ちょっと大風呂敷を広げすぎではないか
2016/08/07 00:40
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
初めに著者は人類哲学というものは人類で初めて私が語ると大仰なことを書いているが、ちょっと大風呂敷を広げすぎではないか?結論は、著者が以前から書いている内容と変わりがない。「草木国土悉皆成仏」も何回も過去に読んだ記憶がある。西洋哲学について、こんなに詳しく書かれていたのは私のこれまで読んできた限りでは初めてかもしれない。が、もしこのような大仰なタイトルを付けるのであれば(まああくまで序説と書いてはあるが)もっとページ数が必要であろう。
草木国土悉皆成仏
2013/05/25 17:49
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投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
環境破壊により危機に立つ人類を持続可能とするためには、「自利と他利の調和を説く思想こそが、近代西洋的な人生観に替わって、人類の思想になる必要があるのではないか(205ページ)」という仮説を本書で証明しています。
すなわち、デカルト・ニーチェ・ハイデッガーといった西洋哲学に批判を加え、「草木国土悉皆成仏」という日本独特の思想に焦点を当てています。こうした梅原説に、全く異論はありません。西洋哲学は自然破壊を認容する哲学であることに対し、自然を畏敬する日本人の思想に誇りを感じました。
ところで、あとがき(210ページ)で「本書で語った日本文化についての理論は、まず間違いない」と自信満々に語っている一方、「西洋文明について(中略)まだ不十分であることを免れない。」と正直に告白しています。確かに「日本の思想」は明快に説明されているのに、「西洋哲学」は梅原氏自身の言葉では語られていません。例えば、次の文章の意味するところは、わかるでしょうか?
「ハイデッガーは理性を表象ととらえたのです。そして、世界を表象する、それは世界を自分の前に立てることだと指摘したのです。そして近代という時代は、世界が像になった時代であると語ったのです。そこには、主体の自己確信がある。主体とは基体であり、人間は基体となった。人間は主体となり、基体となって、世界を自分の前に立った表象に還元する。そこには自我の世界支配の哲学が明らかになった」(107ページ)。
・・・私にはさっぱりわかりません。高校時代の倫理社会の悪夢を思い出しました。本書も何度も挫折しそうになりながら、何とか読み終わりました。それにしても、どうして哲学者は万人に理解できるような言葉を使わないのでしょうか?
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著者が行なった同タイトルの講義(全5回)をまとめた1冊。講義体の語り調の文体であること、極力平易に哲学を伝えようと努められていることもあり、「哲学」の本としてはとても理解しやすいと感じた。デカルト、ニーチェなどの哲学感から、今後を支えるであろう人類哲学、森の思想まで、なるほどと思えるところの多い本でした。
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これほどわかりやすく「哲学」を書いていただくとうれしい限り。
青春時代に悩まされた哲学者の理論をあっさりと解説してくれてます。
しかも、日本人の起源にも触発されて、考え方も変わりました。
とにかく、平易な文で読みやすいし、特別、洗脳しようなどという傾向もありません。
純粋に、今こそ、日本の文化、思想、哲学を世界哲学へと紹介していかなければならないのだなぁ・・・と感じさせられました。
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第四章の、プラトンのイデアはエジプトに起源を持つという説を吉村作治が唱えてる、という話が面白かった。カーという概念がイデアの原型ではないかいうことです。ユダヤ教の起源に関して吉村作治がイクナトンのアテン教ではないかと言ってると、書いてあるが、これは少し不正確かも。この説は既に昔からあって、フロイトなんかも主張していて、それに関する筑摩学芸文庫から訳本が出てます。
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著者の哲学に対する思いが良く伝わってくる。
講義録をベースにしているからか、高校生くらいまでの読者を想定した哲学の本よりも理解しやすかった。
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久々に待ちかねて買った本。
著者はもともと西田幾多郎にあこがれ、「西洋哲学」学者ではなく、独自の哲学の完成を志していた。その彼がある時期から仏像評論やら古代史ならびに仏教研究へ、はては縄文・アイヌ研究へと手を広げる。初期のころの作品から追い続けている読者からすると、自前の哲学の完成という初志とはずいぶん遠回りをしているかに思えた。出版業界では、しかし売れっ子であった。
哲学へと回帰するチャンスは何度かあった。少し前は90年代の「森の思想」のころ、あるいは「日本冒険」のころである。しかし哲学へは帰ってこなかった。ようやく3.11を契機に、原発事故を文明災とみなし、ようやく西洋哲学批判とその克服という初期の問題関心へと回帰していった。
正直なところ、その遠回りした豊富な成果をふまえた、梅原哲学を読みたかった。しかし内容はというと、物足りなさだけが残った。デカルトとハイデガーとニーチェを、梅原猛が改めてちゃんと読みましたよ、というものだったからだ。そういうことは、「日常の思想」とか「文明への問い」とかでも言っている。それに引用を付けたような恰好である。
西洋哲学の祖述のあとは、シュメールの神話『ギルガメシュ』の森林破壊の物語がヨーロッパの思想へ注ぎ込まれていること、あるいはエジプトの太陽神が古代ギリシャ哲学と結びついていること、そんな発展の先にヨーロッパ哲学があって、それらが限界にきている。その一例として人間中心主義が、心身二元論や環境問題や科学万能主義などの弊害が挙げられている。その克服を可能とする思想はあるのか。あるとすれば、それは東アジアだろう。草木国土悉皆成仏という天台本覚思想がそれである、というのが大まかな内容である。
はたして梅原を読み続けてきた読者が、本当に読みたかったのは、そんなことであろうか。ちがうだろう。読者が読みたかったのはどんなものなのか。それは梅原が現代の思想に必要だと考える、日本仏教の本覚思想、あるいはそれとも関係の深い縄文アイヌの森の思想、それらを西洋哲学と対峙させたときに完成されるはずの「人類哲学」だったはうだ。しかし本書には克服も対峙もなされてはいない。ただ並べて論じているだけだ。
もちろん、あいかわらず運筆力はずばぬけている。おもしろいと受け入れられるだろう。けど、他方において、これまたあいかわらずの甘さも目立つ。シュメールもエジプトもオリエントだから、広い意味でのアジア(オリエント)だ。ならば、その後に生まれた東アジアの文明も、ヨーロッパと同様、オリエント文明の影響下にあるといえるのではないか。しかし梅原は、そのことには触れず、ただ西洋はシュメールとかエジプトとかの思想を引き継いだとのみ述べる。そして別の原理が東アジアにはある、と述べる。
とはいえ読みごたえのある個所もあったことは確かである。3章の後半である。ハイデガーによるヘルダーリンの詩を論じたあと、日本の和歌を挙げ、日本では詩歌は人間だけのものではなく、鳥も蛙も詠む。それは本覚思想とも結びついている、といっているところなどだ。さらにその後の文章は、伊���若冲の絵の評論へと接続される。
この部分は、かなり重要なところではないか。これをちゃんと論じれたたら、確かに、西洋哲学の克服の手掛かりはつかめそうな気がする。
それと、これは確実にいえることだが、中高生とか、できるだけ若いひとが、この本を読むことは、たいへんいいことだと思う。学問とか哲学の入り口としての役目は、十分に果たしてくれるものである。おそらく著者が生涯かけて提出し続けていることは、素人感覚でもじっくりと味わうことのできる解釈である。仏像も仏教も古代も法然も京都の寺社、歌舞伎も能も、著者の手にかかると、本当に生き生きとしたものとなる。玄人の独占物を素人に届ける役目、そういうことを著者はやり続けてきたのである。読者はその入り口をぬけ、それから先は思い思いにそれぞれの建物を探検すればいいのである。
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人間中心の西洋哲学の論理では先行き不透明な現代を救済できないということで、武器として天台本覚思想「草木国土悉皆成仏」を引っ張りだす。
文明・科学技術 VS 自然との共生。
実にストレートな提言。
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梅原猛『人類哲学序説』岩波新書、読了。ギリシャ哲学とユダヤ・キリスト教に基礎づけられた(西洋文明の)核心とは人間中心主義であることは論を待たない。徹底的な「支配」の思想と梅原は言う。しかし、そのオプションとして(瑕疵を失念した)天台本学思想を持ち上げるとはいやはや。てか、お約束か。
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「草木国土悉皆成仏」をキーワードとして日本仏教・文化を説明できるとの考え方が貫かれている明快な日本文化、哲学の入門書だった。特にデカルト、ニーチェ、ハイデッガーの説明は最高! デカルトが近代哲学の父としてどれだけ重要な存在なのかが、改めてよく分かった。デカルトの人生を生きていく規則(4つの格率)、方法序説の4ヶ条の説明など。ニーチェの「アンチクリスト」ではキリストを無私、愛の人として高く評価しているというのも面白い。ショーペンハウエル、ニーチェ、ハイデガーが「意志」に重きを置く哲学だという説明も分かりやすい。なお、世阿弥「白楽天」の紹介の中で、和歌の神・住吉明神との問答は実に楽しい話。「日本では人間ばかりか、鶯も、蛙も歌を詠む」との言葉で白楽天が驚いて帰っていく!実に痛快な言葉で日本文化を言い当てている。
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3.11を経験した筆者がその違和感を探って思いついたのが、草木国土悉皆成仏、デカルトの思想の批判、アイヌや宮澤賢治の再発見である。ニーチェやキリスト教への言及もあり興味深い。
デカルトの方法序説は確かに便利だが、そこで見落とされるモノが今回の自然災害を発端とする災厄の元凶であり、その理由や西洋思想では理解し難いであろう日本的な考え方とその土壌について丹念に述べている。
私も技術者である前に人間として、自分に問い直したいと思った。
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物語や神話ではなく理性で世界を説明してくれるのが哲学だと思っているから、生きる理由を宗教で解説されても説得力がないんだよな。じいちゃんになると西洋哲学から離れて、日本の宗教に傾倒して死への恐怖から逃れるんだろうなと思った。
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老いてなお血気盛んな哲学者・梅原猛の「人類哲学宣言」。
主義主張的には個人的に相容れなさそうな部分もあるけれど、それにしても著者の年齢にしてこの意気は凄いと思います。
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哲学者である著者が、西洋哲学への批判と、日本の伝統思想がもたらす新たな可能性への期待を語っている本です。
西洋哲学の礎を築いたデカルトの理性中心主義、それを批判したニーチェの主意主義、ハイデガーの実存論、存在論を紹介し、さらに西洋思想の根底にあるヘブライイズムとヘレニズムにまでさかのぼって、西洋の思想、とくにその自然観がいきづまっていることが論じられます。そのうえで、日本の伝統的自然観、とりわけ日本仏教の「天台本学思想」と、親鸞の「二種回向」の思想が、人間と自然、人間と社会の新しい関係を切り開く原理になるのではないかという展望が示されています。
西洋哲学のあまりにも性急な切り捨てに、不満を感じるところがあります。かなり大雑把な文明批評という印象です。
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人類文化を持続的に発展せしめる原理とは?......
かつてとんでもないSF映画があった。
「インデペンデンスデイ(ID)」。
地球人が宇宙人のマザーシップにコンピュータウイルスを感染させてバリアを破壊、攻撃するというあまりにも想像力プアーなあらすじは、ゴールデンラズベリー賞の最低脚本賞にもノミネートされたほどだ。
この映画を揶揄したのが「マーズ・アタック!」で涙が出るほど笑える傑作だったが、IDは笑うどころか退屈して寝てしまった。
IDまでひどくはないものの、宇宙の知的生命体を探している科学者の多くも、それらは宇宙船に乗って来ると思い込んでいる。
宇宙は気が遠くなる広大さなのに、三次元の人間レベルで考えてよいのであろうか。
例えば、宇宙のどこかの星には空飛ぶアメーバのような四次元的な生き物が栄えているかもしれない。だが「神は自分に似せて人を作った」と聖書にあるように、人は古来から自分の範疇をなかなか越えられない。
梅原先生は、デカルトの「われ惟う、ゆえに我あり」に始まった近代の西洋哲学を大まかにおさらいしながら、批判を加え、これからの世の中の核になるべきは仏教由来の「草木国土悉皆成仏」という思想だ、と主張している。
デカルトの機械論の展開が科学技術を発展させるきっかけとなり、人間社会はここまで来た。
その究極が原爆であり、原発である。
だが日本人はその恐ろしさを身を以て知っている。
地震、火山、台風。
人や土地を飲み込む自然の恐ろしさも知っている。
だが西洋哲学では、人間を常に中心に置いて考える。
自然は人間が征服するものであると考える。
この思想を明治以降の日本人は必死で学んで来たが、この哲学が日本人を、ひいては人類をよく導いたと言えるだろうか。
ところで、21世紀に入ってからの、西欧における日本ブームには驚く。そこここでZEN ◯◯という商品が売られ、つい20年前まで「生の魚なんて食べられない」と言っていた彼らが箸を上手に使って寿司のランチを食べていたりする。
この日本への傾倒は一体なぜなのだろう。
仏教用語である「草木国土悉皆成仏」に落とし込むことが正しいと私は思わないが、日本のアイデンティティ、日本的価値観を西洋的手法を使って分析し、系統立てて解説することが、日本を知る哲学者、思想家の急務であると思う。