野口さんの古典への誘い
2024/09/22 22:30
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投稿者:mistta - この投稿者のレビュー一覧を見る
「超勉強法」の野口さんによる古典への誘い。
野口さんらしい視点で古典の魅力、面白さが解説され作品を読みたいと思わせる。
「古典回帰」という言葉が有る。野口さんの言葉により改めて古典は素晴らしく、読むべきものだと
思わせる一冊です。
現代人に多くのことを示唆する、それは古典
2020/04/05 22:33
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つばめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は著名な経済学者である。経済学者の読書紹介だけに、経済学の古典が含まれていると思いきや、それは一切ない。古典について著者は、「数百年以上の期間にわたって生存し続けた作品は、生存し続けたという事実そのものによって、現在生産されているものに比べて、平均すれば優れたものであるという評価ができるはずです。」と記述している。著者紹介の古典の一例をあげると次のようになる。◆イエス・キリストは人類史上で最強の説得者であり、「聖書」により説得術を学ぶことができる。◆組織のメカニズムを知りたければトルストイの「戦争と平和」◆シェイクスピアの「マクベス」により、人間関係や人間心理の微妙さを理解でき、これはビジネスのノウハウを得ることになる。奇しくも、とある雑誌の最新号編集後記に、イランで40年前、444日にわたって拘束された米国の大使館員は、図書室を頻繁に利用した。なるべく「長い本」・「考える本」が好まれ、その一冊がトルストイの「戦争と平和」であったとの記述がある。
ただし、ゲーテの「ファウスト」はドイツ語で読もう。翻訳で読んでも筋書きをなぞったことにしかならない。ドイツ語を習わなかった人は、これから勉強すればよい。「ファウスト」を読めるだけで、十分価値があるというのだが、著名な経済学者の知的レベルは当然ながら一般人とは大きくかけ離れていることを痛感させられる一冊でもある。
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偏見や矛盾に満ちている気はするが、著者が、紹介した作品を本当に面白いと思っていることは強く伝わってくる。
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テレビで観た勝手な推測だが、野口悠紀雄氏は対面会話ではあまり面白い方の様には思えない。上から目線的な所を感じてしまうし、かみ砕いて手取り足取り手引きしてくれる感じを受けない。
ところが、著作(但し経済書を除く)においては、元々備わっている文章力にその性向が加わると非常に面白いものとなる。風貌と異なり、案外と感受性の強い面や涙もろい所も文章から読み取れる(というか、ハッキリ書いてある)。
今回はロシアものなどの長編小説や、私が避けてきているSF小説も出てくる。これからの読書計画に高い壁が出来てしまった。
彼の読書好きは学生時代からの様だが、彼の興味に火をつけた日比谷高校そしてその先生の授業を羨ましく思う。今でもその様な伝統は続いているのだろうか?
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古典読まなきゃ。
トルストイ戦争と平和 アンナカレーニナ
ドストエフスキー 罪と罰 カラマーゾフの兄弟
トーマス・マン 魔の山 ヴェニスに死す
ヘッセ 車輪の下 ロマンローラン ジャンクリフトフ ベートーベンの生涯 ユーゴー レ・ミゼラブル
島崎藤村 夜明け前 志賀直哉 暗夜行路 谷崎潤一郎
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"古典"というよりも、何回も読むことに耐えられ、その世界を持っていることがその人が生きるうえでの糧となり、その人が豊かでいられる、そういう本を持っていて、それを楽しめることがなんとすばらしいことか!ということを訴えている本。作者のテンションが高いのが伝わってきて、読むのが楽しい。
ただ、ひとつ言えるのは、そうした”豊か”な本は得てして長大で、若い時にしか没入して読み切れない、ということ。やはり若い時に”古典”を読む、ということは大事。もちろんいくつでも遅すぎる、ということはないので、いちばん若い”いま”に、思い立ったら読むべき。
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著名な経済学者による、外国文学の古典を紹介した本。恥ずかしながら、私はここに紹介されている古典は1つも読んだことがない。著者は、学生時代からこれら外国モノの小説を数多く読んでおり、その読書習慣が、著者の今の地位を築く基盤になったのだと思う。著者にとっては、かなり思い入れの強い本ばかりのようで、古典への想いを熱く語っている。今後の読書の参考としたい。また、今回は外国文学ばかりが対象となっていたが、日本文学についても紹介してほしいと思った。
「「昔作られたもの」の中で、現在、われわれが見たり聞いたりすることができるのは、長い淘汰の過程をくぐり抜けてきたものだけなのです。「淘汰されなかったものは、淘汰されたものに比べて価値が高い」と考えるのは、多分正しいでしょう。ですから、古典は平均すれば「淘汰されたものに比べて価値が高い」と言うことができます」p7
「これから分かるのは、沢山の情報を持っているからといって、事態の本質を正確に評価できるとは限らないことです。重要なのは、大量の情報ではなく、背後にある運動法則を正しく把握できるかどうかなのです」p51
「破綻した組織の中にも、ビジネスモデルの転換を熱心に主張した人がいたことに注意が必要です。問題は、それらの人々が組織内で権力を握れなかったことです。つまり破綻した金融機関は、破綻を回避できるようなトップを選べず、現場の情報を意思決定に反映できなかったということです」p59
「多くの人が望む内容の決定をする人が経営者に選ばれるのですから、会社も、トルストイが言う通り「関わりを持つ人々の総意の一致」によって動いてることになります」p60
「仮にサッチャーが現れなくても、彼女と同じように国営企業を民営化し、労働組合と闘った別の人が現れたはずです。その結果、実際にそうであったのと同じように変貌したでしょう。つまり、イギリス社会がそのような政治家を必要とし、生み出したのです。仮にゴルバチョフが生まれなかったとしても、彼と同じようにペレストロイカを進めた指導者が、衰退するソ連に現れたはずです。ヒトラーやスターリンについても、同じことが言えます」p61
「(どんな人にも効果を発揮する有効な褒め言葉)あなたは、本当は実力があるのに、正当に認められていない」p81
「古典というのは「長くて難しくてつまらないもの」と相場が決まっている」p99
「紙に印刷することが必要であった時代には、ある程度以上の価値のものしか供給されることがありませんでした。しかし、インターネット配信の場合には、複製と配送のコストはほぼゼロです。このため、極めて価値が低いものも供給されるようになってしまったのです。そして、供給量が爆発的に増えています。「昔は、文学者が本を書いて、大衆が読んだものだ。いま、大衆が書いて、誰も読まない」」p263
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読みたい本のうちの1冊だが、著者の野口悠紀雄さんと言えば、やはり、『超整理法』が一番知られているような気がする。
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自分の読書で圧倒的に足りないのが「古典」だ。
ということでガイドブック的に活用しようと本書を購入。
当初の目的に十分かなう一冊だったのだが、ちりばめてある一言一言が染みてくる本でもあった。
例えば…、
「歳をとれば肉体能力は低下しますが、知的な能力は高まります。問題は、高まった能力を使い切るだけの時間的余裕がなくなることなのです」
(能力が高まっているかは別にして…)まさに今の自分。積みあがった本を前に「これ死ぬまでに読みきれるのか?」。大量の楽譜の山を前に…、沼にはまったレンズを前に…、ずらりと並ぶ酒瓶…、趣味もリストラが必要かも。
オスカーワイルドは100年以上前に、「昔は、文学者が本を書いて、大衆が読んだものだ。いま、大衆が書いて、誰も読まない」と今の状況を予見していたとか。
今生きてたら、「いまビジネス書を読みたい人より、ビジネス書を書きたい人の方が多くて、誰も読まない」とか言うんだろうか。
SFも足りてないジャンルなのだが、熱い解説を読んで試してみたくなった。あ、また本が増えてしまうか 笑
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冒頭、本に囲まれているときが一番幸せという話が出てくる。これを目にしたのでこの本を手に取ったみたいなもんで、本当にその気持ちはよくわかる。
どんな本屋でもいいわけではないけど、なんか幸せなんだよな。でも時々、あれもこれも、まだ読んでないなとか、読まなきゃなとか強迫観念に囚われてしまうようなときがある。
だからかな、最近は、何度も何度も読み返せるようなそういう本を早く見つけたいと思うようになったことも、この本を手にした原因かもしれない。
そういう意味では、ちょっと残念だったけれど、マクベスとかアンナカレーニナとか、これらは読んでみようと思う。
最後にまるで、この本にはこういう“教養”がたくさん詰まってるんだぜと言わんばかりな索引がある。これはこれで面白いなと思った。
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著名な経済学者が自分の好きな古典について独断と偏見と良識に基づいて語る本。
トルストイの「戦争と平和」、「アンナカレーニナ」はちゃんと読んだつもりだが、驚く程あらすじを憶えてなかった。著者派瑞山性格に覚えているもんだ。
19世紀の小説は古典だが、1960年代の音楽は古いだけで古典とは言えない、という主張には全くもって賛同できず、リアルタイムで経験したものは古典とは思いにくい、ということだろう。
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本好きの一人として、古典は功利主義的、効率的で価値があるので読むべきという目的にはあまり賛同できない。淘汰の末に時代を経て残るものの価値については分かる。しかし、古典が現代でも読まれ続けるのは、考えようによっては偶発的な事象。教材として取り上げられたり、引用する新刊が多く、社会の共通言語と成り得たからだろう。公的にリンクが貼り付けられ過ぎて、リンク切れには出来なかった。一面では、ただの現象論とも言える。
古典の代表作は、聖書だという。キリストは譬え話を多用。人々は理解力が低いから、と。しかし譬え話は詐術。AだからBという論理形成においてAを誰もが納得するような譬え話でロジックを組むと、人はAを理解する弾みでBの理解を誘導され易くなる。例えば、ラクダが針穴を通れないように、金持ちは天国に行けないという説教だが、これなんか、全く何故金持ちが天国に行けないかなど説明していないのだ。古典と新書の関係もこれに通ずる。理解力の低い人々、いや、現代に合わせた理解の助長が必要な人々(私を含めて大半の人達)は、古典ではなく、譬え話としての新刊が必要だ。
古典の価値は様々だろうが、そもそも読み難い。読み難いから、文脈をあれこれ思考する。この対話作業が読書の充実感を齎し、対話の中で現在の自らに類推させて当て嵌める所作を経ることで、オリジナルの納得感に浸れるのだろう。勿論、真理を追求するに古典の方が一義的価値が高い事は否定しない。しかし、世の古典には現象論的に残存したものが多い事やその読み方は効率的とは異なるだろうと私的な感想を残しておく。
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790
私は大学で教える仕事を長年続けました。大学教授に特権というものはありませんが、 大学図書館の書庫に入れることは、間違いなく例外的な特権だったと思います。 そこは、普通は誰もおらず、静まり返っていて、見渡すかぎり棚に並んだ本だけが見え る空間です。 私にとって書庫は、最も心が落ち着く、世界で最高の場所です。ここで本に囲まれてい ると、とても安心した気持ちになります。
気が滅入るとき、不安に駆られるとき、あるい は傷ついたときに、ここに逃げ込んで好きな本と 対話すれば、安心できるでしょう。
私が持っている『戦争と平和』の上下2冊の本は、金持ちの人が持っている高価な宝石 や多額の金融資産より、遥かに価値が高いものです。
これから分かるのは、沢山の情報を持っているからといって、事態の本質を正確に評価 できるとはかぎらないことです。 重要なのは、大量の情報ではなく、背後にある運動法則を正しく把握できるかどうかなのです。
トルストイが書いたのは戦場の状況ですが、企業の現場も同じです。状況変化のスピー ドが激しい戦場では、情報が不十分な中での意思決定が求められます。この状況は、現代 企業の現場と本質的に同じものです。 経営書を100冊読むよりは、『戦争と平和』を読むほうが、経営には遥かに有益でしよう。
道を歩いていると、携帯電話を持って取引の話をしながら足早に歩み去っていく人がい ます。この人はおそらく『アンナ・カレーニナ』を読んだことはないでしょう。これから 読もうとも思わないでしょう。その人に比べて、私のほうが豊かな人生を経験したと、私 は考えているのです。
もっとも、こうした人たちの行動にまったく意味がないとも言えません。それは選別過 程を手助けしているからです。この人たちが積極的に選択をしなくとも、(人工知
能)が彼らの行動をモニターし、分析しています。 選別の過程がないと淘汰のメカニズムは働かないのこの人たちは、結果的には社会の進歩に寄与していることになります。 その意味で、「ご苦労さま」と感謝しなければならないでしょう。 これはもちろん皮肉ですが、真面目な話として言えば、考えを変えて、古典に目を向け てほしいと思います。 古典に接するのは望めば簡単にできることなので、そうしたチャンスを知らないで過ご してしまうのは、あまりにもったいないことです。
古典を読むほうがよいというのは、決して高尚な精神論ではなく、単純な計算からの、 極めて功利的な損得論なのです。
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読書家であり経済学者の著者は、「古典を強くすすめる」といいます。
組織のメカニズムを知りたければトルストイの『戦争と平和』、人を説得する術を知りたければシェイクスピアの『マクベス』。
深い洞察力を持った文学者が書いたものは、現代人に多くのことを示唆してくれます。
外国文学が主に紹介されています。
紹介されている本を、改めて読んでみたいと思いました。
歳をとれば誰でもmaturedになれるわけではないのですが、年齢が必要条件であることは間違いありません。
したがって、私は「アンチエイジング」という概念に反対です。
「アンチ」というからには、「エイジングとは抗すべきもの、望ましからぬもの」という前提があるからです。
しかし、右に述べたように、そうではないのです。歳をとれば肉体的能力は低下しますが、知的な能力は高まります。問題は、高まった能力を使い切るだけの時間的余裕がなくなることなのです。
ですから、地団太を踏むのです。やりたいことが増えるのに、使える時間は減ってゆく。余計なことをやってはいられません。 ー 88ページ