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表紙を飾るクリムトの水蛇は美と死をイメージするのでしょうか。本巻は源氏の死から宇治十帖の前半まで。匂宮・紅梅・竹河は単調でつなぎの役割と思っていましたが、毬矢+森山訳は艶やかですね、ワクワクしました。光源氏のいた頃とは打って変わり色のない世界が広がる宇治十帖でしたが、息遣いが感じられて素敵です。本シリーズは登場人物の思いや考えが書かれているので源氏物語がわかりやすく読めます。最終巻に期待が高まります♪
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ゲンジが…! ゲンジが死んじゃった。。こんな風にいなくなるなんてと茫然とす。そしてアオイを喪った哀しみがゲンジの死と共に波のように寄せてくるのだ。ゲンジがいない源氏物語なんて、あと1巻と半分、どうやって読みきればよいのだ!とうろたえる。が、このあとがまた面白くなってきて…
1、2巻よりも断然カラフルで華やかな3巻。まさに、源氏繁栄のクライマックス。ゲンジの死で初めて、これは彼のものがたりではなく、女性たちが主役の絵巻なのだと気付く。
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100年ほど前にアーサー・ウェイリーが英訳した「源氏物語」をその英語訳の香りを残しながら日本語に訳し戻したまさに翻訳(翻る訳)版源氏物語の第三巻。
源氏がかつて政界を追われ明石に隠遁していた時に明石の君との間に生まれた明石の姫君の裳着(成人)の儀式と入内を描いた「梅枝」から始まり、光源氏の絶頂期とその凋落の兆しの最長編「若菜」、そして光源氏亡き後の「匂宮」以降、宇治十帖の「総角(あげまき)」までを収録。
源氏物語という日本の古典と、片仮名言葉の融合。そして、ある時登場人物はとても躍動的に描かれる。それはいわゆる現代語訳の「源氏物語」とは趣が異なる。しかし、それは英語圏の人たちに日本の文芸作品を知らせようとした工夫から来るものであり、グロテスクではない。
英訳したアーサー・ウェイリーは英国における東洋学者。独学で中国語や日本語を学び、アジアの文化を欧州に紹介しようとした。
「源氏物語」も8年かけて訳している。とても単なる日本好きができる事ではない。英語訳はそこから更に多国語に訳され、ベストセラーとなった。
今回或る読書会で日本語訳をされた毱矢・森山姉妹にお話を聞く機会を得た。
その中でウェイリーが懸命に源氏物語の世界を理解しようとし、それを英語として表現するための機微を知る機会を得た。
例えば「あはれ」という日本語をウェイリーはその場面や状況に合わせて異なる英語に置き換えているという。
また、ウェイリーの書いた英語のリズムや、英語の古典作品を意識したであろうと思われる文体に出会えば、それを意識して日本語訳を考えたという。
それを敏感に感じ取って翻訳をした姉妹のセンスに脱帽する。
Amazonの書評を見ると批判的なコメントも目にする。
曰く「翻訳は原作を超えられるものではないのに何故わざわざ日本語訳するのか」
これは通常の翻訳の価値をも不当に貶めている。多くの源氏物語の現代語訳もまた翻訳だが、もし原作を超えられないと翻訳は意味がないとするならば、全てGoogle翻訳などの機械翻訳に任せればよい。一つの原作を様々な翻訳家たちが競って訳するのは、そこに原作を伝えたいという翻訳家の葛藤があるからで、原作と価値を比較するために翻訳があるわけではない。
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源氏物語を角田光代版/谷崎潤一郎版/アーサー・ウェイリー版で同時進行しています。
ウェイリー版三巻は『梅枝(うめがえ)』から『総角(あげまき)』まで入っています。
栄誉を究めたゲンジから、子供や孫に代替わりした『源氏物語』の行方や如何。
ゲンジの死までの巻ごとの内容は角田光代版で。
中巻『幻』まで
https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4309728758
『匂宮』から『総角』の内容は谷崎潤一郎版で。
https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4122018412
こちらにはウェイリー版での特徴を書きます。
イギリス人のウェイリー先生に日本語や日本文化を教えていただいています。
❐ゲンジと妻たち
ゲンジは姪に当たるニョサンを妻として…。そうそう、私達には「女三の宮(おんなさんのみや)」で覚えている朱雀帝の姫は「ニョサン」って訳されてるんですよ!訳注によると日本の文章で「如三」などの表記もあり「ニョサンノミヤ/ニョサン」と読むんだって!他にも「女五宮」は「ニョゴノミヤ」という根拠もあるとのこと。イギリス人に日本語を教えていただきましたm(_ _)m
それでですね、ニョサンちゃんが妻になったので、事実上の正妻だったムラサキちゃんはとっても複雑。退けられれば悲しいし恥ずかしい。しかし大事にされれば自分がニョサンちゃんをいじめていると思われるだろう。こんなに年月が経ってからこんな思いをするとは。この先自分の気持ちに平安はもう無いのだということを覚悟し、しかしその心の動揺を決して知られないようにすることを決める。この決意でニョサンちゃんにもおおらかに接したのでゴシップ好きの人々をすっかり白けさせたのでした…。
このあたりの紫ちゃんの強さと、古今東西ゴシップ好きよねという人々の描写。ウェイリー版だと感傷的ではないのだが、しっかりわかるんです。
❐ウェイリー版での名前
「源氏物語」は、男性は位や順番(〇〇大臣、一宮)、女性は部屋の名前(桐壺、対の方)や順番(女三宮、大君)などで書かれる。それではややこしいので、現代では、光君、葵の上、夕霧、などの巻の名前や本文に出てくる和歌を固有名詞代わりにしている。
そしてウェイリーも欧米読者にわかりやすい名前を付けている。中ちゃんはどんなに昇格しても「トウノチュウジョウ」だし、その姫で冷泉帝の女御は「レディ・チュウジョウ(原文では弘稀殿女御)」。
そして女性たちにはオリジナルの名前を与えている。
・紅梅くんと、最初の妻の姫:大君⇒オオイギミ/中君⇒ナカノキミ ※原著と同じ呼び名
・髯黒と、玉鬘ちゃんの姫:大君⇒ヒメギミ/中君⇒ワカギミ
・八宮の姫:大君⇒アゲマキ(総角)/中君⇒コゼリ(小芹)
また、ゲンジ亡き後の中心人物であるカオルくんとニオウくんの呼び名にはこんな説明がされている。
天性の芳香を漂わせる薫中将は<ザ・フレグラント・キャプテン>、お香を焚いて対抗する匂兵部卿には<ザ・パヒュームド・プリンス>との説明が。
天性が薫ってフレグランス、人工物が匂ってパヒュームなのか?
❐代替わり
代替わりしてみると、ゲ���ジやトウノチュウジョウは女性にも政治にも精力的だったなあと思った。
ユウギリくんは卒なく出世して子どもたちも栄えてはいるが、若者からは煩がられているような^^; まあ気持ちはわかる。きっとゲンジのような「見ていると楽しくなってくる」ような余裕が夕霧くんにはないんでしょう(^_^;)
さらにその下の世代だともっと精力が弱まっているような。カオルは出生の秘密もあり妙に達観している。ニオウくんはわがままお坊ちゃん振りを見せる。ユウギリ・クモイ夫婦の秘蔵っ子クロウドは恋愛にウダウダグジグジしているだけ。この不甲斐なさには、夫を亡くしたあと女主として采配を振るいながらも苦労もするタマカズラちゃんからは「この若者たちはうんざりするわ。なんでも自分たちの思い通りなのに甘えて名誉や昇進をなんとも思っていないんだから。私の子どもたちなんて後ろ盾である鬚黒が亡くなってしまったから宮中の昇格や結婚が相当不利なのに」と嘆かれる始末だ(-_-;)
❐貴公子ってスポーツマン!?
蹴鞠が「フットボール」として訳されている!(´▽`)ユウギリくんやカシワギくんたちプレーヤーたちは、ハット(冠)の紐が解け盛りの花を散らすほどの激しくボールを蹴り合い、大鉢の松・楓・柳・桜の間のゴールポスト(盆栽?)でプレー競う。
他にも賭弓は「アーチャーのバンケット」、相撲は「レスラーのバンケット」
平安貴公子が、中世騎士のよう!
確かに貴族といっても状況によっては戦争もありますし、武芸は嗜んでおかなければいけませんね。それでも「庭でサッカーしてます」といわれると貴公子の生活がわかりやすい。
※ただし、王朝文学に詳しい友人にこの訳の話をしたら「ぜんぜん違う(ーー)」と受け入れがたかったようです…
❐訳していない箇所
ウェイリー版は何箇所かは原文から訳していない箇所もある。
ニョサンちゃんを妻にしたゲンジがムラサキちゃんを気にしながらも朧月夜と関係再開させるところ。このくだりは「なぜこんな時に!?」と思えるので省くのはわかる。
レディ・ロクジョウの怨念が彷徨っていると知ったアキコノム皇后が出家を願うがゲンジが許可しない『鈴虫』。私はレディ・ロクジョウが、ムラサキちゃんやニョサンちゃんにまで取り憑いたというのは「ここまできたらもはやあっぱれ、このまま祟神になれそう」(・o・)と思ったので、解決しないまま流れちゃったなと、個人的には残念う感じはする。
そしてムラサキちゃんを悼む『幻』の巻と、ゲンジが亡くなったであろう『雲隠』の巻は丸ごと削除。『雲隠』は入れてほしかった。巻の名前だけで中は白紙って、紫式部と当時の日本文学の意志なんだろうし。
❐欧米概念で
ニョサンちゃんが出産したカオルを見ながら、ニョサンちゃんのことを<穢れなきレディがP253>と思う。英語では「immaculate」で、カトリックで「無原罪の御宿り」(イエスを宿したマリアには原罪がなかったという教義)に使われる言葉ということ。つまりウェイリーはゲンジがニョサンには原罪がないという「赦し」を与えた可能性を見せる。
この場面は静かで穏やかで良かった。ニョサンちゃんも、ゲンジも、穏やかな気持ちを持てたのなら良いと思う。
❐ウ��イリー先生の古語教室
ウェイリーは、日本では音楽用語の「哀しい」と「美しい」が同義であり、音楽では「あはれ」が「おかし」でもある、悲しくも美しいという意味、そして「あわれ」とは憐憫の情とともに賛美の念をも表す言葉だと紹介する。
『橋姫』以降のいわゆる『宇治十帖』では、長文の連続を使い、西洋文学手法にあった「意識の流れ」のようになる。うつくしい、読みやすい。
❐日本の宗教観
改めて日本の宗教観って不思議だなあと思った。
帝って神道のトップ。しかし引退は仏教の出家、日々の行動を決めるのは陰陽道(宗教じゃないけど)。
なにかというと「出家出家」というけれど、現世で身に余る栄誉を受けてしまうと子孫に障りが出るという考えだそうだ。しかし「女性の五障がある」という考えは、女性の立場の不安定さにも繋がっているのかなと思った。
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やっと、本編読破。
あとは、宇治十帖のみ!
アーサー・ウェイリーさんは、日本には一度も来たことがなかったんですね。
それなのにここまで訳せるなんて!
アーサー・ウェイリーさんに、日本を観て欲しかったなぁ。