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2022/01/15 14:55
投稿元:
あらすじ(HPより)「文學界」連載時から反響続々!
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』に次ぐ「大人の続編」本。
「わたしがわたし自身を生きる」ために――
エンパシー(=意見の異なる相手を理解する知的能力)
×アナキズムが融合した新しい思想的地平がここに。
・「敵vs友」の構図から自由に外れた“エンパシーの達人”金子文子
・「エンパシー・エコノミー」とコロナ禍が炙り出した「ケア階級」
・「鉄の女」サッチャーの“しばきボリティクス”を支えたものとは?
・「わたし」の帰属性を解放するアナーキーな「言葉の力」
・「赤ん坊からエンパシーを教わる」ユニークな教育プログラム…etc.
“負債道徳”、ジェンダーロール、自助の精神……現代社会の様々な思い込みを解き放つ!
〈多様性の時代〉のカオスを生き抜くための本。(https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163913926)
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』が良かったので。
後半ちょっと難しい!というかやや読みづらさを感じてしまった。基礎知識がないとやや理解が難しいのと、議論がどんどん壮大になっていくので、1章ごとの関係性がどうなってたんだっけ?なんの話ししてたんだっけ?ってなりがち。私の理解不足やけど。
エンパシーとはどういうことか、を定義する前半は読みやすくて面白かった。
感情的な同情ではなくて、なんなら理解し難い、同情しがたく感じる相手の靴でも履こうとする、生得的ではないあくまでもスキル(学べば身につけることができるもの)であること。
これを個人が持つことでいかに世界がうまく回るのか。コロナ禍という今の状況も踏まえてこの「エンパシー」の重要性が語られていて納得させられた。
以下、内容に触れます(引用します)
自分自身を他者に投射するということは、他者を「自己投射するためのオブジェクト」としてしか見なさないことになり、自分自身から「外れる」どころか、他者の存在を利用して自分を拡大していることになる。(p.30)
→相手のことをわかった気になることの危険さ。自分の靴を脱がずに自分の感覚でみてはいけんね。
ということは、「belonging」の感覚に強くはまっていればいるだけ、他者の靴は履けないということになる。属性が自分を守ってくれるものだと信じ、その感覚にしがみつけばしがみつくだけ、人は自分の靴に拘泥し、自分の世界を狭めていく。(p.35)
→帰属感は安心させてくれるし、ポジティブな側面もたくさんあるけど、気づいたら「その世界」だけが全てだと思っちゃうよね。
誰かの靴を履くためには、自分の靴を脱がなければならないように、人が変わるにときには古い自分が溶ける必要がある。言葉には、それを溶かす力がある。(p.41)
→本を読む必要性、いろんな人と会う(話す)必要性を感じる。
エンパシーは指導者にとって重要な能力だが、それを示すことによって信頼を得るのは男性よりも女性のほうで、エンパシーを示す女性リーダーはキャリア上の問題にぶつかることが少なくなるという調査結果が出た。(p.120)
誰かをこうだと決め付け、思考停止に陥る人間の習性を突破するために必要な「エンパシー」ですら、「女性」ラベルの原料リストに書き込まれているとすればこれほど皮肉な話もないだろう。(p.135)
→エンパシーでさえもジェンダーに結びつけられやすいのね。スキルであることよりも感情的な側面がイメージを持たれやすいからだろうか。
エンパシーの能力が高い人ほどguiltは強い。遠くの見知らぬ人々の靴まで履こうとするともう先進国の人間は罪の意識を感じるしかないからだ。(p.176)
→「知っている」以上、何かしないと罪の意識で辛くなるよね。
そしてそれは、「わたしは女としてじゅうぶんに商品価値が高いが、決してそれを売らないし、売らずにすむものを持っている」と誇示するためのものであったと書き、「その『女らしい』外見は、おそらく男性向けのものである以上に、女性の世界におけるマウンティングのツール」なのだと述べる。(p.193)
→この矛盾をうまく言語化されててなるほどねとなった。
アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。(p.245)
そして、エンパシーとは複雑なスキルであり、まず他者の感情はあくまでも他者に属するものであることをわきまえ、他者の経験を想像する時に自分の解釈を押し付けないことが必要である。それに加えて、他者の生活を彼らが属する集団の歴史的背景などを含めたコンテクストの中で理解せねばならず、これら全てを数分で、または数秒で行わねばならないからこそ、エンパシーとは非常に高度なタスクなのだと同教授は言う。(p.251)
エンパしーはやはり個人が自分のために身につけておくべき能力であり、生き延びるためのスキルだ。ここではない世界は存在すると信じられなければ、人はいま自分が生きている狭い世界だけが全てだと思い込み、世界なんてこんなものだと諦めてしまう。そうなれば、人はあらゆる支配を拒否することなどできない。(p.258)
2022/01/02 18:33
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この方の著書は、初めて読んだ。新しい文体の感じというか
ものの考え方があり、文の雰囲気になれなかった。
そのせいもあるのか内容が頭に入ってこず、難解な感じがした。
難しい。(ただ私の知識が足りないだけなのだろう)
とは言っても新しい発見もあり、この本のメインテーマでもある、
「エンパシー」という概念があることが分かった。作中でも紹介されて
いるが、「エンパシー」と「シンパシー」の違いについては興味深かった。
この2つの概念は、音は似ているが実は違うもの。
まさに似て非なるものである。
英国人でもこの2つの違いをきちんと説明できる人は少ないらしい。
2021/08/12 20:08
投稿元:
ブレイディみかこさんの文章は私にとってすごく読みやすい。本を読んで自分の中に落とし込む能力がまだ私にはなく、個人的な解釈を持つことはできなく歯がゆい。この本でも新たな視点や気づきがたくさんあった。いろんな人と対話したくなった。SNS上で毎日のように繰り広げられている対立や分断に関しての、一つの見解が示されている気がした。SNS上の本質とはかけ離れた不毛な争いに納得がいってしまった。
2021/08/09 18:21
投稿元:
他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ
ブレイディみかこ 著
2021年6月の本
ブレイディみかこさんの最新本。 実際のところ「推し」な著者なので共感・感銘・なるほどなるほど多数であり、あいかわらず大変勉強になる本であった。 2020年6月に「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」 でガーーーン!となって、その後、ブレイディみかこさんの本をオトナ買いしていろいろ読んでブクログやnoteにてレビューを重ねてきたわけであるが、最新本なら買わなきゃね的に買ってみました。
いつものように読み終わってから帯に戻ってきて、ナルホド感を確認する営みを実施したのですが、今回の帯は、多量の情報が載っており、三点のみ抜粋しておきたいと思います。
『「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」に次ぐ「大人の続編」本』 『他者はあまりに遠い。“共感”だけではたどり着けない。ジャンプするために、全力で「考える」知的興奮の書!』 『エンパシー(意見の異なる相手を理解する知的能力)×アナキズムが融合した新しい思想的地平がここに』帯ってうまいこと書くなぁ、と、いつも思う。 でもほんとその通りで、「大人の続編」という表現がごもっともだし「全力で考える」だし、「読み手の知性が試される」も、そうだが、ぐいっと一気には読み切れない、内容が濃い本だ、という印象。
エンパシーに関する議論や見解、歴史の偉人が残してきた論点に関して整理し、(誤解の招かれやすい)アナキズムに関しても丁寧に説明してくださったりしている。 前任者の論点を紹介しつつ、著者としての解釈を述べていく記載の仕方、学術的というか研究者的というか、そういうニュアンスを自分としては受けた。難しい本であったが、考えさせられる、というか考え方のヒントをまた与えてくださる本だった。
帯だけでは伝わらない方も、「はじめに」の部分を読めば、なぜブレイディみかこさんは「大人の続編」に至ったのかもよく伝わるので、(自分なりの解釈としての)抜粋引用としたい。
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2019年に『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』という本を出した。わたしは自他ともに認める売れない書き手だったが、その本だけは例外的に多くの人々の手に取られることになった。
それでけでも驚くべきことだったが、この本にはさらに驚かされたことがあった。本の中の一つの章に、たった4ページだけ登場する言葉が独り歩きを始め、多くの人々がそれについて語り合うようになったのだ。
それは「エンパシー」という言葉だった。
(中略)
わたしの推測が正しいにしろ、間違っているにしろ、あの本はそのうち「エンパシー本」とさえ呼ばれるようになった。しかしそれが素朴に「エンパシー万能」「エンパシーがあればすべてうまくいく」という考えに結びついてしまうのは著者として不本意な気がした。なぜなら、米国や欧州にはエンパシーをめぐる様々な議論があり、それは危険性や毒性を持ち得るものだと主張する論者もいる。すべての物事がそうであるように、エンパシーもまた両義的・多面的なものであって、簡単に語れるものではない。
ならば、そうした議論があることを率直に伝え、もっと深くエンパシーを掘り下げて自分なりに思考した文章を書くことは、たった4ページでその言葉の「さわり」だけを書いてしまった著者がやっておくべき仕事ではないかと感じるようになった。
(中略)
そして、わたしが「わたし」という一人の人間として物事を考え始めると必ずどこからか現れるアナキズムの思想が、いつの間にか当然のようにわたしの隣を歩き始めて、エンパシーと邂逅を果たした旅の記録とも言える。「わたしがわたし自身を生きる」アナキズムと、「他者の靴を履く」エンパシーが、どう繋がっているのかと不思議に思われるかもしれない。しかし、この両者がまるで昔からの友人であったかのようにごく自然に出会い、調和して、一つに溶け合う風景を目の前に立ち上げてくれたことは、この旅における最大の収穫だった。
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はじめに、とか、おわりに、というところは、確かによく抜粋引用することも多いけれど、読み手を引き付ける、すばらしいはじめに、だな、と素人的には思いました。
その他、いつもの抜粋引用となります。
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・P36 金子文子は、自分の靴をすっと脱ぐことができるが、彼女の靴はいま脱いだ自分の靴でしかないことを、確固として知っている。こういう人は、自分が履く靴は必ず自分自身で決定し、どんな他者にもそれを強制させない。
先頃、東京で生物学者の福岡伸一さんとお会いする機会に恵まれた。 朝日新聞で「他者の靴を履く」ことについて対談したのだった(2020年1月1日朝刊)。
そのときに福岡さんが仰ったことで、鮮やかに心に残った一言がある。
「『自由』になれば、人間は『他人の靴を履く』こともできると思うんです」
アナーキーとエンパシーは繋がっている、ような気がする、という以前からのもやもやとした考えに一つの言葉を与えられたような気がした。
言葉。 それは解答にもなるが、同時に新たな問いにもなる。
自らをもって由となる状態は「self-governed」であるということであり、「self-governed」という単語をLEXICO(オックスフォード提携の無料辞書サイト)は「自らを統治し、自らの問題をコントロールする自由を持つこと」と定義する。
アナーキック・エンパシー。
そんな言葉は聞いたこともないが、増え続けるエンパシーの種類に新たなものが一つぐらい加わってもいいのではないか。そんな大風呂敷を広げつつ、これからアナーキーとエンパシーの関係について考えていきたい。
・P64 たった一つでなければならず、たった一つであることが素晴らしいのだという思い込みから外れること。そうすれば人は自分の靴に拘泥せず、他者の靴を履くために脱ぐことができるようになるのかもしれない。
言葉はそのきっかけになれる。既成概念を溶かして人を自由にするアナーキーな力が言葉には宿っているのだ。
・P101 力のある人は仕事を失っても次の仕事がある。雇用主や政府に文句を言う前に自分の成功は自分の手で掴みなさい。仕事がない人、生活が楽にならない人は努力が足りないのです。黙って歯を食いしばり、寝る間も惜しんで力を尽くせば報われる。わたしがそうしてきたのだから、あなたたちにできないわけがない。これがサッチャーのしばきポリティクスの裏にある信条だった。
・P107 ちなみに、同サイトではself-help(自助)の意味はこうなっていた。
自分や、自分と似たような経験や逆境にある人々のため、公的組織に行かないで必要なものを自分自身で与える行為
ここで面白いのは、ケンブリッジの英英辞典サイトに記された定義には、「自分」だけでなく、「自分と似たような経験や逆境にある人々」が共に入っているところで、そうなってくると「自助」は非常に身内的で、自分と似た立場や考え方の人々に感じるシンパシーにも繋がる。
・P121 曰く、「自分の気に入らないことを誰かが言うとき、わたしたちはあまりに容易に自衛的になったり、相手の議論を歪めて勝とうとする。でも、わたしたちがそれをすると、誰のためにもならない。」これなどは、いわゆるツイッターなどでの「論破」が実は建設的ではないこと、論破合戦を繰り広げることはそれ自体がゲーム化し、彼らがそもそも変えるべきと言っている状況はほとんど何も変わらないこととも似ている。
・P143 コグニティブ・エンパシーとは瞬時に他者の感情が伝染するような類のものではなく、相手がその感情を抱くようになった理由を深く論理的に探究するための学習と訓練の果実なのだと思う。
・P245 本書の冒頭で、アナーキーとエンパシーは繋がっている気がする、というきわめて主観的な直感を述べ、アナーキック・エンパシーという新しいエンパシーの種類を作る気概で書く、と大風呂敷を広げたのだったが、実は両者は繋がっているというより、繋げなくてはならないものなのではないか。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものに変わってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。
・P273 この言葉で思い出すのが、アナキズムと民主主義はおおよそイコールで結べると言ったデヴィッド・グレーバーだ。違う考え方や信条を持つ人々が集まってひたすら話し合い、落としどころを見つけて物事を解決していくのが民主主義の実践だと彼は言った。つまり、アナキストの学校はこれを忠実に行っていることになる。
・P290 子どもたちが自分で物を考えなくなったとか、自分の意見を言えなくなったとかいう前に、我々大人たちは、彼らが進んで何かを言う気になるアナーキーでエンパシーある空間を提供しているかどうかを考えてみなければならない。
しかし、現代の学校現場では、試験や進学のための知識が重視され、エンパシーのようなものは「ソフト・スキル」として軽視される。このことについて、ゴードンはこう話している。
教育の目的は何なのかと聞きたくなります。国のGDPに貢献するだけの市民を育てることが目的なら、「ハード・スキル」に重点を置けば達成できるでしょう。でも、人々の経済的な貢献を超えた、別の部分でのシティズンシップとは何でしょう?社会のソウルとは何でしょう?教育の成功を規定する測定基準とは何でしょう?子��もたちに読むことを教えるのと同じように、他者と関わることを教えるのも重要です。
・P296 「アナーキー」は暴力や無法状態と結びつけて考えられやすい。しかし、その本来の定義は、自由な個人たちが自由に協働し、常に現状を疑い、より良い状況に変える道を共に探していくことだ。どのような規模であれ、その構成員たちのために機能しなくなった組織を、下側から自由に人々が問い、自由に取り壊して、作り変えることができるマインドセットが「アナーキー」なのである。
そう思えば、機能しなくなった場所、楽しさも元気もない組織、衰退している国などにこそ「アナーキー」のマインドセットは求められている。そしてそのマインドセットをもって人々が緑色のブランケットの周りに集まって話し合い、「いまとは違う状況」を考案するときに必要不可欠なスキルこそ「エンパシー」という想像力に他ならないのである。
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2021/08/24 10:04
投稿元:
想像してた続編とは違い面食らった感と共に読みにくさを感じた←これは自分の責任
読むタイミングが違ったかも。また改めてしっかり読みたいと思わせてくれる1冊。
なので今回は☆はあえてつけず
2021/08/29 19:42
投稿元:
「僕はイエロー…」が良かったから、読んでみた。
エンパシーをメインテーマに深く掘り下げた学術論文みたいになっていて、期待とは少し違った。
ブレイディさんはアナーキストを自称する社会派らしく、政治や経済に関する解説はとてもわかりやすかった。Japanificationや、70〜80年代にパンクロッカーが出てきた背景あたりの話は「そうだったのか!」と楽しく読み進むことができた。
正直言って、エンパシーの専門的な分類なんかはどうでも良かったけど、「自分の靴を脱がないと、他人の靴は履けない」というようなくだりが印象に残った。普段他人の立場に立って物事を考える時、私は自分の靴を脱いでいるのだろうか?ひょっとして、自分の靴を脱ぐ術が上手くなれば、もっと相手がわかるようになるのかもしれない。この辺がエンパシーが「スキル」であるという由縁なのかも。
メインテーマとは別に、「集団は個人を生かす場所でなければならず、個人を奴隷にしようとする組織は創造性がなくなり衰退する」というところが、今の自分にはいちばん響いた。人というのはしょっちゅう間違える生き物なんだから、そもそも人のことなど裁けないんだということも。
ともあれ「僕はイエロー…」の続編が楽しみだ。
この本の後だから、重たくなってしまっていないか、ちょっと心配だけど。
2021/08/22 09:52
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「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読み、そして、この本を手に取りました。
著者はこの本を副読本とおっしゃっていますが、位置付けはその通りである一方、生半可な気持ちで読み進めると、グサグサと自分自身の考え方を刺される感じを受けました。
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」は、著者の膨大な知識がバックボーンとしてあった上で、成り立っているものと感じます。
2021/09/29 21:46
投稿元:
他社の靴を履く…とっても分かりやすい比喩で、エンパシーを表現してくれた。
最近色んなところで本来の民主主義についての文章を目にする。読めば読むほど、1番日本人に足りなくて、必要な事だと思いました。
2021/08/25 16:33
投稿元:
「エンパシー」というものについて、様々な議論があるんですね。知りませんでした。そのせいか自分には難しくてなかなか頭に入ってきませんでした。この分野の識者の引用も多くちょっとしんどかったです。アナーキー、自立、溶けていくようで失わない?やはり難しい。これまでの著者の売れた作品とは違うので注意。私はこれまでのアネクドート的なストーリー・文章の方が好みです。
2021/08/27 12:14
投稿元:
最近読んだ何冊かのビジネス書より、仕事の面でも暮らしの面でもはるかに気づきのある内容でした。
著者のこれまでのエッセー・コラム的な書籍とは全く毛色の違う、ややカタい本です。面食らう方もいるかもしれません。
ただ「エンパシー=他人を理解する能力」の重要性をよく知ることができました。
いまコロナによって暴かれたりより深刻化している様々な問題の、克服のきっかけにもなるかもしれません。
政治や社会運動、福祉に関心がある人はもちろん。
たとえば、人事関係の仕事やマネジメント職、チームでイノベーション創出に取り組む人、世の中のインサイトをとらえたいマーケティング関係者、企画関係の仕事…など、あらゆる人のヒントになります。
(同僚にリコメンドしました。)
2021/09/12 10:50
投稿元:
<目次>
はじめに
第1章 外して、広げる
第2章 溶かして、変える
第3章 経済にエンパシーを
第4章 彼女にはエンパシーがなかった
第5章 囚われず、手離さない
第6章 それは深いのか、浅いのか
第7章 煩わせ、繋がる
第8章 速いエンパシー、遅いエンパシー
第9章 人間を人間化せよ
第10章 エンパシーを「闇落ち」させないために
第11章 足元に緑色のブランケットを敷く
あとがき
<内容>
『僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のブレイディみかこさんが、この本の中から話題となった、「エンパシー」を追求した本。もともとアナーキストの発想なので、その視点が多く入っているが、ものすごく本を読んでいる人なのだがと実感。心理学者や教育者、哲学者の本が次々と引用される。ものによっては論破もされる。言いたいことは、「エンパシー」の本質。「エモーショナル・エンパシー」ではなく、「コグニティブ・エンパシー(その人物がどう感じているかを含んだ他者の考えについて、より全面的で正確な知識を持つこと」「どちらかというとスキルのようなもの」。つまり、能力で後天的に身につけられるもの。これを身につけることで、他社の痛みも感じつつ、それに全面的に共感はせず(してしまうと、相手がサイコパシーなどだったら誘導されてしまうし、ストックフォルム症候群にもなりうるから)、自分の意思をしっかりと持ちつつ、吾相手を重んじだり、お互いの共通項を作ったりしていくこと。そして、それこそが「民主主義」の根幹なのかもしれない。ということは、教育界で伝えることで(教えることではない)、学んでもらいたいことなのではないだろうか?著者はこれを、「他者の靴を履く」と表現をしている。人間は難しい生き物なのだが、以前読んだ『HUMAN KIND』を含んで考えると、今後の世界を考え、変えていく示唆になるのではないか?
2021/08/29 07:43
投稿元:
シンパシーとエンパシーの違い
自立と自助の違い
他者の靴を履く力ってトレーニングでつくものなのか?
履いて合わないことに気付いてその上で相手に「私の靴を履け!」と言わないようにできるといい
相手の思いを慮るのは慣れないと難しい
そして、相手の思いを慮った上でそれに引きずられず、互いの落とし所を探すというのも
でもアナーキーに、つまり既成の良識や宗教、「空気」のようなものでなく自分がよいとおもうものを判断の基準に据えられたらいいだろうな
みかこさんの書くものは具体的に処方箋が、ついているから読みごたえがあるな
2021/09/11 11:09
投稿元:
エンパシーは『他者の感情や経験などを理解する能力』と定義され、シンパシー(感情や理解など)と区別されている。他者の靴を履くときも、自己を失わず行う。そして理解できなかったとしてもそれを考慮に入れる穏当さが重要だと締めくくられている。言葉だけが先に広がってしまった『多様性』への向き合い方を教えてくれるような内容だった。
2023/02/18 21:45
投稿元:
さすがブレイディさん。副読本というだけあって、難解で読むのに苦労した…でも、頑張って読んだだけあって、「他者の靴を履く」という意味が少しだけ深まったような…
p.14
・エンパシー…他者の感情や経験などを理解する能力
・シンパシー… 1.誰かがかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
2.ある考え、理念、組織等への指示や同意を示す行為
3. 同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解
p.15 エンパシーとシンパシーの対象の定義を見ても、両者の違いは明らかだ。エンパシーの方には「他者」に係る言葉、つまり制限や条件がない。しかし、シンパシーのほうは、かわいそうな人だったり、問題を抱える人だったり、考えや理念に指示を同意できる人とか、同じような意見や関心を持っている人とか言う制限が空いている。つまり、シンパシーはかわいそうだと思う。相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解や、それに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだと思わない。相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる。知的作業と言える。
息子は学校で、「テロやEU離脱、広がる格差で、人々の分断が進んでいる。今、エンパシーはとても大切です。世界に必要なのはエンパシーなのです」と教わったそうだ。
p.17 エンパシーの種類
①コグニティブエンパシー:認知的・スキルみたいなもの
息子風に言えば「他者の靴を履いて」、他者の考えや感情を創造する力であり、その能力を測る基準は、想像の正確さだと心理学の分野では定義されている。
②エモーショナルエンパシー:感情的
1.共感 2.他者の苦境へのリアクションとして、個人が感じる苦悩 3.他者に対する慈悲の感情
③ソマティックエンパシー:②-2を推し進めたもの。他者の痛みや苦しみを想像することによって自分も同じようにフィジカルに感じること
④コンパッショネイトエンパシー
他者が考えていることを想像理解することや、他者の感情を自分も感じるといったエンパシーで完結せず、それが何らかのアクション(行為行動)を引き起こすことだと言う。
p.23 加害者にリベンジしているつもりの者たちは、被害者やその家族に、自分自身の想像や怒りを投射しすぎていると言える。他社の靴を履いているつもりが、自分の靴で他者の領域をズカズカ歩いているのだ。
p.30 エンパシーの概念は、8つ
1. 他者の内的状態(思考と感情を含めて)を知ること
2. 観察対象である他者と、同じ姿勢になる、または、同じ神経的反応が生じる事
3. 他者が感じているような感情を抱くようになること
4. 自分自身が他者の立場にいるところを直感あるいは投影すること
5. 他社がどのように感じたり考えたりしているかを想像すること
6. もし相手の立場にあったとしたら、自分はどのように考えたり感じたりするのかを想像すること
7. 他社が苦しんでいるのを見て、苦痛を感じる事
8. 苦しんでいる他者に対する感情を��くこと
『共感の社会神経科学』
p.31 つまり、自分を誰かや誰かの状況に投射して理解するのではなく、他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者としての存在を認め、その人のことを想像してみること。他社の臭くて、汚い靴でも、感情的にならず、理性的に入ってみること。とは言え、本当に人間にそんなことができるのだろうか。しかし、エンパシーが「アビリティー(能力)」だとすれば、きっとableな人にはできるのだろう。=金子文子
p.33 食事も満足に与えられず、または食事を拒否して空腹だったかもしれない。文子の端に、おいしそうなめざしの匂いが漂ってくる。「貴様らだけ飯を食いやがって」と怒りがこみ上げても不思議ではない。人をこんな目に合わせておいて、のんきに目指し、何か焼きあがって、ふざけんなと。だが、郁子目指しの匂いを海で、女、干支の食生活から、その質素な暮らしぶりを想像してしまうのだ。あー、この人の生活もきっとそんなに楽では無いんだろうと。
p.35 いずれにせよ、金子文子は、世間一般の「belonging(所属)」の感覚から、完全に外れたところで、成長した人だったからこそ、瞬発的に「敵vs友」の構図からするっと自由に馳せることができたのは間違いない。と言う事は、「belonging」の感覚が強くはまっていればいるだけ、他者の靴は履けないと言うことになる。特性が、自分を守ってくれるものだと信じ、その感覚にしがみつけばしがみつくだけ、人は自分のくせに拘泥し、、自分の世界を狭めていく。
p.41 言葉は思い込みを溶かす。固まっていたもの、凍っていたもの、変だと信じていたものを溶かして、帰る。誰かの靴を履くためには、自分の靴を脱がなければならないように、人が変わるときには、古い自分が解ける必要がある。言葉には、それをとか力がある。
p.45 エモーショナル・リテラシー
直訳すると「感情の敷地」であるが、それは、様々な感情を感じ、理解し、表現する能力のことを指す。同時に、その能力を高めることも含まれる。感情に振り回されるのではなく、感情を使いこなせるようになるための方法である。(「世界」2020.2月号)
p.50 どの子人生を奪う手段は、髪型を統一し、同じ服を着せ、全員お名前のない集団にすることのみではない。互いに個人として交わすことのできる会話の価値も、また、個人性の創出につながるのだ。
エムケがここで書いているのは、強制収容所のような極限まで自由を奪われた生活の中で、人間が人としての尊厳をはぎとられて「物」にされた状態のことだ。こうした状況下では、何か間違ったことを言えば、拷問されるかもしれないと言う恐れや、言葉を外せないほどの体力の欠如、極度の疲労など、収容所で、人々が話をしなくなる理由はたくさんある。だが、何より、人に会話をさせなくするのは、「主体性をなくした」と言う感覚だとエムケは言う。
主体性とは「I」である。「I(私は)」と言う手法をなくす時に、人はどう文章を紡いで何をしゃべればいいのだろう。エムケは、ハンナ、アーレントの「人間的な事柄の絡み合い」(すなわち、他者との会話や相互理解)と言う言葉を引用して、人間は他社と言葉を文��を交わすことによって、自己認識に至る言語的存在であり、人間の自意識は、孤独の中で自然に出来上がるものではなく、他者との関わりがそれを作っていくのだと主張する。
エムケがこう書いている。
つまり、自身の継続的、アイデンティティーが証明され、確認され、問われるのは、他者との会話においてなのだ。他者との会話によって初めて、体験したことを理解し、それを経験として定式化することが可能になる。人間のあらゆる特色や相違点、類似点、多様性、すなわち、個人性は、他者の証人又は拒絶を通じて初めて浮き彫りになるものだ。
p.55 彼の視点に立って物事を考えてみるまで、本当に他者を理解することなんてできない。彼の肌の内側に入り込んで、それを身に付け歩くまでは。
他者の肌をまとって、歩くと言う行為こそ、俳優たちが日常的に行っていることだ。(アラバマ物語)
俳優は、人間の表情や言葉と感情のリンクを正しく知り、そのリンクを使いこなしながら、様々な人物の経験やストーリーを観客に伝える。
p.58 人が話せるようになり、嘘ばかりついていた人が「I」を主語にした言葉で話せるようになるには、自分をさらけ出しても安全だと思える場所として機能する空間が必要だと言う。TCのサークルは「サンクチュアリ」として機能しているからこそ、人々が新たな言葉を獲得する場になっているんだ。(プリズム・サークル)
p.60 SNSが、普段の生活では、信じられないような日々、人間的な言葉が渦巻く場所になってしまうのは、匿名で書けるからと言うより、あまりにピュアに「見られること全て」の「表舞台」なので、他者を1人の人間として見られなくなり、エンパシーが機能不全になるからではないか。シンパシーの「いいね」はたくさんをして、押されているのに、エンパシーの荒野になりがちな場所。それがSNSではなかろうか。
p.64 何年も前、電車で器用な中学生男子がもう1人から一方的に気づかれたり、首を締められたりしていた。「やめなよ。私だったら嫌だよ、こんなことされるの」といじめっ子に言った。続けて「でも大変だよね、君も。学校も家も、きついよね」と言ったら、手を離し、表情から緊張が消えた。(プリズム・サークル 坂上監督)
「本当の自分」、「本当の誰か」と言うコンセプトから解放される事は、貴族生のアイデンティティーは1つしかないと思い込むことからの解放に似ている。たった1つでなければならず、たった1つであることが素晴らしいなどと言う思い込みから外れること。そうすれば、人は、一束の自分の靴に健児せず、他者の靴を履くためになることができるようになるかもしれない。言葉はそのきっかけになれる。既成概念を溶かして人を自由にするANARCHYの力が言葉には宿っているのだ。そして、それはやがて、社会全体を溶かし、変容させるウィルスのような不可視の有機体にもなれる。
p.73 一般家庭で自主隔離している人々は、いつでも好きなときに洗面台のある場所に行っててが洗えるのだから、そんなものはなくても困らない。看護、保育、介護などのトリッキーな状況に直面することの多い現場で働いている人々の日常、想像できれば、いや本当にこれが必要な人たちは外にいるよねとわかるはずなのだ。
p.74 人々が買い求めたのは長期保存のきく食料→フードバンクの食料がない(人々は、自分が将来食べられなくなることを心配して、今食べることができない人々の食料を奪っているのだ。)
これにしても「思いやりがない」だけでなく、「サバイバル法の勘違い」を示す典型的な例と言える。貧困層の人々を食事もできないようにして、体力を弱らせ、感染症にかかりやすい状態にてしまう危険性を考慮していないからだ。WHOは低所得者の方が高所得者よりもかかりやすい疾病を「Disease of poverty(貧困の病気)」と呼んでいる。そして、低所得層の国々(発展途上国)の感染症でなくなる人々の割合は、高所得の国々に比べて圧倒的に多いと報告書で発表している。その理由として挙げられるのは「栄養不良」や「劣悪な住居環境」、「貧困の連鎖」などだが、同じ国内に住む人々の間でも、これだけ格差が拡大している。現在、「貧困の病気」の原因は、そのまま先進国の貧困層にも当てはまる。ならば、感染症の爆発的拡大を防ぐことが目標である場合には、低所得層から食料を取り上げるのではなく、むしろその層こそ重点的にに支援していくべきなんだ。
p.95 彼女の性格的な弱点、そして彼女の首相としての弱点は、様々な段階で助けを必要とする人々が、おそらく人口の10%から20%は存在すると言うことを、けして本当に理解しなかったことだ。人口の中に含まれている多くの人々に、彼女は目を向けず、耳を閉ざした。
p.107 スコットの言う自立、サッチャーが信じた自助
independentの意味
いかなる意味でも、他の人々や出来事や物事から影響受けず、あるいはコントロールされていない
自分で自分の事はなんとかする「自助」と、誰からも支配されない「自立」は別物だ。なんとなれば、政府に言われる「まずは自分でやれよ」は、そこから既に国家から命じられる支配が始まっているのであって、言い方を変えれば、国はあなた方から税金を徴収しますが、あなたたちを助けることをしません、と言うことだ。これは、一般に「ぼったくり」と言うことでは無いのだろうか。
ちなみに、self-help(自助)の意味はこうなっていた
自分や、自分と似たような経験や逆境にいる人々のため、公的組織に行かないで必要なものを自分自身で与える行為
ここで面白いのは、ケンブリッジのage商事サイトに示された定義には、「自分」だけでなく、「自分と似たような経験や逆境にある人々」が、共に入っているところで、そうなってくると「自助」は、非常に身内的で、自分と似た立場や考え方の人々に感じるシンパシーにもつながる。
p.135 他者の靴を履くことができる人たちの社会を作るには、自分たちが自分たちにかけられた呪いを解く必要がある。他者から勝手に押し付けられるカテゴリー分けの箱に入って、箱としての呼称ラベルを貼られ「この箱の中に入っている人たちは、こんな味がします」と言う中身の説明や、「その味がするのはこんな素材が使われているからです」と言う原料リストをびっしり、書き込まれることを拒否しなければ、自分が自分であることを守るのは難しい。人間は、この原料リストに弱いもので、実はそんな事は全然しないにもかかわらず、リス���の香辛料の名前を見て、「そういえば確かにそんな味がする」のだと思い込んでしまいがちだ。
p.138 ところで、サイコパス店ソシオパスといった反社会的人格の対極に位置する「エンパシーの塊」として定義される人格がある。俺パスだ。選抜は、共感力が非常に高い人のことを言うことになっている。心理学者が延発と言う言葉を使う時、それは非常に敏感な人のことで、周囲の人々の感情や考えを察知する能力が高く、他者の痛みのために自分を犠牲にすることもある。(ちなみに、俺パスは、スピリチュアルな用語としても使われることがあり、あちらの世界では、他者のモーションやエネルギーを感じる、サイキックな力を持った人と言う意味になるらしい)。
インパスには、他者にとっては素晴らしい友人になるとか、直感に優れ(他者が信用できるかどうかが瞬時にわかる)、寛大で懐の深い人物であるとか言う長所もあるが、本人にとっては結構辛い人格なのだと言う。友人や周囲にいる人々が経験していることをリアルに感じてしまうからだ。不安や憎しみなど、他者が抱いているダークな感情に、自分自身まで振り回されるようになり、自己と他者の線引きができなくなってて、無理じゃないかと思う事まで頼まれるとやってしまう。そのため、人間に囲まれているのが辛くなり、自然に安らぎを求める人が多いそうだ。光特徴を書き並べているとが明らかになってくるのは、俺パスとは、エンパシーの中でも、いわゆるエモーショナルエンパシーが過剰な人と言うことだ。…俺パスとは、世界の喜びとストレスをスポンジのように吸収してしまう人だ。ほとんどの人間には、過剰な収益から自らを守るための保護フィルターのようなものが備わっている。が、俺パスにはそれが欠如しているので、ポジティブなものであろうとネガティブなものであろうと、周囲の感情エネルギーを吸い取ってしまうと言う。人々の暗い感情を吸い取りすぎて、本人の体調が悪くなることもあるそうで、人がたくさんいる場所が苦手な人もいるらしい。
自分を保護するフィルターの欠如、瞬時に周囲の感情を吸収する能力、と聞くと、これは生まれながらの手術であるのは間違いない。つまり、俺パスと呼ばれる人格は先天的なものなのだ。(サイキックの力と呼ばれることもある位なのだから)。
p.143 コグニティブエンパシーとは、瞬時に、他者の感情が伝染するような類のものではなく、相手がその感情抱くようになった理由を深く論理的に探求するための学習と訓練の果実なのだと思う。
p.156 災害時には、利他的になりたい人の数が急増し、利他的になりたいと言う人々の要求が切羽詰まったものになるとソルニットは言う。これは、自分の生活や生命が脅かされる、経験の中では、生きる目的が必要であり、「楽しい、悲しい」の次元を超えた、深く恋時間を過ごさなければ、自身のサバイバルも難しい状態に人間が落ちるからだ。だからこそ、ソルニットはいう。911の事件発生後、「ニューヨークの通りと言うとおりは、何か与えられるものはないか、何とかして意義あることができないかと探し回る人々で溢れかえった」と。
p.159 民主主義は、違うグループ同士が戦ってどちらが強いかを決める。弱肉強食制度でも、どっちが正しいかを決め���劣肉優食制度でもない。多様な思想や宗教や生活習慣を持つ人々が出会う雑多な場所で、すべての人々がうまく一緒に生きていくために実践してきた民主主義が、二派に分かれて単にぶっ叩き合うことであるわけがない。それは違いが存在すること、相反する心情すら抱いていることを確認しながら、どこまでなら、水着会えるかを探り合い、すり合わせる「あいだ」の空間での地道な会話の連続なのだ。
渡辺一夫は、不寛容に報いるために不寛容を以てなすことは、「寛容の自殺」だと書いた。自らも不寛容に転べば、不寛容を開いさせるだけなのである。そしてそれは世の中全体の不寛容の増加に与(くみ)することになる。
p.179 過密で、グループ中心で、調和に取り付かれている日本で、メイワクは重要な言葉であり、幼い頃から子供たちにたたき込まれるコンセプトだ。それに関連する言葉として、自己中心的であることを意味するワガママと共に。もしあなたがワガママなら、あなたは間違いなくメイワクだ。保育園や幼稚園からこのことについて、教えはこうなのだ。ワガママであり、メイワクである事は悪いことです。(My sense of meiwaku )
p.181 疑いを煩わすことを「悪いこと」とする社会は、表層的には、他者のことをおもんぱかっているように見えても、実は誰とも関わらず「1人」で生きていく人の集団だ。つまり、これこそ「self-centered」、自己を中心とした世界で生きていきたい人々の社会と言うことになり、そう考えると「迷惑をかけたくない」も、あまり利他的には聞こえなくなってくる。網の目のように広がる人と、人のつながりを想像し、人は1人で生きていくわけではないと言う事を知ることから、生まれる罪悪感が「guilt」であるのと、対照的に、「迷惑」は、人間を他社から社団させ、自己完結しなければならないと思わせる。前者は、他者との目に見えるつながりの認識に基づいているが、後者は他者と関わることを悪として、しないように気をつけている、でも真逆といっても良い。
そう考えれば、シンパシー(他社への共鳴や同志感、同情)が党派的であるが、故に、エンパシーを不能にするのと同様、「迷惑をかけない」と言う概念も遮断的である。故に、エンパシーの機能をブロックするものだ。他社の靴をはける人は、他社にも自分の靴を履かせる人ではなくてはならないからだ。このような相互の関係性を成田出せない概念や道徳は、実は人間、本来の欲望に反していると主張したのがレベッカ・ソルニットだ。
p.191 2020年8月号掲載の「2、母と娘」では、まさに親ではない大人である(しかし、親と同じ世代の)上野千鶴子に当て、鈴木涼美が自分の母親についての考察を赤裸々にかけ、綴っている。鈴木が亡くなった母親のことを、大学を出て、しばらくBBCで通訳として勤め、資生堂の宣伝部で美容師の編集をしていた「経済的にも、教育的の恵まれた環境で育った」女性と紹介し、「彼女自身が口にする思想がわかりやすく、リベラルで立派なもの」だった。投票する。そして、彼女にも専業主婦たちを見下していた部分があり、「奥さん」と言う言葉は、学校の父母会で会うような「お母様たち」のことを意味するものであり、自分に向けられるべきではないと思っていたことや、「お母様たち」と自分とはっきり分け隔てる。差別感情を持っていたと書く。さらに、診療所よりも母親を見下していたのは、性産業や水商売で「女」を商売に使っていた人々だった。「娼婦やホステスは、あらゆることを言葉で証明する彼女が、また来る音量を消して否定するもの」だったと。だが、鈴木の母親は、そのように「女」を売り物にすることを間をしながら、「ちょっと異常なほどのルッキズムの傾向」があり、「服にこだわりがあるとか、美しいものが好き、とか言うレベルではなく、明らかに男性の欲望の対象で居続けることへのこだわり」があったそうだ。そして「男性の目線を絶対に意識しながら、実際に取引をしない」「スカウトはされたいけど、スカウトにはならない」タイプの女性だったと言う(ところで、鈴木の母親もきっと「おばさん」と言う呼称が嫌いだっただろう。それは一般的には「男性の欲望の対象」としての価値の減少を意味する言葉とられている身体)。そんな彼女の「男性目線で高い女であることに、何よりも価値を置きながら、露骨にそれを琴線に帰る女性を心底見下している」部分に、鈴木は気持ちの悪さを覚えた。だから、鈴木は、自分が声を直接的に商品化する「夜の世界」に入ったのも、それは母親が理解、抑圧した世界だったからだと分析している。
p.196 なぜなら、日本のテレビ番組の画面は(英語から日本に旅行したことのある人たちがよく言うことだが)「日時」だからだ。画面上の情報量がめちゃくちゃ多いのだ。映像の下のほうに日本語の字幕が出ているかと思えば、左上には時間と気温と天気予報のマークが出ていて、右上には番組の題名のロゴと現在流れているコーナーのタイトルがあり、その人には小さな四角形の囲みがあって、修羅場で映像を見ている。司会者やコメンテーターの顔の動画まで出ている。1つのスクリーンの中にひしめき合うようにたくさんの情報が入っているのだ。これでは、注意力や集中力を逸らさないどころか、かえって散漫になってしまう。どうしてある。1周について、人々を語っている。映像に、気温や花粉情報をつける必要があるのかわからないし、カメラを切り替えればスタジオで見ている人の反応移すことができるのに、なぜわざわざ仮面の1部に入れて同時に映し出す必要があるのか、と考えていて、私はある仮説を立てられることに気づいた。要するに待てないのではないか画面に映っている人が喋り終わるまで待てないので、まだ全部言ってもいない。家から言葉を字幕にして株に出す。今やっているコーナーが終われば、天気予報が始まるのが、それまで待てないので曇りマークやら気温やら、洗濯物乾きやすさを示す指数など常に画面に出しておく。自分が好感を抱いている芸能人が映るまで待てないから、他の人が写っているときにでも小さく、端っこのほうに同時に移しておく。と、帰ってきて、この段落のすべての文章の主語が前半と後半では変わっていることに気づく。誰かが喋ってる終わったり、天気予報が始まったりするまで待てないのは視聴者があり、まだ誰かが喋り終わってもいないのに、言葉を字幕にしてうつしたり、天気予報や洗濯指数を常に画面の端っこに移しておくのは制作側である。こうした文書の主語の揺れにも表れているように、視聴者が「待てない」から制作、顔、顔そうするようになったのか、��作動画「視聴者待てないだろう」と考えて、こういう画面作りにするようになったのかわからない。が、この情報量の多さは、他の欲しい情報があったら、いつでも自由に別のサイトに飛んでいけるインターネットの「速さ」に対抗してるように見える。テレビは自由に切り替えることができないから、とりあえずいっぱい情報を映しておけば、どれかに誰かが引っかかってくれるだろうと言うわけだ。「待たずにすぐ何かの情報を得ることができる」と言うコンセプトは、「ライク」は手間がかからないと言う鈴木の指摘にもつながる。シンパシーはインスタントなのだ。それは、情緒や感情だから、瞬時にパッと湧き出てくる。そういえば、恋愛感情(太宰治によれば「色慾はWarming-up」)と言うやつも、湧いてくるものである以上、シンパシー・ベースのものだ。他方、他者の靴を履いたら、自分はどう感じるだろう、考えるだろうと想像する能力(エンパシー)は、思考と言うクッションが入るときに発揮するのに時間かかる。シンパシーは速く、エンパシーを遅いのである。
p.200 英国の高齢者が財布の紐を緩める対象はどこか遠くの物事にあるのに対し、日本の高齢者がそうするのは最も近いところある自分自身(の外見)であることに大きな差異を感じるのだ。「意識の肯定」ではなく、「意識の遠近」と言っても良い。実際に見ることができない遠くのもの(しかも、時間をかけて育ったり、達成したりするもの)を想像するスキルがエンパシーだとすれば、英国の高齢者の多くはその能力を使うことを楽しんでいるから慈善団体にお金を払うのだろう。それに対し、自分自身に収束する興味の方向性は内向きであり、即時的だ。「想像する」というより「リアルに目に見える状態」、遠くの国にいる子供たちが育った10年後、20年後の変化ではなく、今自分の 肌や髪や体型に出る効果が求められているのだから。しかも、その効果とは自分のあり方ではなく、自分の見られ方に関わるものだ。「若見え」「老け見え」などと言う「〇〇見え」と言う新しい日本語の流行からも、他者からどう見られるかと言うことが日本では異様なほど大事になっていることがうかがえる。内向きになった関心が最も近いところにある自分自身にたどり着き、それがさらに自分の内面に入り込むのかというとそうではなく、肌の表面で乱反射して中の外見でストップした、そういう感じすら受ける。冒頭の「おばさん問題」にしてもルッキズムの問題が実はすべての大元にあるのは間違いない。午前中のテレビ で「実年齢より若いと言われます」と言った誇らしげに微笑む「61歳〇〇さん」「54歳〇〇さん」と言う(架空の名前を与えられた)モデルたちが「若見え」美容液やサプリを宣伝してる時間帯に、「おばさん問題」を取り上げた番組が流れているのは、同じコインの裏表なのだ。上野は前述の往復書簡で、「男が評価するのは女性の知性ではありません、わかりやすい外見です」と書いたが、これは男だけのことではないだろう。人が他人を評価するのはこのサイズの紐緩めて投資する人が多い(だからその種の製品のCMばかりになる」まであり、「おばさん」と言われて傷つくのも、実際に歳をとっているからと言うより、「若見え」していないからだろう。ここで出会う問題なのは、本来は主観的で「個人的」なものである��ずの美的感覚が、「若い=美しい」と言うすこぶる全体主義的な尺度になってしまっていることなのである。そもそも、こうした刷り込みを繰り返さなければ、人のフェティッシュの方向性は多種多様なはずであり、顔の部品の大小や形、体型から色の肌の色やテクスチャーに至るまでそれぞれに美しいと思うものは違うはずだ。だが、「女の子の色はピンク」「男の子の色はブルー」と言われて育つのと同じように、ある年齢になると「えー、あんな顔した子が好きなの?」とか「肌はツルツルしている方がきれいなんだよ」とか言われて、子供は「あ、自分がおかしかったんだ」と思い、美醜についての判断基準の修正を行っていく。ナチスが国民の意識の多様化させるコントロールしようとしていたように、ルッキズムは全体主義とリンクしている(日本にはナチスが存在しないので何が美しいのかの基準の刷り込みを行っているのはメディアと大企業だが)
p.202 他社の靴を履くことに意識が向かう前に、自分の靴を少しでも新しくにするためにひたすら磨き続ける人が増えれば、自分の仕事ばかりを見て、外側で起きていることをよく見ない人々が増える。他者の靴を履くと言う行為は、自分自身の自分以外の人に何が起きているのか、つまり自分の外側(=社会)で何が起きているのかを知ろうとする行為でもある。シンパシーを得ることのにのみ拘泥し、エンパシーを使わない人々が増えたら、どんな立場の人々の仕事がやりやすくなるのかと言う事は一考の余地がある。
p.222 靴、とは自分や他者の人生であり、生活であり、環境であり、それによって生まれるユニークの個性や心情や培われてきた考え方だ。他者の靴を履くとは、その人になったつもりで想像力を働かせてみることだが、それが「できない」のは、実はあまり後出しとは関係なく、単に「現代人はエンパシーを働かせることの精神的負荷を嫌がるから」と言う調査結果もある。多くの人々はエンパシー能力に欠けるのではなく、それをはから働かせるのには精神的努力が必要だから、他者の靴を履いてみることができれば避けたいと思っているのだと言う。
p.232 労働者階級と言うとてこ労働者や炭坑労働者等マットのイメージを伺っていたが、実は、長いスパンで歴史を振り返ると、労働者階級は裕福な家族の世話をする仕事をしてきた階級だったとグレーバーは説いた。実際、マルクスやディケンズの時代の労働者の街の中には、メイドや清掃人、料理人、靴磨き等々、裕福のお屋敷に住む人々に雇われ、お金持ちの家族の様々なニーズを満たし、ケアすることで生計を立てていた人が多かったのだと。これは現代の先進国にも通ずることだろう。製造業が衰退し、労働者階級の中心は介護士や保育士、看護師などのケア労働者か、またはサービス業従事者になっている。現代でも中上流階級の人々は家や労働をする人々を雇う。介護を代行してくれる人、子供の面倒を見てくれる人、家の掃除をしてくれる人、食事を作ってくれる人、それを運んでくれる人、等々である。つまり、社会の構造はマルクスやディケンズの時代に戻っていると言えるかもしれない。ケア労働をする人々は、雇用主(ケアの対象)気持ちを推し図ろうとする。それが職業の基本だから。この人は自分に何をして欲しいんだろう、何をしたら���っと喜ばれるのだろう何をしたら嫌がられるんだろうと「相手の靴を履いて考える」ことなしに、ケアの仕事は成立しない。他者をケアする(助ける)性質が労働者階級特有のものになったのはこれのせいだとグレーバーは言う。富と権力を持つ人々は、逆に下々のことなど気にしない。人の顔色を伺って生きていく必要のない階級だからだ。
p.233 また、ケア階級について語るとき、触れておくべきことに「感情労働」の問題がある。この言葉は米国の社会学者A.R.ホックシードが1983年発表した著書『管理される心ー感情が商品になるとき』のなかで使ったもので、感情の抑制や鈍麻、緊張や忍耐を知られる職業のことだ。つまり、自分の業務のために常に感情を管理することが求められる仕事だ。「肉体労働」「頭脳労働」に対して、「感情労働」も存在すると言うことである。
p.246 さらに、すごいネーミングなのが「ヴァンパイア的エンパシー」だ。これは、他者の経験を自分自身の経験であるように感じすぎるために、自分と他者の壁がなくなってしまい、不健康なまでに密着した関係になってしまうと言うものだ。誰かの経験をシェアする機会があまりに長く持続的に存在すると、それが私の経験であることを忘れ、自分の意思で他者を動かしたくなると言う。その例として挙げられるのがヘリコプターペアレント(上空から子供を常に監視し、何かあると降りてくるヘリコプターのように過保護過干渉な親)だ。そういう親は、子供を自分の思い通りにしたい支配力の強い性格であり本人の人間性の問題だと片付けられだけだった。しかし、ブライトハウプトによれば、ヘリコプターペアレントと言う現象にも、エンパシーと言う人間の能力が介在していると言う。親は長い年月、子供を育てながら、これを子供の成長の喜びや失敗の悲しみを身近で目撃し、分かち合う。そうするうちに、子供の靴を継続的に履いて嬉しさや悔しさを自分事のように感じるようになる。こうやれば失敗しないのではないか成功やったらうまくいくのではないかと自分のこととして考えるようになってしまうこうして子供の成功は親の成功になり、子供の心配も親の失敗になってしまうので、親がすべての決断を自分で下し、子供を従わせようとする。子供には失敗を経験する権利があることを認めなくなるのだ。これなどは、たh差の靴を長いこと継続的に履きすぎて、本来の持ち主に返さなくなっている状態だろう。
p.253 エンパシィがどう自分にとってためになるのか、ブライトハウプトは3つの点にまとめている。
1. 私は我々が1つでなく、複数の世界に住むことを可能にしてくれる。エンパシィを通して我々は他者の経験を想像し、実際に心情的には一緒に体験し、他者の周囲にある世界への感情的的的なリアクションに参加する。これに密接に結びついているのは、人間のナラティブの能力だ。それは読者や観客を、そこで出会わなければさせなかったであろう新たな世界へ連れて行く。
2. エンパシィはある等の状況の経験を、別の視点を開くことによって複合的にすることができる。それは我々が複数の視点(同じ状況を違う視点から見ている自分の視点とか者の視点)の間を行き来することを可能にする。エンパシィが持つ我々の視点を複数複合的にする力は、我々が社会生活を送る上で必要不可欠なものだ。
3. エンパシィは純然たる存在を感じられる瞬間(重要性の感覚)の美的強化でき強度を高める。このような瞬間は、独特の時間的構造を持つ。我々が強烈にある瞬間に刷り込まれている。われわれはその瞬間の未来や過去の過去を想像して経験し、その出来事のオルタナティブなバージョンを考える。これは反事実的なバージョンを含んでいて、あたかも精神的にその瞬間を一巡してもとに戻ったり進んだりし、時間的推移の結び目を作っているようだ。
エンパシー能力の低い人はエンパシィ能力が高い人に比べて、世界の見方や広がりに深みがなくなるとブライドハウプドは言う。だから、倫理的な効力と言うよりも、個人の視野に広がりと深みを持たせるためにエンパシィ教育が役立つとも主張している。
p.256 「祖母や叔母の無常や冷酷からは逃れられる。けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い」金子文子は13歳で自殺を思いとどまったときの心情をこう書き残している。
p.296 そう思えば、機能しなくなった場所、他の人も元気がない組織、衰退している国などにこそ「アナーキー」のマインドセットを求められている。そしてそのマインドセットを持って人々が緑色のブランケットの周りに集まって話し合い、「今とは違う状況」を考案するときに必要不可欠なスキルこそ、「エンパシィ」と言う想像力に他ならないのである。
p.302 グレーバーは、「合理性でなく穏当さ」が必要なのだと言った。他者を「judge」して弾いていく事は秩序ある社会を作るために合理的ではあるだろう。しかし、それはグレーバーの言った「穏当さ」とは違う。むしろ私たちは多様性と言うカオス(混沌)を恐れず、自分の靴を履いてその中は歩いて行けと彼は言っているのだ。特に自分の靴を脱いで他社の靴を履くことで自分の無知に気づき、これまで知らなかったし、ほっとしながら、足元にブランケットを広げて他者と話し合い、その時、その時で困難な状況折り合いをつけながら進む。「穏当さ」はその日常的実践の中でしか育まれないとグレーバーを考えていた。それは大きなシステムで一斉に、自動的に行えるようなことでは無いのだと。「理解できないことがあっても、どのみちそれを考慮に入れなくてはいけない、と言うことを受け入れること」
そこまでが「穏当さ」に含まれるとグレーバーは言った。ならばそれは、多様性の時代が提示する落とし穴ではないだろう。むしろ、それは自然に目の前に広がっているカオスから目を背けず、前に進むための叡智であり、覚悟のようにわたしには聞こえる。
2021/10/01 11:28
投稿元:
「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」で書いた「エンパシー」が反響を及ぼし、それでは「エンパシー」について掘り下げて考えてみよう、として書いた。
「他者の靴を履く」 相手の身になって考えてみる、といってもなかなか難しそうで、技術もいりそうである。
中学生の息子さんはテストで「エンパシー」について説明せよ、との問いに「他人の靴を履くこと」(To put yourself in someone's shoes)と書いてマルを貰った。この表現は英語の定型表現だという。
メモ
英英辞書(Oxford Learner's Dictionaries)による氏の確認
・enpathy・・他者の感情や経験などを理解する能力
・sympathy
1.誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと。
2.ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
3.同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解
「○○のシンパ」などと言う言葉を読んだ記憶。2や3の意味なのだろう。
エンパシーにもいろいろあって、
・コグニティヴ・エンパシー
・エモーショナル・エンパシー
・ソマティック・エンパシー
・コンパッショネイト・エンパシー などがある。
コブニティヴ・エンパシーは「認知的」とも訳され、「その人物がどう感じているかを含んだ他者の考えについて、より全面的で正確な知識を持つこと」という考え。息子さん風に言うと「他者の靴」をはいて他者の考えや感情を想像する力であり、その能力をはかる基準は想像の正確さだと心理学の分野では定義されている、という。
○ポール・ブルームの考え
・ミラー・ニューロン(脳内で相手をミラーリングする)の限界を指摘~「そもそも他者は自分と同じであると仮定されている」・・ちがうのに・・
「私たちは自分をモデルに他者を理解しようとするがゆえに、世界には不幸(と、もらってもうれしくない誕生日のプレゼント)が絶えないのである」
・これは読みようによっては「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というマタイ福音書の言葉に真っ向から挑戦している。
○本当の自分はひとつではない
人は様々な顔を持つ。どれか一つが「本当の自分」と思いこむ必要はないし、誰かから「これが本当の君の顔だ」と決められる筋合いもない。
2021.6.30第1刷 2021.7.25第3刷 図書館