかった。
まあ『わかった』と『分かった気になる』と区別がつかない
そうなので自分がどこまで分かったのかわからない。
他のひとからみれば「あいつ、わかってないなー」なのかも(* ̄∇ ̄*)
それに千野さんのハナシに納得したのも『彼の提示する物語』と『私の思う物語』が合致しただけかもしれない。
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最初のころに新聞で、この本についての事を知ってから、ずっと気になりだした。
へたをすると、読まないうちから、題名だけで本の内容を想像してしまったところがある。
図書館で借りようかと調べてみると、貸し出し中ばかり。
先日、思い切って本屋さんで購入。
読みだしてみて、想像と違う部分も、あれば、新たな発見もある。
いろんな見かた、についても、考えさせる内容。
おもしろい。