生きていくのが楽になる本
2003/04/19 13:33
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:蒲公英 - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分の生き方や将来に不安を持ったとき、この本を読むとちょっと気分が楽になりました。
老人と青年の問答形式で進んでいく、ちょっと哲学的な内容の本です。
結末についての受け取り方は、読み手の方それぞれで違ってくると思います。この本を読んで、とても重苦しい気分になる人もいるかもしれません。
読後の私は、「人間やりたくないことはやらないものなんだな」ということを痛感し、それ以来20年以上自分のしていることは自分が選んだことなんだという実感を持って生きることが出来ています。
「どうしてうまくいかないんだろう?」「将来どうしたらいいんだろう?」などと悩んだときに、もしかすると目の前を切り開いてくれるかもしれない、一冊だと思います。
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初めてこの作品を読んだときはかなり衝撃を受けました;
あまりに悲観的人間観を唱える老人と議論する青年。
登場人物はこの2人だけ。
けれども、読んでいくうちに怖ろしぃほどその内容にどんどん引き込まれていきます。
結局、青年は老人に対してひとつも反論できずに終わるといぅ徹底ぶりで独自の人間観を確立。
ある意味、わたしの人生のバイブルとなっています。
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人間とは何か?
そんなことを考えてた時期がありました。
そんな時に読んだ本。
人間即機械。
人は外力によってのみ動かされる。
気になる人は要チェック!
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マークトウェインのひねくれた思考が堪能できます。
マークトウェインのお話が好きな人だけでなく、色んな視点で物事を眺めてみたい人にもオススメかもしれません。
人間とは機械だと言い張る老人と、それに反発する青年のやりとりはなかなか面白いと思いました。
マークトウェインの言葉が好きな人へ・・・☆
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マークトゥェイン先生の屁理屈理論炸裂です。人間ってすべて受動態で物事を考える。優しさだって自己満足を満たすための行為でしかない。そう。そうです。読めば読むほどうなづいてしまう私は意志の弱い人間なのでしょうか?
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アメリカの作家、マーク=トウェイン(1835-1910)の著。1906年刊。老人と青年の対話形式。老人は「人間は全く環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械である」と語る。人間存在を考察する上で手がかりの一つとなる著であろう。
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老人と青年の対話の形で書かれたマーク・トウェイン晩年の著作.人生に幻滅している老人は,青年に向かって,人間の自由意志を否定し,人間は完全に環境に支配されながら自己中心の欲望で動く機械にすぎないことを論証する
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人間は所詮どんなに素晴らしい理想を掲げ、自己犠牲の精神を持ったとしても結局は第一に自分自身の精神の満足を考え、他のことは絶対に二義的である。
この恐ろしく機械的で夢も希望もないような理論を掲げたのがかの「トムソーヤーの冒険」などで知られるマーク・トウェインだというのだから驚きである。
この話を書き上げた時に、重病に侵されていた妻や、娘に見せたところ震え上がったというのも無理はない。
心というものを人間は自分自身でコントロールしていると思っているが、それは勘違いであり、心という者は人の意思とは無関係に勝手に考えて回る。
最終的にトウェインは人間というものは心や外的強制力によって、思考させられている機械にしか過ぎず、自分の意思なんてものは到底関係ないという結論に至っている。
人は万物の霊長であると考えてきた人間たちにとって、こんな理論は信じたくもあるまい。だが、本書を読んでいくうちに半ば洗脳的にそれを、完全にとは言わないまでも信じざるを得ないのである。
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人間は自分が決断しているようで、他人によって考え生かされている〜と言う様な感じのことを、老人が青年に延々と対話形式で語る。言ってることは分かるけど、読後、釈然としないと言うか納得できないモヤモヤ感が残る。そんな風に考えても何も楽しくないし、生きてる意味も感じられない。、そんなに悲観に思っているのなら生きる必要もないじゃないか。じゃあ、あんた死ねば?って思ったりするのだが、それを言ったらおしまいか。
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私が読むには五年ほど早い。
半分くらいで読むのを後悔した。
登場人物の老父が言ってることはもっともらしく、のみこまれてしまった。
人間をそうとしか見えない。
畢竟機械であると。
確かに他人のためだけの自己犠牲なんて疑問をもつところだろうけど。。。
この老人の説教を発表することは世界にとって有害であると、作品中の青年も言っている。
確かにこの説教で悲観にくれることはしないと思うけど。。。
うーん。。。
もう少し人生を学んでから読み直すことにする。
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「トムソーヤーの冒険」などで有名なマーク・トゥエイン。対話形式のエッセイで、「人間機械論」ともいうのか、結局どんな人間も機械に過ぎず、善とか愛とかなんて、機械的な反応によるものでしかない、と。晩年の鬱・厭世っぷりが窺える。
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《(人間は)みずから創り出すものなんて、なんにもない。》
こんなことを言われたら、どう思いますか。
ケンカを吹っ掛けるような語りでこの対話は始まります。
読みながら、およそ私の思いつく限りの反対意見を用意して老人に
突っ込みを入れようと試みましたが、思うようにいかない。
それほど確固たる根拠はないように見えるんだけど、なかなか・・・。
”今のあなたは出会ってきた人たちの創造物である”とする心理学の
世界にも通じる話を物語として解説した本。
あなたならこの老人にどう切り込みますか?
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世の中、もしくは人間というものに対する見方が結構自分と似ていると感じたからか、発表時には過激と見られた「人間機械論」などもすんなり入ってきた。でも、どうやらペシミズムをとことん追求していくと、いつしかオプティミズムに転換する瞬間というのがあるのではないかと思う、そんな読後感。百年前の爺さんの屁理屈につきあう感じ。
「なにも金そのものに物質的価値なんかありゃしない。ひとたび精神的価値を奪っちまえば、あとにのこるものは鉄屎だけなんだ。(中略)物質的価値なんかあるもんか。精神を満足させるかぎりは貴重だが、それがなくなりゃ、一文の価値もない。」(p.152)
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この本で老人は人間とは機械ど同様の存在に過ぎず、自発的な行いなど何一つ無いのだと説いている。また人間は必ず自分の欲求を第一にして生きているのだとも。
確かに真実かもしれないが、その結果ペシミズム、もしくは思考停止で止まっている気がする。
この主張をするに至った老人、さらには作者のバックグラウンドについても知りたく思う。
p14.省察だの熟考だのって、そんなものは何にもない。そのまた必要も無い。
p17.自分で自分を支配する力なんか無いし、その所有主だって命令する力はない。
p24.自分の心の満足が得たいという衝動
p56.彼はすべての人間を犠牲にした。ただ自分だけは抜きにして。
p69.これはもう義務を果たすんじゃなくて、つまり、第一義的にはー自分自身のために義務を課すってことだ(義務の内在化)
p74.真理さえめっかれば、探究はもうそれでおしまい。
p77.細君を殴る亭主を監獄にぶち込んで、のうのうと食わしてやってるーところが、罪もない妻子はどうだね、おかげで餓死しそうになってるんだ
p97.つまり、せっせと君達の理想を向上させるように努めることさ。そして自らがまず満足すると同時にだな、そうすれば、必ず君達の隣人、そしてまた社会をも益するはずだから、そうした行為に確信をもって最大の喜びが感じられるところまで、今も言った理想をますます高く推し進めていくことだな。
p104.主人は心なんで、君じゃないんだからな。
p124.「本能」なんていうその無意味な言葉、要するに、それは石化した思考ってことにすぎんと思うな。
p129.だが、いいかね、この鴨にも記憶力と推理能力だけはあった。そしてそれをエディソン流に応用したってことだよ。
p148.たしかに意志ってもんはある。だが、それはおよそそれは正邪善悪の知的判断などとは無関係なんだな。
p151.物質的価値なんてものは無い。あるのは、ただ精神的価値だけなんだ。
p157.所詮人間ってのは機械。ただ道徳的メカニズム、そして知的メカニズムと、いろんなメカニズムからできてるにすぎん。それらメカニズムってやつはな、それぞれ内なる主人の衝動に従って、全く自動的に作用するにすぎんし、そのまた内なる主人公ってやつがだ、これはただ生来の気質と、そして無数の外部からの影響、教育の集積とからなっているに過ぎんってことだな。
p172.もともと国民なんてものは、どんな政治にだって、どんな宗教にだって、いくらでも適応させることができる。
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第四章までの内容、つまり、
「人間のあらゆる行為は、まず己を満足にするために行われる」
という命題について、現代人は、あらゆる行為(特に、道徳的行為)について認めているかは分かれるだろうが、作品が発表された時代よりも受けるショックは少ないだろうと思う。
しかし、その後の章から導かれる命題についてはどうだろう。
「能力は別として、行為を決める心(衝動)の点においては、人間と動物は等しい」
「人が何を為すかは外的作用にまったく依存する」
→「人間に自由意志は存在しない」
(→「人間には善悪を判断する力はない」)
これらについて、否定的な印象、拒否したいと思う人は、第四章までの内容を拒否したい人よりも、ぐっと増えると思う。
なぜなら、世間的(通俗的)な価値とかなり異なるから。
何にせよ、物語の結論において、
「自由意志の否定」と「キリスト教の神を賛美する」ことに矛盾は生じない、
として終わったが、私はこの作品を読み終えて、
「自由意志の有無についての論議は人生に必要ない」
という思いがますます強くなった。
自由意志の否定は非常に論理的であり、一度この思想を知れば生涯忘れることはないだろうが、こういった論証は、今まで人類が悩んできた
「人はなぜ生きたいと思いながらも死ぬのか」
「生死の繰り返しは何を目的としているのか」
といった事柄には決して答えられない。
そして、自由意志を持っていようがいまいが、それを知ったところで何を得られるというのだろう?