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投稿者:七無齋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
古代浪漫を巡る旅と坂本龍馬の脱藩の道をゆく。日本海側での厳しい気候の下での暮らし。かつて竜馬像を作り上げてしまった功罪。
紙の本
良い本です
2024/03/31 11:55
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投稿者:a - この投稿者のレビュー一覧を見る
鳥取、出雲へはこの本にも登場する温泉巡りをしたことがあります。ゆす原街道は高知県、幕末龍馬らが脱藩時に通ったみちのことです。高知県にも龍馬の足跡を訪ねて行った事があるので、良かったです。
紙の本
敗れたるものたちのみちか
2022/05/30 02:44
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の「街道物」の第二十七作の舞台は、
因幡、伯耆と土佐の檮原街道です。
前者では山中鹿之介が、後者では坂本龍馬が、
それぞれ登場します。
紙の本
良いです。
2016/01/10 17:11
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投稿者:とちうし - この投稿者のレビュー一覧を見る
ちよっと普段はいかないところですが、得意の歴史からの考察で面白く読めました。他の巻も旅行しながら読みたいです。
電子書籍
敗れたる者の道を辿る
2023/06/24 04:02
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投稿者:719h - この投稿者のレビュー一覧を見る
名物連作「街道物」の
第二十七作で、著者は、
因幡、伯耆と土佐の檮原街道を
訪れます。
前者では山中鹿之介が、
後者では坂本龍馬が、それぞれ登場。
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・鳥取、島根の話
・古代以外の話も結構あり
http://nozaki.blog15.fc2.com/blog-entry-1373.html
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お盆にお墓参り兼ねて因幡〜出雲を巡ろうと思い購入。有名な戦国武将尼子家の山中鹿之介の逸話がちょいと出てきて興味深い。悲劇の名将やら尼子十勇士の一人やらでしたか、詳しくは知らなかったけどなんか文献あるかな~。あと前々から因幡(鳥取市)と伯耆(倉吉・米子市)の罵り合いを聞くけどあれ何なんでしょう。いろんな人に聞いて回ってみよう。梼原街道(脱藩の道)はついでに読んだ感じだったが、こちらも興味深い。関所の人が見て見ぬ振りをしなかったら坂本竜馬含め土佐の脱藩浪人たちは幕末の舞台に立てなかった可能性もあったのですね。
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毎回、土地土地でこの姓だけで、どこどこ出身と分かる、と言うのが好きです。自分でも控えておいて、その姓の人にあったら言ってみたい、と思いますが、今だかつてあったことがありません。
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因幡・伯耆は今の鳥取県。旧因幡国(中心地は鳥取市)と旧伯耆国(米子)は文化が異なり今も心情的対立があるとか。檮原は高知県西部。幕末の脱藩ルートとして有名。他と比べて関所チェックが甘かったらしい。甘かった理由も推察されていて面白かった。
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このシリーズ大好き。亀井茲矩の小説を読み、興味をもったので、本書を手にしました。
やはり、魅力的な人物で、一度鹿野をたずねてみたくなりました。
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【因幡・伯耆のみち】
未読
【檮原街道】
土佐に、檮原とよばれる山ふかい町がある。
ユスハラは、土佐のチベットやきに。
などといわれた。
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以下引用~
・大正末年、柳宗悦によって提唱され、実践された民芸運動は、千利休の美学とともに、日本文化史の独創面を代表するものだろう。
「民芸」
ということばそのものが、誤差なく欧米語に訳し難いそうである。
宗悦はその目で、日本の日用の雑器をながめ直した。美の意識ではなく「用」の意識が、時に無作為の美を生みだしていることを知った。
鳥取県の場合、地域としてその思想を、他の場合のように通俗に堕ちることなく清らかに定着させている数少ない県といっていい。
・七世紀になって一大異変がおこった。
大規模な戦争もなく、また革命思想の普及もないままの異変だった。大王(豪族)たちの一つである大和の大王の手で、中国の国家体制(律令制)がとり入れられた。
このことは、明治初年の版籍奉還・廃藩置県をおもわせる。
二つの異変に共通する理由のすべて(と言い切っていい)は、外圧による。さらに正確にいえば、外圧についてのこの島国のひとびとの過敏感覚によるといってもよく、もっと的確にいえば、危機感覚の過剰さともいえる。
「統一国家をつくらねば日本はほろびる」という感覚である。
7世紀の異変は、大地を盛り上げるようにして出現した隋・唐という統一帝国からの被圧迫感覚によるものであった。
・亀井氏十一代の歴世みな藩政に熱心で、山野をよく拓き、また製紙などの産業に力を入れ、小さな山間の盆地の津和野を近在の商業の中心地に仕立てあげた。江戸後期は、漢学のほかに国学と洋学がさかんで、その果実が、明治の西周や森鴎外だったといえる。
ついでながら、私どもがいまつかっている明治製の西洋語の対訳としての日本語の造語には、このふたりの津和野人に負うところが多いといえる。
・日本は漁業国といわれるが、明治以前、この技術については、地域によって高低があった。他を圧してすぐれていたのは、紀州であった。
紀州の漁師と勝負したい。
と、ヘミングウェイが、晩年、洩らしていたというはなしをきいたことがある。
・平安時代のある時期から、畿内の公田から逃亡した者の多くがはるかに関東へゆきそれが流行のようになった。関東はまだ大規模に未開の原野がのこっていて、いくつかの水系に、雑多な出身の者がとりついて鍬をふるい、灌漑土木をおこして水田をつくりつつあった。
浮浪人たちはその労働力としてみずからを売ったり、あるいは開墾主になったりした。それが平安末期に武士化し、やがて源頼朝を擁して、土地の私有権を大原則としてかかげる鎌倉幕府をつくるにいたるのである。
・「土佐人の屍体は、薩摩のイモ畑のこやしになり、長州のミカン畑のこやしになった」とよくいわれる。
薩長に果実を食べさせた、ということである。
・私どもの神々は、もとはシベリアのバイカル湖畔のあたりでおこったものなのである。そこには、ツングース人の男(女もいた)のシャーマン(巫人)が、単数もしくは複数の楽器を用い、さかんに舞踏してついちは憑依状態におちいって、戦慄する。そういうシャーマニズムとよばれるものが、はるか南下���て日本列島に入った。
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この歳になって司馬遼太郎を1冊も読んでないのもどうなのかと思って街道をゆくを読み始めて27冊まで来ましたが、そろそろ読むのがつらくなってきました。
鳥取藩についてまるで250年間何もしてなかったかのように書かれてますが、そこまで酷くはないだろうと思ったり、単に明治維新後の鳥取から逆算して見てないかと思ったり、とにかく引っかかるようになりました。
本書が執筆されたのは1985年ごろで40年近く前なので、私も40年間の歴史学の進歩をベースに批判しているところがあるのは確かなのですが……。
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来年、雪が解けたら因幡から出雲の国を旅しようと考えながら読みました。夏泊、投入堂、大山へも行ったことがあり、懐かし思いがしました。
四国・高知の竜馬脱藩の道も辿ってみたいです!