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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
結末が夢落ちでないことを祈って読んでいた。ここまで奇想天外に話が膨らんだのにもったいないと思ったからだ。それは杞憂に終わって、作者は最後に「俺俺は、おまえたちが現在や昔を見ないようにして忘れちまうことをこっそり待っている」と警告する。この本を読んでいて、40年近く前に読んだ星新一氏の作品を思い出した、ある家の門を潜るとその家の人になり、その門からでると全くその家の人とはかかわりがなくなるという不思議の話であったが、この2つの話は、何か似ている。結局、今ある自分はポジショントークをしているだけで、内面なんて薄っぺらな紙みたいなものかもしれないと言っているようだ
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
不条理なストーリーの中にも、鋭い批判が込められていました。均一化していく時代の流れについて考えさせられました。
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投稿者:オオバロニア - この投稿者のレビュー一覧を見る
本作は主人公がオレオレ詐欺をするところから始まります。
そして気付くと、世の中に「俺」が増えていき、やがて主人公は世間に溢れる「俺」達に翻弄されていく。そんな小説です。何といっても、物語中盤の徐々に「俺」が増殖していく過程がこの小説の醍醐味だと思います。個を喪失するってこういうことか、と納得させられます。
ラストの是非は読んで判断してみてください。
言いたいことは分かるが。。。
2019/12/11 21:04
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎賞を受賞した作品だ。最初は面白く読んでいたが、途中からうんざりしてきた。言いたいことは分かる。だが、エスカレートし過ぎだ。それにくどい。もっと他のやり方があったのではないかと思う。
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予想外の猟奇ホラー。
むちゃくちゃな設定なのに、ちゃんと入ってくるのは、
主人公の思いに覚えがあるから。
自我は他者と比較しないと感じられないのか。
だれもが、どうしようもない自分を隠して演じながら生きているのか。
こんなに共感したのも、珍しい。
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解説が秀逸。思わず「なるほど」とうなづいてしまう。でもこの本を消化するにはもう少しだけ時間がかかりそう。
p331「(解説)人は演じることによって自己を獲得するのか。それとも、演じることをやめることで本当の自己に到達するのか。」役割をやめて解き放たれたい。親子関係、上下関係、男女の関係、あらゆる関係性に縛られず、真の自分を追求したい。他人との関係性が無くなった自分は、他人と繋がって一つになる。境目のない世界、全体主義的統率は人を酔わせる。この一体感は快感に違いない。だがしかし、その代償として次第に自分が失われていく。俺山。そして全体から逸脱すればそれはある種の死を意味する。こうして結局、自分というものが消滅してしまう。でも消滅してしまう前にまた他者との関係性の中で、他人とは明らかに異なる自分を再び手にするのだ。
他者がすなわち俺であること、これはすこぶる楽だ。完璧に分かり合える。だからそれを望む。そこには関係性がない。なぜならみんなが"俺"だから。俺俺俺俺俺。でもきっとそんな俺は崩壊する。なぜなら他者は"俺"であるというのは、実際は幻想に過ぎないから。それに自分が他者と同一であることに耐えられないから。人は明らかに異なる他人との関係性がないことには耐えられない。結局のところ、そうでなければ自分を保てない。関係性があって始めて自分というものが生まれる。それは他者を"俺"の中に取り込んで支配してしまうことよりも、遥かに切実なのだ。
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怖い、とても怖い小説。
自己と他者に差がなければいい、同じならいい、なんの努力もなく解りあい必要とされ、その輪のなかで完結してしまいたい、自分だけが自分だけがと自意識に被害妄想に振り回されることもない。「同じ」だという絶対的な安心感。けれどそれは「同じ」なかで自己が失くなるということになる。
…さてそれが現象として実際に現れたらどうなるか、それがこの、俺俺。
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周りを見渡した時に、何か皆、生きにくそうだなぁと、何となく感じていた閉塞感、それはこの「俺俺」に書いてあるようなことなんだよなと腑に落ちた。でも、そういう人たちがこれを読んでもきっと気づかないんだよな。
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亀梨くん主演の映画化が話題になっている大江健三郎賞受賞作品。
偏見は良くないが、この小説にしかなしえない小説の映画化は困難だろう。
後半は終始一見哲学的な自己分裂の連続描写は評価が難しいと感じた。
ただ、あとがきにある、
秋葉原連続殺傷事件の犯人である加藤智大の言葉、
「自分の家に帰ると、自分とそっくりな人がいて自分として生活している。家族もそれに気づかない。そこに私が帰宅して、家族からは私がニセモノとして扱われてしまうような状態です。」
この小説が、加藤が起こしたあの惨劇よりも前に書かれた小説であるという事実だけで、評価に値し、そして、この小説がフィクションを超えた現実になったとも言えるのだ。
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映画の予告を見たので、コメディタッチの話なのかなと思って、軽い気持ちで読み始めたら予想外。目の当たりにしたくないものを無理やり見させられているような、それでも先が気になって読まずにはいられない、不思議な物語でした。
自分と他者の境界が曖昧って、なんてオソロシイんだろう。ましてや、それがどんどん自分になって、結局自分しかいない世界なんて…考えたくもない。
しかし、この話、どう映像化するんだろう。
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「自己」とは何を持って形成されてるのか。
そんなことを考えさせられた作品。
例えば、僕自身仕事中では自分を「作っている」自覚はあるし、
1人でいる時と、友達といる時と、上司といる時と、彼女といる時とを比較すると、全て「同じ自分」ではあるものの、「ちょっと違う自分」だという自覚もなんとなくある。
じゃあホントの自分はどれなんだろう。
なんなんだろう。
この作品も、他人を演じるとこからはじまって、他人の「俺」に出会う。
いつの間にやら主人公は「自己」を見失い、「俺」が演じてたはずの「他人」に、思い出や意識も含めて何もかもが、いつの間にか、無意識のうちにすり替わっていく。
その後、似たような「俺」が増殖していき、
「俺」同士が集まって、互いの人生の苦労を理解し合って傷なめ合う。
それに慣れると次は「俺」こそが自分こそ特別と思いたくて、他者の「俺」を否定し始める。
「俺」の削除が始まり、最終的には1人に落ち着く。
そんな話でした。
自分と他人の境界は、あるようでないのかもしれない、なんて事を考えた。
「自己」は何を持って形成されているのか。
「自分らしく」とは何なのか。
「自己分析」なんてものを、就活中はよくやったけど、
あれから就職して3年目になった今、全く同じことをやっても、
結果なんて変わってるんじゃないかな。
それくらい自己は変容するものだと僕は思う。
周囲の環境に影響されやすい、確固たるものじゃない。
とすると、それは簡単に脅かされ、侵され、おかしくなる。
そんな危険があるよね。
なーんて事を想った。
他にも色々書きたい事はあるけど、レビューでは無くなってきたのでここら辺で。
続きはブログで書こうかな。
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後半壮絶。この話を面白いと思うのは難しい。
映画化、三木聡だからこそ出来るのかな。かなりB級オカルト系になりそう。
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周りの人との関係性、自分の在り方。
普段自分がいる世界の中に潜む非日常体験。
「増殖」と「アレ」への恐怖。
有り得ない話ではあるけれど、もしかしたら……。
ちなみに映画鑑賞後に読みましたが大筋は同じですが、映画と小説は別物です。
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読んでいて非常に辛かった。
しかし、同時に何かカタルシスも得られた。
それほど、自身にも身に覚えのある感覚が描かれている。
この本の面白さは、他人を「俺」にするという発想だと考える。
自身の不確かさ、他人との境界線のあいまいさは、他の作品でもテーマとなっていると思う。
しかしながら、多くの場合は「他者」が「自分」を侵食する恐ろしさ、絶望に焦点が当たっていると考える。
そのような作品のなかで、本著は発想が逆転している。
そして、そのような仕掛けが、単なる「恐ろしさ」のだけでなく、「優越感」からの「孤独」や「絶望」というストーリーの落差を生み出していて、より物語に深みや読者に迫る何かを生み出していると考える。
また、個人的には「俺」の増殖は、個人の境界線のあいまいさではなく、「もともとそんな境界線などない」という発想から生まれているのかな、と考えていた。
つまり、「自分の思ってることや経験していることは、何だかんだで他の誰でも持っていて、『特別』な『個人』など有り得ない」という発想だ。
しかし、作者はどうも個人の境界線を非常に意識していると考えることから、もしかしたらそのような「境界線」に執着する我々の「淋しさ」も作者は十分に理解してストーリーに組み込んでいるのかな、と考える。
一回の読書ではなかなか十分に理解が行き届いていないと考えることから、また時間を経て機会があれば読み直したい。
読むのは辛い作品だけれども(苦笑)
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前半は少しずつ読んだが、後半からいっきにラストまで読み進んだ。
中盤で「八十吉」が出てくるあたりから、話の展開が急加速されていき、ジェットコースターに乗っているようだった。序盤で出てくる「ヤソキチ」について、主人公の記憶は曖昧もしくは消失しているかのようで、「ヤソキチ」のことに限らず、さまざまな“俺たち”の記憶が重複したり上書きされたりしていく。読み始める前には、“俺”がたくさん出てくるので、混乱するかと予想していたが、作者の手腕でその心配なく最後まで話は明瞭であった。
“俺たち”と“非俺たち”の境界が明瞭になるにつれ、世界は殺伐としていく。“俺”と“俺たち”は自身でありながら他者であり、“俺”の存在はたんに“俺”であるという意識だけというところまでに行く。理解できない他者“非俺たち”の存在が脅威である状態を超え、何もかも解ってしまう“俺たち”の世界のさらなる脅威の描写が迫真である。そして、最終的には大団円である。
そのラストだが、大団円にする必要を感じなかった。“俺”がただ一人で呆然とするところで終わっていたほうが良かったのではと思う。「めでたし、めでたし」で終わる教訓譚のように感じてしまう向きもあろう。「現代の若者」の「孤独」や「不安」などをストレートに描写しただけの作品ではないだけに、その点が惜しまれる。