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投稿者:もり - この投稿者のレビュー一覧を見る
アウシュヴィッツの歯科医に似たテイストがあるが、それに勝っていると明確に言えるようなポイントはない。ただ、悪くはないけど…という感じであろうか。
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投稿者:コアラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
前半,ポムゼルの語りはおもしろい。とりわけ「ベルリンは晴れているか」を読んだばかりなので,同じ地名が出て来て,敗戦間際のベルリンの様子がわかって興味深く読んだ。ポムゼルの回顧は「私は知らなかった…なにかおかしいと思ったときは手遅れだった…」という弁解に終始している。仕方ないでしょう。二十歳かそこらの娘が,宣伝省に採用されて舞い上がっていたのだから,それは誰も責められない。しかし後半を担当しているハンゼンはジャーナリストらしく高みから偉そうに批判している。自分だってその場にいたら「ハイルヒットラー!」と叫んでいたろうに。そしてグダグダとトランプへの根拠の薄い悪口が続く。こういうのをヘイト本というのであろう。確かに安倍晋三よりはトランプのほうがヒットラーに近いかもしれない。しかし彼は不法移民を取り締まっているだけで正当な移民を差別しているわけではない。ところが現在只今ヒットラーと同じことをしている習近平への言及は(あたりまえだが)まったくない。ドイツ人は知らぬふりをして金儲けのためにチャイナにすり寄りチベットやウイグルでの犯罪に手を染めている。とにかく読んでいて吐き気がする本に久しぶりに出会った。
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この本はゲッペルスの秘書をしていた女性の告白録だが、後半の「ゲッペルスの秘書の語りは現代の私たちに何を教えるか」の部分が秀逸。多数中間層の政治的無関心、「知ろうとしない、行動しようとしない」諦めの人達の存在、社会的不平等の拡大と定着、多数の不満を拡散するメディア(30年代当時は映画、現代ならSNSか)など、30年代と現代の相似性とハンナ・アーレントのいった「悪の凡庸さ」の現代的な意味など、考えさせられる。ドイツを含む難民問題の根底にあるものにも気づかされる。今読むべき一冊。
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元々映画ありきで本が出たのに映画見ずに本だけ読んでるんでその辺はどうかわかんないけど、もっとゲッベルスに近い人かと思ったらそうでもないやん。ゲッベルスのいた宣伝省に勤めてた事務員ってだけやん。あの時代の宣伝省事務員の記録としてはそれなりにオモロいけど、タイトルに偽りありじゃね?あと、解説は秀逸。
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あまりにも無責任、と読む前は思っていた。
ヒトラーの右腕とまでいわれたゲッヘルス(足に障害がありそのせいでたいそう小柄だったようだ)の秘書(何人かいた中のひとり)という肩書きをもち、戦争が終わった時は、その宣伝省の地下防空壕で見つかりソ連兵らに連行され収容所生活を余儀なくされた。
すべてを知ったのはその収容所を出たあとでそんなひどいことが行われたいたとは全く知らなかった。私はただ命令に従っただけ、そこで仕事をしただけ。なんの責任も罪もない。と103歳になったポムゼルは一貫して主張する。
政治のことに興味もなく、戦争は始まったけど、とりあえず食べ物には困らず、まわりのユダヤ人はどんどんいなくなっていくけど、どこかに亡命したのだろうと思い…
渦中にいれば、それほど深刻には考えないのかもしれない。
もし、私もポムゼルの立場に置かれたら、流されるままに宣伝省で働きいていたかもしれない。
百歩譲ってそうだとしても、あれほどの大虐殺を行った党に入りそのトップに仕えていたとすれば、自責の念にかられたりしないのだろうか…
そこに違和感を感じるのは私だけではないだろう。
いいたいのそこじゃなく、戦争は意識しようがしまいが、大衆を巻き込んでいつのまにか加担させてしまう恐ろしさなのだろう。
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ナチスの宣伝相であるゲッペルスの秘書をした女性の独白。彼女、Brunhilde Pomsel、は最初に放送局に就職し、段々と戦況が厳しくなり放送局のレポーター達も戦線に行ったため、国民啓蒙宣伝省に移動になり、ゲッペルスの秘書の一人となって、ベルリン陥落までそこにいた。彼女の独白は、自分は何も知らないし、職務に忠実に仕事をしただけで、直接的な責任はない、というものであった。自分の目の周りのことだけに注意を集中していて、何も知ろうとせず、その日その日を過ごしていると、ある日自分がどこに来ているのかと驚くことになる。現在もそのような状況に世界がなってきているような。現在への反面教師だ。
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私は、ポムゼイが悩んで苦しんで出した答えなのだと納得することができたし、役割と無関心さについても最もだと思った。
しかし、このハンゼンの無関心さについては、あまりヒットラー帝国の場合は当てはまらない。
おそらく、ハンゼンは、第三帝国がどのように台頭し、用意周到に国民を欺いていたのかは知らないようだ。
私は、第三帝国はかなり研究してきたからよくわかる。
共生してるのだから無関心は罪なのはごもっともだが、人間の自分勝手さや、ポムゼイが言う自分のことを考えてしまうという人間の性質のことが考慮されていない。
誰もが、政治に興味や関心を持ったならば、政治は成り立たないのではないかと思う。
それをゆうなれば、原発を落とされた我々は、なぜ、この原発の研究がなされた時に、誰か事前に気づいたり、知らせたり、止めたりしなかったのかということを疑問に思うし、今でも世界には、核兵器がある。これは無関心とかの、問題ではない。
それぞれに与えられた役割がある。あらゆることを知り関わることはできない。
それでも、ただ、心の目を向けることが大切なのだろう。
政治にも、科学にも、世界の問題にも。それはよくわかる。
しかし、周到に用意された、脅しと暴力とプロパガンダの第三帝国の時代には、どうすることもできないのが現実だろう。ポムゼイは間違ってはいないと思う。成すすべはない。狂気と暴力で我を失った時代だった。その熱に国民は従ったのだ。それだけ世界から孤立していた。
無関心よりも恐ろしいのは、暴力と脅しだ。そして、生殺与奪の権力を持った時だ。それがヒットラーの時代だったと思う。
悪は時に蔓延る時がある。それがこの時代だった。歴史は繰り返すが、前に螺旋型に良くなっている。
いついかなる時代でも、興味を持つこと、知ることが大切だが、人間の身勝手さもまた、いついかなる時代にもなくなりはしないだろう。
今問われているのは、どれだけ、一人一人が周りに目を向けるか、それが大切なのだろう。それをハンゼンは言いたいし、彼は世界に目を向けているのだろう。
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読むかどうか、ずっと迷っていたけど、雪で外出出来ないので読む事にした。
ゲッベルスの秘書の語りと言うよりも、ナチ側の大多数の時代に飲まれた弱き大衆による語りだった。
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私たちはただ、規定された筋書き通りに考え、新聞やラジオの伝える通り思考していただけだった。
ゲッベルスについて私が言えるのは、彼は卓越した俳優だった、それだけよ。
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我々は総力戦に突入するぞ!の演説に、熱狂しながら「ヤー!」と騒ぎ立てている大衆、けれど彼らはゲッベルスが何を言っているのか、理解していなかった。恐ろしいけど、それがいつも真実なんだろう。
ユダヤの人々の事にもあまり触れられない。
だって「知らなかった」から。
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現代社会において“政治的無関心”は罪に相当するのか?
ナチスドイツの重鎮の一人だったゲッベルスの下で秘書として働いていていたブルンヒルデ・ポムゼン。彼女は、自身の生活を少しでも上をいく暮らしを目指し、ナチ宣伝省で働き続けた。戦後明らかになるユダヤ人浄化、その具体的な内容は知らず、あるいは知ろうとせず、あくまで自身の生活、人生を基準に。
戦後彼女は戦犯として収監され、またおそらくその後も、もとナチスとして非難される人生を送ったものと思われる。しかし、戦中の彼女は決して熱心なナチ党員ではなく、前述の通り自分の人生、生活をまず基準として働き、政治とは一線を画していた。上司からの命令は、(彼女が知らなかった)非人道的なことにまつわる出来事の補佐、としてでなく、自身が「一生懸命仕事をする」ためのものに過ぎなかった。
タイトルからは、かのゲッベルスと彼女が、非常に密接につながっていたような連想をさせるが(なのでこの邦題はあまり良くないと感じるのだが)、実際は雲の上の上司、接する機会は何度かあったようだが、ほぼ直接に話しかけられた経験はない。「熱心なナチの指導的政治家」以上の存在ではなかった、しかし戦後にユダヤ人殲滅のための彼の具体的な働きを、ポムゼルは知ることになる。その時に彼女はゲッベルスを断罪するわけだが、しかし自身に関しては、「一生懸命に働いていただけ」、かつ当時の状況からはそれを拒否することは到底かなわなかった、ゆえに彼女自身には罪はないことを暗に主張しているといえる。
現在のポピュリズムの台頭と、当時のナチス政権との状況を重ね合わせ、編者のハンゼンは警告を発している。政治的無関心というものが、次第に社会の情勢を歪ませる方向へと導き、気が付いた時にはポムゼンのようにいつの間にか情勢に取り込まれ、意図するしないに関わらず罪に相当する出来事の一端を担う(担わされている)構図ができあがるだろう、ということ。
それを防ぐためにどうしたらいいのか、具体的には自分には見えない。例えば「投票に行こう」なんて言っても、今の日本政治の状況から選挙で何か変わるかとも期待できない。それでも「何とかなるだろう」「そんなに悪くはならないはずだ」と傍観しているだけではいけないのだな、なんてことを感じました。
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『宣伝相秘書』というサブタイトルから専属秘書のような人だったのかなと思ったら、そうではなかったみたい。なにか目新しい話が出てくるわけでもないし。もし自分が彼女の立場でその場にいたらどうしたろう。「こういう時代だったのだ」「私は知らなかった」「私に罪はない」と自分だって彼女のように言うんじゃなかろうか。後世の人はなんとでも言えるけど、それほど強い人間ばかりじゃないもの。
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第二次世界大戦末期、ドイツ宣伝相ゲッベルスの部下として働いていた著者の回想録です。
筋金入りの党員ではなく、政治や社会に無関心だった若者の視点で当時を語ります。
個人的な事柄以外への関心の無さにおいて、海外よりも日本人に通じる心境ではないかと思えました。
必要以上に関わらないでいたら社会が激変していた…、これは著者に責任があるのでしょうか。
自分には責任が全くないことを堂々と発言しています。
激動の時代を生きた一庶民の気持ちが綴られた一冊。
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自分が見たくないものを見ない、自分とは関わりのないことには興味を示さない、自分の生活が、身の回りが平和であればよいという無関心がナチスを生み出したということを逆説的に伝えてくれる歴史的証言。ああなるとはわからなかった、知らなかったというのは簡単である。
ポムゼルさんは、戦後、ソ連の強制収容所での暮らしを余儀なくされている。そもそも国を失っている。恋人さえ、失っている。そういう意味では被害者であることには違いないのだけれども、やはり釈然としないものがある。
解説にもある通り、日本を含めた全世界が、ポピュリズムの台頭と分断ーそれは実はエリート自身が招いているとする説もあり、新鮮だった。ーの中にある。日々の生活や将来の不安に目がいって、もっと大切な普遍的な価値、平和とか平等と言いかえてもよい、がないがしろにされていないだろうか。
現代を生きる私たちに、またあの時代を繰り返してしまうのか、と静かに問いかける本でした。
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ユダヤ人を友人として支えている比呂は、きっとたくさんいたのかもしれない。そのせいで、身を危険に晒した人もいた。そういうことを、あとで私は知った。今の人たちはよくこう言うわ。もしも自分があの時代にいたら、迫害されていたユダヤ人を助けるために何かをしたはずだと。彼らの言うこともわかるわ。誠実さから出た言葉なのだと思う。でも、彼らもきっと同じことをしていた。ナチスが権力を握ったあとでは、国中がまるでふぁらすのd-無に閉じ込められたようだった。私たち自身がみな、巨大な強制収容所の中にいたのよ。ヒトラーが権力を手にした後では、全てがもう遅かった。おして人々はみな、それぞれ乗り越えなければならいものごとを抱えており、ユダヤ人の迫害だけを考えているわけにはいかなかった。他にもたくさんの問題があった。戦地に送られた親族の運命も心配しなければならなかった。だからといって全てが許されるわけではないけれど。ナチス自体を別にすれば、そして全く誤った予測をもとにそれぞれの任務を遂行した指導者たちを別にすれば、あれら全てを可能にした原因は国民の無関心にあった。そうなったのは、誰か個人のしえではないと思う。あのころと似た無関心は今の世の中にも存在する。テレビをつければ、シリアで恐ろしい出来事が起きているのはわかる。たくさんの人々が海でおぼれているのが報道される。でも、そのあとテレビではバラエティショーが放映される。シリアのニュースを見たからといって、人々は生活を変えない。生きるとはそんなものだと私は思う。全てが渾然一体になっているのが、生きるということなのだと。あの時代の一部の人々を現代人が非難できるとしたら、せいぜいこんなことかしら。彼らは理想を追い過ぎた。そして、ドイツが良い方向に向かっていると、あまりにも愚直に信じてしまったドイツ人はそれまで、とてもつつましく生きてきた国民だったから。そうして多くの人々は権力を手にした一部の人間がきっと全てを良い方に向けてくれると信じてしまった。それは、祖国への純粋な愛と深遠ゆえだった。P
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ナチスナンバー2の力を持っていたといわれる、国家宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼルさんのインタビュー本で、映画化されているものの書き起こし。熱烈な支持者でもなく、ユダヤ人の友人や恋人さえいた彼女。淡々と職務に従事し反抗や疑いを持つことさえあり得なかったと証言している。当時はみんなそうだった、自分のことで精一杯だし重要なことは何一つ知らされていなかったと。「自分は浅はかで愚かだった。何も見ていないし見ようとしなかった。非難されても仕方がないが、しかし私に罪はない」と言い切る。
確かに彼女が大虐殺や侵攻の意思決定をしたわけではないが、知る立場にはあっただろう。そして時代の状況からして反対の声を上げることができたとも思えないし、あげたところでどうにもならなかっただろう。今、いくつかの国で、独裁に近い権限を持つ大統領が誕生している。また、移民排斥や格差の問題が拡大している。イギリスはEUを離脱し、欧州の連帯は崩れようとしている。これを知っていながら、遠い国の出来事であるとか、ナチスが台頭したようなことにはならないだろうという根拠のない態度は、ポムゼルさんと同じようなことではないかと危機感を感じる。
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著者はブルンヒルデ・ポムゼル
ナチ宣伝相ゲッペルス秘書の一人
戦後の取り調べで「何も知らなかった。私に罪はない。」と主張。
この認識は、まさにハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」。
当事者意識のない歴史の反省は時間とともに忘れ去られる。
そしてまた同じ過ちを繰り返す。