最期の死に方についてもっと話し合う世の中になってほしい
2022/01/18 22:41
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投稿者:魚大好き - この投稿者のレビュー一覧を見る
前著「安楽死を遂げるまで」の続編で、スイスで安楽死を遂げた日本人女性とその家族や友人を取材したルポタージュ。
まだまだ勉強不足で自分の考えがまとまらない。だけど選択肢の1つとして安楽死を日本でも出来るようになれば良いと思う気持ちは昔から変わらない。緩和ケアで肉体以外に精神的にも楽になれればその方法が1番いいのかもしれない。けれどそれは当事者でないとわからない。多系統萎縮症やALSなど、意識はあるのに体はどんどん不自由になっていく苦しみは健常者にわかるはずがない。
「生きる権利」「死ぬ権利」、両方あっていい。
大事なのは本人が決めた最期の死に方を周りの人間は受け入れること。普段からお互いに話し合うことがしこりの残らない最期を送り出せることは間違いない。
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私の父が前立腺がんで全身転移、最後には緩和ケア病棟でセデーションを行いました。
私自身も、がん専門病院の生命倫理の研究室で事務員として働いていたことから、安楽死は身近で議論されていました。
それでも私の中で日本における安楽死の是非について未処理のまま。
そんな時に、ジムでNHKスペシャルの「彼女は安楽死を選んだ」を見て、ダンベル片手に立てなくなるほど衝撃を受けました。数年後の今年、この本を本屋で見つけて「安楽死を遂げるまで」と共に購入してすぐ読みました。
何度も号泣。
けっきょく、まだまだ日本で安楽死の法が敷かれるのはまだまだ先だな…と思うと共に、私の中で安楽死についてはいったんケリが着きました。
最後には、「家族を大事にしよう、きちんと話をしよう、そしてそれぞれの最期の時にはお互いに納得のいく逝き方を探ろう」と思ったのでした。
私は未婚のひとりっ子。父は既に亡くし、母と祖母ひとりの女3人。最近めっきり弱った祖母は、「前はあんたが結婚しないって決めたならそれでいいって思ってた。でもね、やっぱり、今になってみると結婚して家庭を持つって、幸せよ」と言われて、結婚したくなった今日この頃…笑
もしかしたら私が死ぬ頃には安楽死が法的に認められているかもしれない。どんな死を迎えるかわからないけれど、とにかく、愛に溢れた生き方をしようと心に決めたのでした。
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安楽死を遂げた日本人
著者:宮下洋一
発行:2021年7月11日
小学館文庫
初出:2019年6月(単行本)
安楽死にまつわる世界6カ国での現場を取材した「安楽死を遂げるまで」(2017)を上梓し、高い評価を得た(講談社ノンフィクション賞)著者による、その続編とも言うべき本書。前作を借りに行ったがたまたま貸出中で本書を読む。2冊セットで読まないと価値は半減以下かもしれない。
本書は、前作以降、メルアドを公開している筆者のもとに、メールを寄せた小島ミナという女性が、日本人として合法的に安楽死を遂げるまでをルポしたもの。彼女は多系統萎縮症という病気で、小脳以外の脳幹が萎縮し、全身、とくに胸、肩、腕の痛みはひどく、段々と動けなくなり、食べられなくなり、呼吸も危なくなってくる。イメージとしてALSに近いかもしれない。故郷の新潟で、2人の姉に世話になりつつ暮らしているが、車椅子であっても、なんとかスイスにまで行ける体力が残っているうちに安楽死を遂げたいと強く望んでいた。
最期を迎えたのは、2019年11月、スイスだった。巻末の資料によると、その時点で安楽死または自殺幇助が認められていたのは、オランダ、スイス、ベルギー、ルクセンブルク、アメリカの一部の州、カナダ。オーストラリアは90年代に一部の州で成立したが97年に連邦議会が廃止したものの、2019年6月にビクトリア州で自殺幇助が認められていた。
スイスには、ディグニタスという1998年に設立された世界最大の自殺幇助団体がある。会員数1万382人で、それまでの幇助者数は3248人、外国人も受け入れている。小島ミナが希望していたのは、著者が前作で紹介したライフサークルという団体。エリカ・プライシックという女性の医師が設立した団体で、会員登録した希望者の中から、厳正な審査を経てプライシックが認定した人だけが自殺幇助してもらえる。もちろん、会員登録の段階でも厳しい書類審査があり、ここがまず関門となる。また、年間に行う数を制限していて、その範囲内でしか行わない。
小島ミナは高校を卒業すると韓国に渡り、1年間言葉を学んだ上、ソウル大学に入って4年間を過ごす。帰国後、韓国語の通訳と翻訳をしていたが、英語には強くなく、それが大変な苦労だった。英語で、自分の意志でしっかりと伝えなければいけないが、英語でメールをすること自体にも苦労している。もちろん、医師の診断書など必要書類もすべて英訳する必要がある。
苦労を重ねてライフサークルに会員登録をしたが、自殺幇助は断られてしまった。2020年3月まで空きがないので、ディグニタスかエックス・インターナショナルを試してくださいと返事が来たのだった。3月までは自殺幇助の対象となるかどうかの検討すらできない、ということだった。彼女は3月まで自分の精神状態が持つかどうかという問題があったため、失望していた。ところが、突然、〝キャンセル〟のようなことが起き、2019年の11月に空きが出た。
姉たちは、自分が最後まで世話するからと説得していたが、最終的にはスイスまで2人ともついていき、立ち会うことになる。本人の希望どおりにいかなくてまだまだ現実感がなかったの���、突然、年内に出来ることになった時の気持ちは大変だったことだろう。本人の心境はどうだったんだろう。表面的には希望がかなってよろこんでいるが、覚悟を決めるというのは、やはり時間的なものが必要のようにも思えるが・・・
当日、プライシック医師の兄であるルエディが手伝う。著者は彼の車で移動したが、途中で薬局に寄って「ペントバルビタール」という薬物を入手した。一瞬で死に至らしめる薬物が、数百円で売られていた。ルエディは幇助の際にビデオカメラを設置して、警察に見せる動画を撮影する役割を担っていた。自殺幇助のたび、警察は殺人の疑いがないか1回1回調査を欠かさない。直後には検死官もやってくる。
プライシックは、普段と変わらぬシンプルな服装で現れた。ワインレッドのスウェットパーカーに黒のジーンズ。彼女が白衣を着ることはほとんどないそうだ。必要な説明をし、本人に名前と生年月日を聞き、なぜライフサークルに来たのかを聞くと、点滴の針がささっている、ストッパーを開けるとどうなるかわかるか?と最後の質問をして答えを聞く。そして、「死にたいのであれば、それを開けてください」と。
小島ミナは、一瞬の迷いもなくストッパーをこじ開けた。30秒で眠りに入ると説明されていたが、60秒が経過した。みんなにお礼をいう彼女。やがて頭を支える筋力がふっと抜ける。51年の生涯に幕をおろした。苦痛の声もなにもなく、静かに眠っていった。
その様子は、NHKもルポし、オンエアされた。最後の瞬間、ディレクターは足もとの方でマイクを持ちつつ、涙を流している。カメラマンはぶれないように必死でカメラを支えながら大粒の涙を流していた。
著者は、安楽死を望む人からメールやDMを多くもらうが、ほとんどに返事をしない。彼らが望むのは、ライフサークルなどへの口利きやアドバイス。しかし、安楽死や自殺幇助の手助けをすることにつながる行為は一切しない。それは、著者自身が安楽死に対してはっきりした考えをいまだ持ち得ない面があるのだろう。小島ミナのケースでは、自分がプライシック医師にNHKの取材のことで連絡をとったがために、プライシックが年内に優先的にほどこしてくれたのではないかという心配がよぎっていた。
著者は、安楽死に対して未成熟な日本において、安楽死合法化の議論はまだすべきでないと考えている。
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自立心があり、勉強家というのは、安楽死を選ぶタイプの人間に共通することを、著者は取材を通して学んできた。ある程度の収入があって、子供を持たない人間も希望者に多い。小島ミナはどれもが当てはまった。
スイスでは積極的安楽死が禁止されているため、厳密にいうと「安楽死」という用語は間違いで、自殺幇助といわなければいけない。
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【感想】
自らの手で死を選ぶことに抵抗を覚えるのは、「どんなに辛くても、死よりは生のほうが幸せだ」という考えが無意識に宿っているからだ。
しかし、本書の主人公である小島はそうは考えない。小島が罹っているのは多系統萎縮症という難病である。多系統萎縮症患者は末期癌患者と違って、余命がわからない。進行性であるが遅効性なこの病気は、発症してから10、20年は生きることができる。その間、患者には「寝たきりのまま、どう余生を過ごせばいいのか」という不安が常によぎってくる。
本当に今、死ぬのか。まだ人生には楽しみがあり、ほんの小さな幸せでも感じ取れれば、生きる意味があるのではないか。病気の当事者ではない私たちはそう推測してしまう。
しかし、小島は言う。「時既に遅しが一番怖い」と。それは安楽死が日本の法で認められていない以上、外国に行かなければならず、余力を残しているうちから決断する必要があるからだ。そのため、安楽死を希望する人のほとんどが死を選ぶには少し早いタイミングとなる。
小島は筆者の考えを読んでこう言う。「(残りの人生には)そういう楽しさがあるんだから、イコール、生きられると考えているの?」
小島は自らの人生観を「人生は分数だ」と表現している。
「分子は人生の濃さで、分母は生きた年数だとします。私の分子は、49歳で止まってしまったの。分母は51歳。でも結構、濃密な人生を歩んできたので、多分、分子は60歳くらいになるんじゃないかな。そうすると60÷51で、まあ1点幾つにはなるんです。ところが、分子は変わらず、分母はどんどん増えていく。そうすると、分数の値はどんどん小さくなっていく。私は、これ以上、分母を増やしたくないというのが本音」。
結局のところ、「楽しみさえあれば生きていける」というのは、人生を薄めながら生きることと同義なのだろう。ならば余力を残して命を断つことは、決して愚かな行いではない。それは難病、その中でも余命宣告のされない「先の見えない病」にかかったものだけにわかる観念なのだ。
人生に光が見えない病気。そして安楽死ができない日本。「生きる意思と死ぬ意思」の狭間で葛藤する患者と家族。安楽死にまつわる倫理的な問題は、この先もきっと正解は出ないままだろう。
――「生まれてきた時に命の始まりは選べないのと同じで、命の終わりも選べないんじゃないかと若い頃は、思っていました。でもすでにいろんな医療技術が発達して、人の寿命は自然の摂理のものではなくなっている。ある程度の年齢に達すれば、それまで積み重ねてきた経験とか仕事とか、家族や友人関係によって、人生観や死生観や宗教観などが形成されています。それを言い換えれば尊厳と言うのかもしれません。生まれてきた時と同様の状況ではないので、最後にどう死ぬかということは完全に自然なものじゃなくて、個人の尊厳とかも考慮されるべきだと思うんです。でも、人生や死や命は、完全に自分のものじゃなくて、社会的なものなんじゃないかと感じているので、それについての議論があることは自然なことだと思うんです」
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【まとめ】
1 安楽死を望む日本人
自殺幇助とは、「医師から与えられた致死薬で、患者自身が命を絶つ行為」を指す。スイスや米国・オーストラリアの一部の州で認められている行為で、安楽死の一つに数えられる。一方、オランダやベルギーなどで主に認められる安楽死は、「医師が致死薬を投与し、患者を死に至らせる行為」で、正確には積極的安楽死とも呼ばれる。
日本と欧米との間で、安楽死を選択する人の心境は異なる。日本人に多いのは「人に迷惑をかける前に死にたい」という感覚だ。自らの死への動機に「人への迷惑」をあげるのに対し、欧米ではあくまで個人の権利として「死ぬ権利」をかかげる。
スイス北西部にある安楽死のための団体が「ライフサークル」である。スイスの中でも海外からの希望者を受け入れる数少ない団体だ。
ライフサークルに安楽死を依頼したのが、新潟に住む小島ミナ(50歳)。彼女は多系統萎縮症(MSA)という難病に罹っている。知覚や運動機能を司る小脳などの変性によって、歩行障害や言語障害が生まれ、最終的に四肢の自由が効かなくなり、摂取や排泄まで一人でできなくなる。
話の内容はあまりにも重かったが、彼女は常に笑っていた。
「私がこうして笑っているのは、泣いて過ごしても笑って過ごしても、私たちの病気というのは、結論が一緒だからですよ。だったら、泣いて周りの人を不快にさせるよりも、笑っていたほうが、周りもハッピーだし自分もハッピーだなって。それだけです」
少なくとも私の前で、彼女は不快な顔を見せなかった。私は、本当に分からなくなった。
この病気がもたらす絶望を、なんとかして希望に変えられないだろうか。絶望から抜け出るため、彼女は安楽死を望んでいる。しかし、本当にその道は正しいのだろうか。彼女なら、違う道を見つけ出すこともできるのではないかと思っていた。
2 自殺未遂
小島は過去4度、自殺未遂を繰り返している。
小島「恵子姉ちゃん、私には今しかないんだよ、私のことを思うなら見て見ぬふりをしてよ」
自分の病は決して良くなることがない。そして日に日に衰えゆく自分では、いずれ自ら死ぬことすらできなくなる。それを察しての強行だった。
恵子「ミナちゃんは、いま命を絶たないと私は寝たきりになるの、恵子姉ちゃんはそれを望むのかと訴えるんです。この子は何てこと言うのと思いましたよ。そういう言葉を向けられてこちらが何も答えられないのが分かっているわけですから。でも、言う本人はもっと辛いわけでしょう」
4度目の自殺未遂の後、彼女はそのまま病院に入院し、二度と恵子宅に戻ることはなかった。
小島は自身の病気に関わるブログを運営している。ブログの語り口は明るく、多くの読者からは「なぜ前向きでいられるのか」と不思議がられた。しかし、小島は「前向き」ではなく、自らが「今向き」で生きていることを示唆する。彼女は、自身のブログからは希望の要素は拾えないが、絶望を配り歩きたくもない、との思いを綴った上で、今という現実しかないとの考えを読者に示している。この「今向き」という捉え方は実に小島らしいと思う。どうせ先が暗いのであれば、顔で笑い、心で泣く余生を過ごそうと���めていたようだ。
小島「死にたくても死ねない私にとって、安楽死は『お守り』のようなものです。 安楽死は私に残された最後の希望の光なんです」「……私のような状態になった人間にあなたはどんな言葉をかけますか?『がんばって生きて』とも『死んでくれ』とも言えないでしょう。かける言葉がないと思うんです。そういう人間がどう生きていけばいいのか。世の中の病気でない人たちにも、少しでも考えてもらえるようになればと思います」
3 死生観
小島は「他者に迷惑をかけてまで生きたくない」という心理についてこう述べている。
「私も正直下の世話や食事の世話を人から受けたくはないです。 迷惑をかけて申し訳ないと思います。しかし、迷惑かどうかは、やはり患者が決める事ではないと思います。介護を受ける立場としては、下の世話を受けながら、果たして自分はそれでも生きたいという願望を持っているのか、自分の気持ちの確認が必要だと思います」
では、小島が言う「自分の気持ちの確認」とはいかなるものなのか。彼女はブログにその一端を書き記している。
「思うに死を迎えるのに大概はある程度の期間を要します。 その期間とはおおよそアンハッピーな時間ではないでしょうか。ですが、少なくとも、大なり小なりそんな心穏やかな時期を迎える前に、葛藤の時期があったのではないかと思われます。また、即死とか、あるいは眠るように息を引き取るとか、そういう死に方は苦しむ期間・時間が短いです。他の病気について、ほとんど知識もありませんから、比較はできませんが、 この病気に関してはアンハッピーな期間が長すぎます。それを『命に別状がない』として、安易に振り分けてもいいのでしょうか。苦しくても、命があればいいのでしょうか」
「安楽死に反対の立場をとる人がいるのも当たり前だと思っています。またどっちつかずで判らないという立場の人がいることも当たり前だと思います。私はこの多系統という現在では完治の希望の無い病によって、もの凄く不自由な生活を強いられてます。どこにも出かけることなく、毎日窓からの景色を眺めています。しかし、一方、私と同じ病に罹っている方でも、あるいは病種は違えど重い難病に罹患している方、病状がもっと進行してしまい壮絶な苦しみの中にいながらも生きることを諦めない方もいるのですよね。どちらがより正しいとか、そんな視点で見るのではなく、どちらも存在して然りだと思うのです。私自身、生きることに対して決して諦めているわけではないのです。 ただ、テンコ盛りの苦痛を感じながら、周りの人間にも多大な労をかけ、生きていくその意味をどうしても見いだせないでいるのです」
4 安楽死の現場で
小島は安楽死の希望をライフサークルに提出していた。同時に、筆者はサークルの代表であるエリカ・プライシックに「スイスにやってくる諸外国の患者の葛藤を撮影する」という取材要請を提出していた。
プライシックはこの2つを「小島の安楽死現場を取材する」と読み間違えたのか、当初は3月まで時間がかかると見られていた自殺幇助が、急遽11月28日に執り行われることとなった。
診断は、すべて英語で行われ、小島の病状や精神状態を細かくチェックしていった。 ここでもっとも重要となるのが、小島自身に「明確な意思」があり、「意識が明瞭」であるかどうかである。
小島は多系統萎縮症とともに生きる辛さを語り続け、ブライシックは自殺幇助当日の進行などを伝えた。
小島「怖いか怖くないかは、やっぱり考え方なんですよね。怖くないと感じられた契機として、そこに至るまでの自分の考え方があり、それが何かと言えば、人間は、いつかは死ぬ生き物ということ。その死ぬタイミングというのは、遅かれ早かれ人によって違いはありますが、やっぱりあるんですよ。そのタイミングが私にとって、今だと思うと、自然と受け入れることができるんです」
11月28日、その日が来た。小島がベッドに横になり、プライシックが介助する。
プライシックが家族全員に語りかける。「では大事なことです。私が質問を終えた後、ミーナはストッパーを開けます。するとほんの30秒で、彼女は眠り始めます。みなさん、準備はできていますか」
昨夜までの団欒が嘘だったかのように、恵子が「ううっ……」と鳴咽を漏らし、「ごめんね、許してね」と言って涙を拭う。最後の最後まで、笑ってその場を和ませていた小島が、その言葉を聞いた途端、声を震わせて泣き崩れた。
「そんなことないよぉ。眠って逝けるなんて幸せだよ。私は故郷に帰ってきてから人生が深まったし、最後にこんな形を作ってくれてありがとう。感謝しかないよ。すごく感謝してるから!ありがとう。良かった、こんなに幸せで」
そしてすべてが終わった。苦しみ続けた年月から解放され、小島ミナは51年の生涯に幕を下ろした。
姉である恵子と貞子は「この亡くなり方が不幸だとは思わない」と言った。
家族同士での話し合いが徹底されていればいるほど、安楽死を遂げた後、遺族の心は平穏を保てる。予告された死を前に、家族としっかりと別れが告げられ、全員覚悟の上で決行されるのが安楽死だ。いつ死ぬのか分からない状態では、こうした心の準備もできないことだろう。事前に話し合えたことが何よりも良かったと、恵子は胸を撫で下ろした。
5 一人ひとりの安楽死
小島が強調していたこと、それは、同じ病を抱える患者たちにとって、安楽死が「良き例」になってはならないということで、小島ミナゆえの安楽死であったことを忘れてはならない。末期癌だからとか、多系統萎縮症だからといって安楽死が一律に認められるべきかというと、実はそう簡単な話ではない。
両者が亡くなった今、特に感じることがある。それは、安楽死によって失う家族の死を、遺族が納得し、その後の日常を生きていくことができるか、ということだ。家族が安楽死に理解を示せないのであれば、たとえ本人が理想の死を遂げても、結果として、それが「良き死」だったと言えるかどうか甚だ疑問だ。もちろん、本人がその結果を判断することはできない。死とは残された人々の問題でもある。事実、海外では安楽死を巡って遺族が揉めたり、医師が遺族側から訴えられたりすることも多い。プライシック自身も2016年に殺人罪で起訴されている。
安楽死とは、逝った本人を除き、順風満帆に物事が解決されることはないという側面を知っておく必要がある。
プライシックは、小島の死から約半年経った今、彼女の死をこう振り返っている。
「彼女が望んだ逝き方が実現できて、ほっとしている。ミナのためにも嬉しく思う。だけど、お姉さんたちがどう感じているか気になるわ。彼女たちはとても仲がよかったから。私が正しいと思うことが、他の文化圏から来た人たちに受け入れられるとは限らない。彼女の自殺幇助を終えて、そんな印象を持ったわ......」
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誰だって痛いことや苦しいことは嫌だ。
ましてやその先に「死」しかないのだったら、楽に死なせてほしいと思うだろう。
けれどいま日本では、安楽死は認められていない。
そんななか、安楽死を望む人たちが、どのような手続きを取ってどのように行動していったのかを書いたノンフィクション。
そもそも「死」は当事者だけのものなのか。
遺された家族の思いは考慮しなくてもいいのか。
一番よく聞くのは、「寝たきりになって下の世話までしてもらってまで生き続けたくはない」という意見。
たしかに下の世話をしてほしいかとか、寝たきりになりたいかと言われたら、嫌だ。
でも、それで生き続けることができるのなら、生きればいいと思う。
それでも生き続けることができない人のことを考えたら、それっぽっちのことは人間の尊厳とは何の関係もない。
と、子どもの頃、生まれてから一度も病院の外に出たことがないまま亡くなった3歳の女の子とそのお母さんの慟哭を、同じ大部屋からそっと個室に移って静かに人生をフェードアウトしていった私と同年齢の少女を、小学生の頃目の当たりにしてきた私は思うのだ。
だって、、そうしたら健康じゃない人は生きる価値がなくなってしまう。
とはいえ、大切なことだからこそ、考えは人それぞれ。
充分に議論して、選択肢を増やしていただければいいと思います。
ちなみに
「尊厳死」とは、延命治療の手控え、または中止によって導かれる死。
「セデーション」とは、治療に対する体の抵抗によって生じる苦痛を緩和する目的で、鎮痛剤などを投与すること。意識レベルを下げることで苦痛から解放させるとともに、死までの自然な家庭を見守る医療措置。
「安楽死」その苦しみが来る前に即効性の致死薬を投与して迎える死。
私にとっては、意思の疎通が図れなくなった時が、死を迎える時かな。
痛みには強いほうなので、安楽死ではなく、ギリギリまで痛みと共に生きて、最終的にはセデーションがいいと今は思っている。
感想は軽々には書けないので、今回はこの本を読んで考えた安楽死について、でした。
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まとめ・感想
https://shengye-ji.hatenablog.com/entry/2023/11/12/133412
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前作とセットで読むことで宮下さんの思考の過程が伝わってくる。
ありのままの姿を伝えようとする真摯な姿勢。
その中でも悩み苦しみ迷う。
その過程を追わせていただき、とても学びの多い一冊だった。
極論に偏らずに答えのない答えを探すことが大切だと感じた。
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自分には関係ないと思わず、向き合って考えなければいけないと思った。安楽死、一概に賛成とは言えないものの事情は理解できる点が有り、とても難しい。