「自粛問題」の根底にあるものとは?
2022/02/09 10:35
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投稿者:あごおやじ - この投稿者のレビュー一覧を見る
音楽研究家と二人の社会学者による共著。麻薬取締法違反で逮捕されたミュージシャンの作品の販売・提供が自粛された事件を受け、その根底にある日本社会の問題点を鋭く炙り出します。
第2章では、音楽研究家のかがり氏が、過去に起きた類似事例についての自粛措置を振り返りますが、明らかに平成の時代に過剰な自粛が増嵩したことが伺えます。
また、二人の社会学者は、自粛問題の表層に止まらず、深層に潜む問題点を解説します。
永田氏は、第1章で「法令遵守(コンプライアンス)」という言葉が、再帰性(私は、「人の目を過剰にまでも気にして我が身を処する姿勢」と理解しました)に囚われた企業の方便として重宝されている欺瞞を指摘します。損得勘定が人倫を支配する現代を生き抜く知恵として、「お互いをリソースとする多元的な自己同士を結ぶ関係」、すなわち単なる「知り合い」ではなく「友達」の大切さが強調されます。
宮台氏は、第3章でさらに超越的な視点から、「そもそもアートとは心に回復不能な傷をつけるもの」「表現は法よりも大きい」としながら、たかだか社会秩序維持のツールに過ぎない人為的な法ごときに、「特定の快/不快」に関する価値観をジャッジさせることの問題点を指摘します。第3章には何度も「法の奴隷(化)」という言葉が出てきますが、法に盲目的に隷属するさもしい姿を、社会的な自己価値への信念を否定するものとして切り捨てます。
また、「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展」の騒動をめぐる考察も含まれており、単なる自粛問題の解説を超えた、内容の濃い一冊と言えます。
考えさせられました
2020/06/30 00:44
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投稿者:広島の中日ファン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ミュージシャンの逮捕により、これまでの曲が全て販売中止になる。
近年、よくみられるこの風潮にNOを突き付けた当書の内容に、考えさせられました。確かに、逮捕されたミュージシャンでも、過去の作品を聴きたい気持ちは私にもあります。
第三章は、大学で社会学を教えている教授による、社会学の講義になっています。かなり難解です。
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<目次>
はじめに
第1章 音楽が聴けなくなった日
第2章 歴史と証言から振り返る「自粛」
第3章 アートこそが社会の基本だ
おわりに
<内容>
「電気グルーヴ」のピエール瀧が麻薬で捕まって、その楽曲の販売、配信が一切停まった。発売元のソニーミュージックエンターテインメントの「自粛」によるものだった。本によると、日本独特の風習(商習慣?)らしい。そして、90年代以降それが始まり、どんどん悪化?の方向らしい。帯にかかれる坂本龍一のコメントではないが、「聞かない自由」「聞く自由」があり、創作、演奏している本人たち(電気グルーヴはほとんど石野卓球が創作、演奏している)以外に、聞き手にも自由があることは当たり前だ。第3章で、宮台真司がえらく難しい議論をしているが、「アート」が万人のもの(作り手以外に見る(聴く)人)のもので、作った後は、作り手の手を離れたものになる。歴史的にそうなるのだ。殊に日本だけの現象なのだとしたら、そういう点で日本は「アート」を理解していない国(にどんどんなっている)、精神的に稚拙な国、劣化している国に落ちて行っているのだ。それがよく読み取れた。
単純に「音楽が聴けなくなる」だけでなく、人間性を奪おうとしている人々が横行している国化、している状況こそ、憂いるしかないないだろう。
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コカイン所持でピエール瀧が逮捕されたことは、残念だったし、衝撃だった。
罪は償わねばならないのはわかる。
だけど、所属している音楽ユニットの全音源の発売と配信を停止する必要まであるのか?
作った人が犯罪を犯したからといって、自分が好きな音楽を聴く権利を、なぜ奪われないとならないのか?全く理解できない。
SONYの措置には怒りしか感じない。
一年経った今でも、未だ解除されないことも非常に遺憾に思っている。
石野卓球が最近呟いている。
ー おいSONYよ。
さっさと俺や前科者と作った曲を解放しろよ。
ほんとだよ。
いくら原盤権があるからと言って、電気グルーヴやファンへの嫌がらせを続けるのは誰のためなんだ!
…という、疑問に答えてくれる本。
特に第3章がよい。
いろいろな意味でキレている宮台真司さんの文章は、難解なのでまだ全てを理解できていないけど、スリリングで心を抉られる。圧巻。
芸術論として、とても深いです。
特に「アートは人の心を傷つける目的のを目的とする」という言葉には深く感銘を受けた。
「アートの目的は、それを体験した以上は以前の日常に戻れなくさせることにある」という。
電気グルーヴの「ビタミン」というアルバムは、僕にとってそんなアートな音楽だった。出会った瞬間、心がヒリヒリして、ゾクゾクして、息が苦しくなって幸せになった。
以前の僕には戻れなくなった。
電気グルーヴの楽曲の販売や配信が早期に再開されることを強く希望します。
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アーティストが逮捕されると過去の作品が自主回収や配信停止などの手段で速やかに世間から消えるというバカすぎる風潮を分析した一冊。音楽に閉じずに他の事例も交えて社会の在り方を考察している。正直このレベルのことを書籍化してわざわざ論じなければいけない時点で気が遠くなるわけだが、音楽や映画を愛する人ならば改めて読んでおきたい。
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2019年3月、ピエール瀧さんが麻薬取締法違反で逮捕され、
マスコミやレコード会社が”自粛”したことについて、自論や実際の対応例などがまとめられている。
自分は電気グルーヴは聴かないものの、
役者として出演していたドラマなどすべてが自粛されるのはおかしいと思っている。
ただそれは、罪を犯した本人以外の人たちが巻き添えで損をするのは
おかしいという考え方だ。
連座・縁座のようなやり方で、同じグループの人やレコード会社などが
一緒になって罪を償わされる形になるのはよろしくない。
この点はこの本に共感する。
とは言え、飽く迄も「自粛」となると一概には言えない。
リスクを排除するという善後策が一律に駄目なものだとは思わない。
自主的に「損して得取れ」だと判断しての自粛であれば、
レコード会社の対応を詰るのもどうかと思う。
誰もが納得する禊明けとして、執行猶予期間と考えるのも
わからない考え方ではなかった。
また、個人的には作家と作品は別物とは思っていない。
純愛の歌に感動して好きになったのに、その歌い手が不倫をしたら
自分は前と同じような気持ちでその人の純愛の歌を聴くことはできない。
心底自分の作品に共感している人の作品でなければ
自分の心はそこまで動かないと思う。
ファンの人が自粛撤回を要求するのは良いと思う。
そうした「声」があれば、レコード会社も自粛を取りやめる理由ができるとも言える。
それが無い内からレコード会社の方でしれっと新譜を出すのはやりにくい
というレコード会社の感覚は共感できる。
ただすでに出したものを回収したり、配信を停止したりするのは
やりすぎだ。
この点については、犯罪の種類にも判断が左右されるところだとは思う。
ドラッグ等は治療等手助けが必要であることは当然だが
”大した罪ではない”とは自分は思っていない。
自分の好きなアーティストがやってしまったら、悲しいし本人に対しては憤るが
自粛自体は仕方ない。
可能な限り治療し反省して立ち直ってから
もし戻れる状況になっていれば戻ってきてほしいと思うだろう。
回収までされては不満も出ようが、発売予定だったものが中止になっても
レコード会社を逆恨みはしない。
ある人が犯罪で訴えられて業界から追放された時、
ファンの人が「彼の才能に対する彼自身の最悪な裏切り行為」と憤っていたが、正にそれだ。
関係者や、いる場合は被害者に対して憤ったりバッシングしたりするのは違うと思う。
「聞かない、見ない」権利と自由というが、聴かない選択はともかく
販売が継続されていれば「見ない」ことは無理だ。目には入る。
電気グルーヴの場合、自分は目に入ったところで不愉快にはならないが
ケース・バイ・ケースだろう。
たとえば、治療はして今は立ち直っていた人が、
ピエール瀧さんほどの人もやるんだと思ってまた薬を始めてしまった、
ということがもし起きたときに、責任が取れない。
だから、レコー���会社は自粛をするのだ。
その行為自体は、不満に思う気持ちもわかるが
責められないと思う。
「アートは人の心を傷つける目的のを目的とする」という言葉は
なるほどと思う反面、『傷』は必ずしも
ネガティブであったりショッキングであったりする必要はないと思っている。
自分がアートに求めるものは、希望や活力だ。
特にあいちトリエンナーレについての記述は同意できない。
あいちトリエンナーレで一番問題になっていたのは慰安婦像ではなく
天皇陛下の写真をコラージュしたり燃やしたりしたものや
特攻隊についての展示であったはずだ。
確かに表現は自由であり、嫌いなものは見に行かなければ良いのだが
公金を使わず私費で自由にやればよいのだ。
県の公の事業として展開し、行政や県民がふさわしくないと感じたら
それはふさわしくない展示なのだ。
そこを勘違いしてはいけない。
また、写真をコラージュしたり況してや燃やすのなら
その被写体に許可を得るか、自分の写真でやるべきだ。
況してや天皇陛下のお写真を使うというのは言語道断である。
この感覚は「ならぬものはならぬ」であって、
日本人以外には理解しにくい感情なのかもしれないとは思う。
多分言って伝わらないならどんなに言葉を尽くしたところで伝わらないだろう。
よその国の政治家などの写真を燃やしたり叩いたりという行為は、日本人はなかなかやらないことだ。
あいちトリエンナーレについての意見詳細は、当時書いたブログを参照されたい。
https://teardrops.asazakura.com/archives/10209
いずれにせよ、あいちトリエンナーレをこの件と並べるのは不適切である。
昔は自粛していなかった、というが
日本社会は、日本人は、とこき下ろすのはおかしい。
昔はネットというツールもなく、なんの力もない一般人が意見を表明することは難しかった。
今は意見表明ができるからこそ、”炎上”を恐れて”自粛”もするわけで
ある意味でそれは表現の自由が体現されたからこそとも言えるのではと思う。
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再帰性=セルフモニタリング 自分を俯瞰 立ち位置確保
結果としてのコンプライアンス
不祥事の防止・企業価値の向上
事なかれ主義=前例の踏襲
「リキッド モダニティ」液状化社会 ジグムント バウマン
決定しない優柔不断が合理性 ⇒その都度 選ぶ人になる
「キャラ」
「自己責任」
「状況的な人間関係」
関係に応じた人間関係 すべてをさらけ出さない
「多元的な自己」リースマン
ーーー
「法」 古い法を排して市民が勝ち取ってきた財産 暫定的で不完全なもの
法は統治の必要から制定
民主制=価値観の多様性 道徳感情は反映してはならない
定住の営み支える所有とともに法が生まれた
社会は法より大きい
人間は法には収まらない存在 その事実を表出するものが芸能やアート
「双剣論」西ローマ帝国
世俗の権力は王、超越の権力は教皇
東ローマ帝国は教皇が両方持つ
「人権内在説」
誰もが享受できる公共財などない 資源維持の制約や施設維持の負担が必要
各人の人権要求を誰もが共有するプラットフォーム
自己決定権があっても決定能力が不足する日本
「尊厳」 社会的自己価値への信念 自由と尊厳の循環
「法外を守る」→「不安を埋める」仲間集団≒生活世界縮小
法の奴隷・言葉で騒ぐ・個人の損得
体験の直接伝達から意味の関節伝達へ
「没落中間層」不安をより強いものとの平行移動で劣等感を埋め合わせる
好きなものを語るとき マウンティング 勝敗をつけたがる
「アート」 人の心に傷をつけるのが目的
「娯楽」 リクリエーション(回復)
パブリック アート 受け入れられる形で傷を残す営みの模索
解決手段:アート教育、なりすましアート
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本なのにフジロック好きでも盛り上がる読書でした。そして、悪い人は叩くメディアの歴史もわかりやすかったです。それから宮台さんのクズ3つの定義(言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーン)の毒舌が相変わらずで、「レミゼ」や「あいトレ」問題を取り入れながら「アートこそ〜」を教えてくれました。本当にいつもわかりやすく勉強になります。もっとたくさんの人たちが宮台さんの本を読んでほしいです。もちろん電気グルーブファンです。
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対処療法から、経過の分析、生活習慣の見直しまで、一括したこの種の社会的病への処方箋。根本的には、健康の捉え違えによるものだった。
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ゾーニング あらかじめ暴力や性についての表現がある
必要なのは尊厳。自信とプライドは違う。自信がないから仲間内の面子にこだわり所属集団でのポジション取りに右往左往する
好きなものを好きだと言う
敗北を受け入れる覚悟 昔はマウントの後には知らない方が知っている方に弟子入りのような形で教えてもらっていた。
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法は、法でしかない。社会に、正解を委ねすぎ。
みんな本音ではわかっているくせに、見て見ぬふりばかりする。こういうことを世の中の大多数の人は直感しなさすぎ、あるいは、目を背けすぎ。従う側も従わせる側も。頑張ればなんとかなる人こそ、社会のゲームの中に時限爆弾を埋め込むべき。不安なのはわかるが、それは人類が抱えた共通の問いなのだから、あきらめましょう。
知人の披露宴帰りに久々の三宮をふらつき古本屋で偶然出会った最近の本。
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ピエール瀧の薬物による逮捕からの一連の音楽業界の対応について、本来あるべき姿を問う論評。
最近の日本の過剰なコンプライアンスには違和感があったのだが、宮台先生の「法の奴隷」「言葉の自動機械」という言葉はとてもしっくり来た。
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色々と考えさせられる内容。
今の世の中は過ちや間違いを一度でも起こすと今までの人生の全てを否定されてしまう、というような風潮がある気がします。