紙の本
歴史上の言説分析から合理性の型の多様さを描き出さ、思考の臨界点に挑んだ「知の考古学者」の到達点を知ることができる貴重な一冊です!
2021/02/10 09:56
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、社会理論、現代社会論を専門に研究され、『消費社会と権力』、『さまざまな貧と富』、『探偵小説の社会学』、『ベースボールの夢』、『ロジャー・アクロイドはなぜ殺される? 言語と運命の社会学』などの話題作を発表されてきた内田隆三氏の作品です。同書では、世界について人間について展開されてきた西欧の思考空間にはどのような限界があったのかということをテーマに、表象への傾き、理性との間合いの取り方を筆者独自に考察され、人間に掛けられたそれらの「鍵」をフーコーはどう解こうとしたのかということを丁寧に解説された貴重な書です。歴史上の言説分析から合理性の型の多様さを描き出さ、思考の臨界点に挑んだ「知の考古学者」の到達点を知ることができる一冊です。なかなか内容的に難しいのですが、同書を読めば、フーコーの思考が理解できます!
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フーコーの最良の入門書として30年にわたって親しまれてきた定番が、全体の四割におよぶ長大な「序文」を付して文庫化。「知の考古学者」の全体像に迫る。
2020/09/08 17:31
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投稿者:ぴんさん - この投稿者のレビュー一覧を見る
フーコーは難解で有名だ。内田氏の文章も玄人向け。デリダのフーコー批判が援用されてフーコーの初期の著作が考察されていて情報密度がとても濃い。けっこう読み進めるのに集中力が要るし、エネルギーも使う。でもフーコーに手こずったら、まず真っ先に本書を薦めたい。言葉を、狂気を、監獄を語るフーコーの視線はどこに到達したのか。新たに序文を加え、アルシーヴの奥を見た思想の内実に迫る。
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本書は、1990年に刊行された『ミシェル・フーコー: 主体の系譜学』に対して、長大な序文を付けて講談社学術文庫より「改訂増補版」として出版したものである。序文は長さでは全体の四割に当たる。1990年と言えば、日本におけるフランス現代思想もまだまだ活況を呈していたころだったと記憶している。例えば、浅田彰の『構造と力』が1983年刊で、そこからしばらくはフーコーも含めたフランス思想を中心としたポスト構造主義の思想家が日本でも盛んに紹介されていた。そのときに書かれたこの本を、序文を付すものの、敢えて過去の著作の本文をほぼそのままに刊行するということは、その内容によほど自負と自信、そして価値があると信じている、ということだろう。
【序文】
本改訂増補版で新しく追加されたものである。フーコーの生い立ちに加えて、デカルトのコギトを巡ってデリダとの間で交わされた論争を詳しく論じている。
ミシェル・フーコーが生まれたのは1926年10月。この年代においては、いつどこで生まれたのかで人生の体験が大きく異なってくる。おそらくは日本にいても同様にいつ生まれたのかによって人生の体験は大きく違ったものとなった。そういう時代であったのだ。1940年6月、フランスがナチスによって武力で占領されたとき、フーコーは13歳で、その後パリが解放されたとき17歳になっていた。この若年期の体験がフーコーにとって大きな影響を与えたと著者は語るが、フーコーをはじめとするフランス思想界の一時の豊かさはこのときの歴史的な背景のもとでの集団的経験が影響を与えている可能性に初めて思いが至った。
『狂気の歴史』におけるデカルト的コギトの扱いから始まるデリダとの論争は、それがフーコーの思索の鍵を握ることだと著者が考えており、またそれがあまり他の解説書などでは深く触れられていないこともあって、ここではかなりの紙幅が割かれている。そのことが、この序文が長くなった原因である。著者は、その議論のずれをデリダの「テクストの脱構築的な解読」とフーコーの「言説の考古学的な分析」の枠組みの違いだと説明する。この論争を通して、フーコーの思考は深みを増し、その焦点とフーコーの独自性が明確にされたと考えている。
著者は、デリダとの論争の争点を人間の有限性と捉える。果たして、人間の有限性こそがフーコーの主題としていたことであったのだろうか。有名な「人間の消滅」は、この人間の有限性に関わることだと解説する。
「フーコーが「人間の消滅」をいうのは、このような有限性の構造の基盤となる思考様式の端的な消滅を想定してのことである。つまり、『言葉と物』の末尾でフーコーが「賭けてもいい」と書いたときの「人間の消滅」――波打ち際の砂に描かれた顔のように「人間は消滅するだろう」(l'homme s'effacerait)――という言葉は、人間の終わりには終わりがないという有限性の構造の内側で、たえずくり返され、叫ばれる「人間の終わり」にかんする主張とは、言説としての次元が異なっている。だがデリダは、「人間の消滅」を語る末尾の言葉は有限性の分析論に属しているのではないか、というのである」
フーコーがターゲットと���る人間諸科学は、神の死の後に「人間」をその座に付けたことにより成立したのだが、そこでは人間の有限性が課題となる。フーコーがニーチェに傾倒し、依拠する部分が多かったのもそのことによる。
「フーコーはニーチェに触れながら、神の死、その致命的な不在は、人間のために安定した滞在の地を設けることにならないという。神の死と入れ替わり、人間がいわば昇格して主役に就くように見えるが、この人間は有限性の構造によって規定される矮小な人間でしかない。この場合、人間の有限性は皮肉なかたちで人間の終わりを指し示している。有限性(finitude)、つまり終わり(fin)の時代とは、終わりの人間、つまりニーチェのいう小さな人間、ないしは最後の人間が、同じ姿のままわずかにずれ、くり返し後退しながら、生き続ける時代となる。従ってこのままでは、つまり有限性の構造の内部では、退屈にも哀れにも人間の終わりは終わらない。この場合、人間の終焉はたえずくり返されるのでそもそも賭けの対象の対象にもなりえない」
著者は、「人間」の存在がいかに近代の思考を制限したかについて次のように解説する。
「フーコーによれば、言語の存在は古典主義時代の思考の台座になり、人間の存在は近代性の時代の思考の台座になった」
著者が付け足した序文は、およそ次の文章を最後に置く。
「フーコーはいう。これまで歴史家に保護を与え、夕暮れまで彼に付き添っていたものはみな消え去るだろう。だがその消失のあとに内面性もその不死の約束もない、むしろそれらには無関心な、その意味では空白のままの空間が、新たな分析のためにひらかれるだろう。作者=主体の観念にもとづく作品の空間ではなく、そのような主体の意志に対しては中立的な言説の空間が、分析のために差し出されるだろうと。この空間は近代の人間学によって柵が設けられ、定住のための基盤割がなされた大地ではない。この空白に似た大地――言説の領野――に立って進むことが、このとき、彼の務めに思えたのだろう」
しかし、フーコーが切り開いた言説の領野に立って進むものがこの後に続くことは、少なくともフーコーに並ぶような形ではなかったのではないか。さらに序文がこの後、フーコーの眠る墓地の描写で締めくくられるのは、ある意味では象徴的とも言えるのである。
【主体の系譜学(旧版部分)】
さて、序章から第一章~第四章というのが旧版の構成となる。
第一章は、フーコーの思考の特異性を見るために「彼の思考がそこからやって来る、ある思考不可能な空間」について論じる。
第二章では、「思考の歴史」の新しい見方を取り扱うとして、エピステーメーの概念などを解説。
第三章では、『知の考古学』で披歴された自ら考古学と呼ぶ方法論について見ていく。
第四章では、「主体と権力」の問題を扱い、主に『監獄の誕生』と『性の歴史』を扱う。
当然のことながら序文がなくても成立しており、本文だけでフーコーの仕事を通覧する解説書となっている。ら印象としては、参照するフーコーの著作に引っ張られているところが多く、その記述内容は専門家でない人間にとってはかなり理解が難しいと言わざるをえない。
それでは、各章を順に見ていく��
■ 序章 系譜学、あるいは愉しい学問へ
本書の序章では、まずニーチェの思想がフーコーに与えた影響に着目することになる。著者はここでフーコー自身の次の言葉を引用する。
「ハイデッガーは、私にとって常に本質的な哲学者でした。私はヘーゲルを、ついでマルクスを読むことから始め、そして1951年か1952年にハイデッガーを読みだしました。さらに1953年か1952年、もうよくは憶えていませんが、私はニーチェを読みました。ここに、私がハイデッガーを読んでいた頃に取ったノートを――何トンも!――まだ持っています。しかも、ヘーゲルやマルクスについて取ったものよりもはるかに多量にあります。私の哲学的生成のすべてが、私のハイデッガーの読解によって決定されました。しかし、ニーチェの方が優位を占めたことは認めます。」(「道徳の回帰」、『同性愛と生存の美学』所収)
フーコーが継続的に批判的に扱う、人間学およびそれを成立させる人間に関わる問題設定は明らかにニーチェに端を発するものでもあった。ニーチェの超人思想には違和感と理解し難さがあるが、それが「人間」の批判であり、その解体にあるとすれば、その方向性においてフーコーの著作を読むことができる。
「ニーチェがフーコーに与えた影響はきわめて大きく、持続的なものであった。それはフーコーの問題設定そのものにかかわっており、二つの重要な焦点をもっている。一つは「歴史」の系譜学であり、もう一つは「超人」の思想――人間学からの離脱の試み――である」
確かにニーチェとフーコーに通底するものとして、この「人間」がいかに西洋で成立してきたのかを問うていたということをまず第一に挙げられるべきであろう。
「ヨーロッパの「人間」を規定するこのような生存のかたちは、決して不変のものでも、自然のものでもない。それは歴史のなかでつくられたものである。だが、ヨーロッパ人はそうは思っていない。彼らは本当に「自分が誰であるのかを知らない」のである。ニーチェが提示しようとするのは、キリスト教によって訓育された、西洋の人間とは一体何者であるのかを明らかにする系譜学的な歴史である。それはすでにその同一性、主体性をもった「人間」があれこれと経験する歴史ではなく、その経験の主体である「人間」自身がどのようにして成立したのかという歴史である」
フーコーがニーチェと異なっていたのは、同じ問題意識を共有しながらも、そこへのアプローチである。彼は、言説に着目し、主体化という現象に注目した。そして、それを系譜学的に分析することが主眼になった。
「フーコーは、この系譜学的な問題意識を、厳密に実証的(ポジティフ)なかたちで、しかもさらに広範な具体性の領域において引き継いだといえよう。彼もまた西欧的な人間の「主体化」の歴史を明らかにしようとするからである」
本書でもこの後にそれぞれ解説が加えられるが、その具体的な実践がテキスト化されたものが、『狂気の歴史』、『臨床医学の誕生』、『言葉と物』、『監獄の誕生 ― 監視と処罰』、『性の歴史』なのである。
「フーコーは、西欧における、狂気の分割と排除、死と病と生についての医学的眼差し、思考の空間、監視と処罰、そして性の言説について、��の「歴史」を明らかにする」
その方法論は「考古学」としてフーコーによって明確化され、具体的な原理や手法は『知の考古学』に詳しい。
「この系譜学的な問題意識――それはフーコーにあっては「考古学」(アルケオロジー)というかたちに方法化される――が人間の同一性(identite)の基盤に見いだすのは、さまざまな情念や、欲望や、意志などの複雑に絡み合った力の関係である。この力の関係のなかで、人間の同一性とともに、狂気、倒錯、犯罪、死など、人間的なるものの他者が生み出される。人間の同一性はこの他者との隔たりによってはじめて与えられる。だが、他者は人間と同じ由来をもっており、両者は「神の死」とともに生まれた双子の兄弟(分身)のように親密でもある。人間の同一性はこのような他者を内在化してはじめて成立するからである」
フーコーの思想家としての書物以外の実践的な活動として、監獄に関わる活動が挙げられるが、著者によるとその位置づけは次のようなものである。
「フーコーの知識人としての活動は、「人間」とその否定的な「分身」を同時に生み出す権力システムそのものを標的にしている。決して悲惨な人びとを「人間化」することが彼の目的ではないのだ。そうした人間化は権力の疑似餌となり、同時に別の犠牲者を生み出すであろう。問題は、人間の規格(ノルム)とその逸脱をともに配置する権力のシステムそのものを明らかにし、人びとがその発言や行動において自分自身の在り方を自ら選択する自由を確保することである」
大くくりにするとフーコーの問題意識は「主体化」のさまざまなメカニズムにおかれていた。こういった考え方で物事を総合していった思想家は、後にも先にもフーコー以外には見当たらない。
「晩年になって、フーコーは、これまで自分が「主体」(subject)の問題を、しかも三重の仕方で取りあつかってきたのだと述べている。それは人が「主体」になる三つのプロセスに対応している。一つは医学や人文諸科学のなかで行われた人間の主体化、つまり「真理との関係」における主体化である。二つめは、狂気、病、犯罪などを分割し、排除する実践の中で行われた人間の主体化、つまり「権力との関係」における主体化であり、三つめは、性的な要望を通して行われた人間の主体化、つまり「道徳との関係」における主体化である。
しかし、『狂気の歴史』から『言葉と物』を経て、『性の歴史』の第一巻である『知への意志』までは、最初の二つ、つまり真理あるいは知との関係、権力との関係における主体化が、フーコーの中心的な課題としてわれわれの前に示されてきた。とくに『知の考古学』や『言説の秩序』においては、知と権力の戯れ、真理と権力の結びつきに対する分析が方法化され、それが『監獄の誕生』『知への意志』というかたちで展開していく」
「フランス語の「主体化」(assujetissement)には「従属化」という意味がある。「主体化」とは、人間がある一定の関係に、つまり真理との関係、権力との関係に従属する様式であり、この従属を通じて自己を与えられ、自己を確認し、自己(の同一性)の意識を得ることである」
■ 第一章 フーコーの望遠鏡
『言葉と物』はあまりに売れてしまったがために、そこにあっ��「人間の終焉」という命題もどこか「ロマンティックな観念」として普及をし、人はなぜかそれに安心てしまった。それはフーコーの意図したところとはあまりにも離れたものであった。フーコーは人々に不安を抱いてほしかったのだし、見えていなかったものを可視化することで人々をしてある種の制約から離れて考えることを可能にしたかったのだ。
「彼が真に試みたのは単なる思考の分類ではなく、西欧の思考を可能にし、制約している歴史的な条件の分析である。そして、不思議にも変容を重ねていく、西欧の思考とエピステーメーの生のままの存在様態を実証的に(ポジティフ)に捉えることである」
そこでフーコーは、エピステーメーという概念を提唱し、古典主義時代にまでさかのぼって膨大な量のテキストを分析することで、それが人々が意識をしない形でその行動を制限していたことを示した。そのことによって、現代においても同じくある種のエピステーメー、後の世代から見ると違和感を抱くことになるかもしれないエピステーメーの中で思考・行動していることを確認してもらいたかったのではないだろうか。
「エピステーメーは決して抽象的な図式ではない。それは歴史的な実定性において存在し、別のかたちに変容していくものだからである」
「この考古学的調査が明らかにするのは、西欧文化のエピステーメーのなかに二つの大きな切断が存在することであった。一つは古典主義時代のエピステーメーの端緒が切り開かれる十七世紀の中頃、そしてもう一つは西欧の近代性の始まりである十八世紀末から十九世紀初頭にかけての頃である」
フーコーがこだわっていたのは、「人間」が近代の産物であり、そのまわりに構築された人間諸科学、そして権力の形に対して、それがみずからの主体化に深くかかわってしまっていることを理解してほしかったのではないだろうか。
「狂気の経験、死と病と生命についての医学的経験が考古学的な分析に対して呈示しているように、そこに認められるのは、西欧近代の思考を古典主義時代のそれから分かち、隔てる境界である。この境界ないし断層を越えるとき、そこに「人間」(l'homme)と呼ばれる奇妙な知の対象が出現する。そして、その形象のまわりには人間諸科学(sciences humaines)が構成され、近代という新しい知の空間、そしてその知と相関する権力の空間が開かれることになる」
■ 第二章 変貌するエピステーメー
本章では、『言葉と物』における有名なベラスケスの絵画『侍女たち』(Las Meninas)の解説がされているが、改めてその仕掛けの素晴らしさを味わうことができた。また、『言葉と物』の流麗だが過剰な表現ではやはり理解することが難しかった構図がよくわかった。『侍女たち』の構図が、古典主義時代の「表象」の時代を象徴するに非常に合致しすぎるほどうまく合致していることが示される。王の不在は「表象の空間」の自律性を示すものであり、そして不在となった王の位置に超越的な他者ではなく「人間」が現れることによって新しい時代が始まるのである。
そして、『言葉と物』における古典主義時代の「博物学」「富の分析」「一般文法」のフーコーの分析の手際はやはり鮮やかである。
「この新しい記述は、分類を解剖に、構造を有機体に、可視的な特徴を内的な従属関係に「表(タブロー)」を系列(セリー)に置き換える」
そして、著者はフーコーが指し示した「人間」の誕生を次のように表現する。
「今や、空席となった王の場所に「人間」という他者が実存しはじめる。表象はその自律性、同一性を失い、人間の実存という他者にその起源をもつものとなる。そこに見出されるのは、もはや無限で透明な表象の空間ではなく、有限な人間の実存によってはじめて可能となる「現象」の世界である」
ここで著者は「人間とは一体何者なのか」と問う。それはフーコーが問うていたことなのかもしれない。
①人間の存在の有限性、②人間の「経験的=先験的な二重性」、③人間の思考には「思考されぬもの」――物自体、即自存在、無意識など――が分身や影のように同伴すること、④人間が自分の「起源」から隔てられていること、である。
■ 第三章 外の思考
「フーコー自身は『言葉と物』を思想史の特定の問題に関心がある二千人たらずの専門家を念頭において書いた」という。まったくその通りで、この晦渋な書物がベストセラーになるフランスという国はよっぽど倒錯した国なんだと思った。
あまりにも『言葉と物』が売れてしまったことで、フーコーにはそれを可能にした思考形態の自己分析と解説の機会が与えられた。それが『知の考古学』と言ってもよいだろう。当時のフランス思想界を覆っていた構造主義との差異を明らかにすることも彼の仕事の射程を正しく理解してもらうために重要であった。
「『知の考古学』(1969年)から『言説の秩序』(1971年)にかけて、フーコーは構造主義から決定的に離れていく。そこでフーコーは言語をその形式的な意味作用においてではなく、その具体的な存在(エートル)においてとらえる立場を「アルケオロジー」として明示する」
「フーコーが目指すのは、意味の関係から力の関係へ、言語の理解可能性のレベルを移動させることである」
監獄の誕生での権力分析でもフーコーは権力行使の経済性に着目していたが、言説それ自体もある種の経済(エコノミー)にしたがっていることが強調される。だからこそ、言説の分析が可能となるのである。
「われわれがなしうる言語表現の可能性そのものは無際限に開かれているように見える。だが、ある時代において実際に言表された、出来事としての言語の大きな分布はきわめて限定されている。すなわち、言語の「経済」(économie:エコノミー)というものがあり、言語の事実上の配分は限られている。この「経済」によって、われわれの思考の舞台となる、言語の汲めども尽きない流れ(フロー)が決定され、規制されているのである」
この他、レーモン・ルーセルやルネ・マグリッドの『これはパイプではない』を巡る論説など、着目されることが少ない著作にも言及されて、フーコーの問題意識の分析を補強している。
■ 第四章 権力と主体の問題
権力と主体の問題は、フーコーが生涯を通して課題としてきた問題である。著者は、「知の領域を形成する言説とは何であり、どのように編成されるのか」と「その言説は非言説的な領域とどのような関係にあるのか」という二つの問題���ここでは見ていく。その後、「言説と非言説的な実践とか絡み合ってできる権力の装置を分析する」という。具体的には『監獄の誕生』や『性の歴史』が対象になる。
『監獄の誕生』ではパノプティコンの原理が、社会を通して権力装置の原理として通用していることが示されるが、その重要な特徴は次のとおりである。
「①権力の行使が非常に経済的であること ②権力が没個人化されていること ③権力が自動的に作用すること」
また、『性の歴史』では、告白の技術、牧人=司祭が権力となっていることが示される。そこでは性が特権的な主題となる。近代ブルジョワ社会における性を通した規格化が行われ、集団レベルでの人口政策や、産業組織に配置する個人の身体の規律訓練に対応していた。
著者は、『監獄の誕生』『性の歴史』を通した権力論の特徴を次のようにまとめる。非常によくまとまり、今の時代においてますます示唆に富むものとなっている。
①権力は獲得されたり、所有されたりする実態ではなく、さまざまな力の関係のなかで行使されるものである
②権力の関係は他のさまざまな社会関係の外部にあるのではなく、それらの社会関係のなかではたらいている
③権力は上から下へ波及するのではなく、むしろ下からやって来る。包括的(グローバル)な支配・服従の対立を支えているのは、局所的(ローカル)な場における多様な力の関係である
④権力の関係には一定の目標をもった合理的な戦術の系列が貫通している。この戦術の合理性は主体の選択や決定の結果ではなく、非主観的で匿名の権力の戦略に属している
⑤権力に対する抵抗は権力の外部に立つものではなく、むしろ権力のゲームの相関項である
つまり、権力とはミクロなものであり、国家権力のようなひとつの実体をもつものではないということである。国家権力はミクロな権力とその関係の集合体であり、もちろん監獄も学校、病院、工場もそうなのである。権力関係の中で個人の主体化・服従化が行われるのだが、その規格化を行うのが監獄によって産出される非行性であったり、告白を通じて活用されるセクシュアリテであったりするのだ。
著者は、フーコー自らが整理したように、フーコーの仕事の研究領域を①真理の問題系、②権力の問題系、③自己の問題系、に分類する。いずれも人間を「主体」として構成する形式が働いており、フーコーは一貫して「主体化」の形式を分析してきたのだという。
主体化について、真理にせよ、権力にせよ、自己への配慮にせよ、このように考えて具体的に追究を深めることで、フーコー以降に彼を乗り越えていったと思われる思想家は、思うにいまだ現れていない。フーコーによって提示された課題はいまだ実際的な課題であり続けているにもかかわらず、である。それこそが、フーコーをいまだフーコーたらしめているゆえんであるのである。
本書は、解説本としてもなかなか難しい部類に入るだろう。最近読んだ慎改康之『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学』の方がわかりやすいし、主要な権力論に特化した重田園江の『ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む』の方が読みやすい。しかし、本書の力の入れ方によって、またフーコーがあらためていまだ読まれるべき思想家であることがわかった。おそらく前掲の著者の方にもこの本の旧版は影響を与えていることと思う。著者が、序文を付して増補改訂版を出すのも、広く読まれてほしいという思いとともに、いくら解説をしても充分だと思われることがないフーコーの深さのためではなかろうか。万人にお勧めするわけではないが、フーコーに興味があるというのであれば、手にとってみて損はない本である。
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『監獄の誕生 ― 監視と処罰』(ミシェル・フーコー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4105067036
『知の考古学』(ミシェル・フーコー)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309463770
『ミシェル・フーコー: 自己から脱け出すための哲学』(慎改康之)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4004318025
『ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む』(重田園江)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4480066276
『フーコー 生権力と統治性』(中山元)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309245110