紙の本
両雄相まみえるかの如く
2023/01/18 03:54
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者が一人で物した、
日本文学通史の第十一巻です。
近代・現代篇第二冊の本書で
扱われているのは、二大文豪に
白樺派など。
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ドナルド・キーン氏による我が国の近代文学の代表作家、夏目漱石、森鴎外、その他白樺派の作家たちとその作品の魅力を丁寧に解説した名著です!
2020/08/19 09:55
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『日本を理解するまで』、『日本文学のなかへ』、『私の日本文学逍遥』、『日本人の質問』、『百代の過客 日記にみる日本人』などの著作で知られるアメリカの日本文化・文学研究の第一人者と言われたドナルド・キーン氏の作品です。同書は、中公文庫から全9巻で刊行されている「日本文学史 近代・現代篇」の第2弾で、日露戦争の後に起こった自然主義運動、そしていまなお読者を惹きつけてやまない夏目漱石、森鴎外、白樺派の同人たちに焦点を当て、彼らの文学作品の魅力について易しく語ってくれます。近代小説の形成と発展を描いた名著です。同書の内容構成は、「自然主義」、「夏目漱石」、「森鴎外」、「白樺派」となっており、読者の目の前に、近代文学の素晴らしさが蘇ります。
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自然主義文学は理解できない
2020/06/04 21:08
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投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
本巻は自然主義(国木田独歩、田山花袋、島崎藤村等)、漱石、鴎外、白樺派(実篤、志賀直哉、有島武郎等)の解説。キーンさんの作品レビューが冴え渡ります。ただレビューを通しても自然主義文学は理解できません。江戸時代の戯作からの脱却には避けられない文学だったかもしれませんが、自分の身の回りを精緻に描くという内容は甚だ退屈です。ただ藤村の「破壊」は再読しようと思いました。一方、漱石や実篤や直哉はきちんと読んでみたいです。なお、有島武郎に対するキーンさんの高評価に驚きました。
高校時代、独歩や花袋や藤村は睡魔との闘いでした。私の再読ベスト3は「坊っちゃん」「友情」「城の崎にて」です。「坊っちゃん」は古さを感じさせない痛快ストーリーに感服します。「友情」は好悪別れるかもしれませんが、思春期に女性に憧れるも接し方が皆目分からず、不器用にもフラれた傷を持つ方だったら絶対共感できると思います。「城の崎にて」は、静かな雰囲気の中で死を見つめる主人公の姿が簡潔な文章で表現され、何故か高校時代の方が今よりも感銘を受けました。ただイモリ好きの私としては、あの行動は許せません…゙。
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日本文学史と聞いて、はいはい。日本文学に纏わるあれね。日本文学の……文学の史って何⁉︎何を論じているものなの⁉︎と意外に想像がつかず読む。
これは、キーンさんによる日本文学史であって、きっと他の文学者によって書かれたら、こうはならないなというのが率直な感想。
近代〜現代の日本文学がどう書かれ、読まれ、現在に至るのかを考えると、リアルタイムで出版されている文学の読み方も変わってくる文学史だ。
日本における自然主義や私小説は、確かに現代の小説の根幹になっているし、では夏目漱石は森鴎外はなぜ今以て文豪と呼ばれるのかも理解できる。
そして何より、日本文学に対するキーンさんの深い造詣とそれを支える愛が溢れており、キーンさんがこの大著を完成してくれたこと自体、日本文学史に刻まれるのだろうと思う。
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森鷗外のことを学ぶ中で手に取る。
なぜ、鷗外と漱石のみが文豪と呼ばれるのか、等々興味深い考察が多い。
自然主義文学は、発祥の地であるフランスと日本で取り上げられ方が違うので、混乱するところがあったのだが、このように一人一人の作品にフォーカスすると理解も深まる。
本著で取り上げられている作品の多くは読めていないので(除く鷗外、漱石、島崎藤村)、その意味で消化不良のところがある一方、うまい具合にイントロダクションになっているので、興味が湧いた数冊はマイリストに入れておきたい。
ところで、
ドナルド・キーンは、全ての作品を英語と日本語両方で読んでいるのだと思うのだが、文章のうまさ、そのキャラクターを的確に表現しているところは、相当な日本語能力が必要になると思う。感服。
以下抜粋~
(森鷗外編)
・語られぬ部分があまりに多い彼の小説は、ちょっと読んだだけでは味が余りにも淡泊過ぎ、今日の読者を堪能させるまでには至らない。あるいものは、一見するれば単なる一挿話か素描のようにさえ見える。
読者の側の洞察が働いてはじめて、登場人物の人間性の深奥にまで迫ることができるのである。
(「妄想」)
・思いここに至って煩悶すれば、宗教も自然科学も慰謝を与えてくれない。ベルリン留学中の彼が、その煩悶に解決を求めたのエドゥアルト・ハルトマンの無意識哲学だった。
・西欧の思想に対したとき、鷗外は漱石よりも受容的であった。西洋的な死への恐怖は、あるいは彼の受容するところではなかったかもしれない。しかし鷗外は、西洋人の死に対して抱く恐怖を罵らなかった。あるいは東洋的死生観と対比して、ことさらに西洋を斥けることもしなかった。
鷗外は「東」も信じたが、同時に「西」をも信じた。その両者は、彼の内部で相せめぎあうこともなく、どちらかへの鷗外の態度決定を二社択一的に競うあいもしなかった。
鷗外と同時代の作家で、日本人の安っぽい西洋模倣を批判し、日本人は旧来の美風を捨てるに急なのを嘆いた人は実に多い、ただ、鷗外は、類型的な批判勢力の仲間には入らなかった。
鷗外が批判したのは、過去のなにを棄てなにを保つべきかを正確に判断するに必要な、実験的、実証的な精神の欠如であった。
・自己の生活に取材した作品の中で、鷗外はしばしば自分の態度に言及している。ときには、それは傍観者の態度であり、ときには「あそび」であり、あるいは諦念である。
みずからを第三者とするこのような態度は、生活のあらゆる艱難を克明に描き、その真っ只中におけるもがき、苦しみを記録した自然主義文学とは反対の極にあるものと言えるだろう。
(白樺派)
・自己を表現し、自己の内なる可能性を実現しようとした白樺派同人の欲望は、寡黙で意思を殆ど書いた傍観者、あるいは受難者としてしか事故を作品中に描き得なかった自然主義文学の態度と、きわめて鮮やかな対象をなしている。「白樺」の人々は、積極的に自己の作品中に誇りを持ったのみか、それを書くことを天恵の使命と観じていた。
・白樺派を特徴づける思想は、人道主義である。