戦後西ドイツ最大の政治家
2020/01/23 00:26
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
WW2後の西ドイツで十数年間政治上の実権を民主的に握り続けたアデナウアーの伝記。若くしてケルン市の中枢に上り詰め、ナチス政権化では拘束・監禁を受けるなど。温和な自由主義者なのかと思ったら、同時に頑なな反共主義者で、さらに政敵の誹謗中傷も辞さなかったという。その評価は政策ごとに様ざまに割れているようで、そのつど著者が紹介してくれている。
アデナウアーをトレースすることは戦後西ドイツの外交政策をそのまま学ぶことということ
2017/11/15 09:26
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投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本では今一つ知名度のない西ドイツ初代首相。ですが当地ドイツでは今なお歴代首相としての評価は常にトップレベルに位置する偉人。
2003年のテレビの企画で「もっとも偉大なドイツ人」を視聴者から募ったところ182万人の投票があり、堂々1位になりました。これはルターやマルクスを退けてのものです。
一方日本では「保守」「反動」といったマイナスイメージでかたずけられているのです。本書はそのアデナウアーの生涯とその業績を論じたものです。そういう点では本書は読んでよかったです。
アデナウアーをトレースすることは戦後西ドイツの外交政策をそのまま学ぶことということが実によくわかりました。ほとんどのページに付箋が付くほど。これは何度でも読み直したい本です。
さて、アデナウアーの業績は大きく2点。第一は内政における自由民主主義の定着を成功させたこと。ワイマール憲法の反省のもとにその人民民主主義・価値相対主義を排し代表制を徹底したこと、民主主義の敵には寛容を排除したことです。これを強権的に進めたことで「宰相民主主義」と揶揄されたりもしました。
第二は外交における「西側選択」。これはアデナウアー個人のイニシアチブが徹底的に発揮されました。それまでのドイツ外交は東西を天秤にかけたり西欧を出し抜いてソ連と結んだり中東欧を勢力圏に入れようと画策したりしてきたのですが、それが周辺諸国の緊張を生んできました。
しかしアデナウアーは東西冷戦という国際情勢を背景に、「西欧」を決して裏切らないドイツを築いたのです。スターリンからのちょっかい(中立化など)にも一切惑わされることなくこの路線を貫きます。
アデナウアーはライン地方のカトリックの中心都市ケルンで生まれました。南ドイツのバイエルンのようにカトリックが反自由を代表していたのとは異なり、ケルンのカトリックはリベラルで社会改良志向が強かったのです。アデナウアーは国家に先行するものとして個人の尊厳と自由を守ろうとしましたが、この価値を基礎づけたのがキリスト教的自然法だったのです。
そうした理念の担い手とされたのがキリスト教民主同盟(CDU)でした。その一方で共産主義とソ連を全体主義・無神論として徹底的に拒否しました。
戦後は憲法(正確にはボン基本法)を改正し再軍備を行い。ヨーロッパ統合を推しすすめました。さらにイスラエルに対して「過去との和解」に着手します。
実はアデナウアーの対ユダヤというかイスラエル政策としては「ドイツ人の集団的罪責を否定し、むしろドイツ人はナチスの被害者と位置付けた」として後世に批判をされるのですが、1951年の連邦議会でなされた演説では「ドイツ民族の名において」犯された「言語を絶する犯罪」を認めている点は留意すべきでしょう。(でもやっぱりドイツ国民の罪責は決して認めていない点は気を付けないといけないのですが)。
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投稿者:なつめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ドイツのアデナウアーについて、わかりやすく解説されていて、よかったです。現代ドイツの分析に、欠くことのできない人物だと思いました。
西ドイツを決定づけた存在
2023/12/27 16:07
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
アデナウアーほど評価の難しい政治家はいないかもしれない。どう評価するにせよ、西ドイツは彼なくしてはありえず、その姿を良くも悪くも決定づけた存在であったのかもしれない。
あまりよく知られていない人物であるのでとても楽しく読み切れた
2016/02/29 20:42
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投稿者:Shigenobu Fujioka - この投稿者のレビュー一覧を見る
戦後の西ドイツを牽引した政治家アデナウアーの生涯を概観している。
日本ではあまりよく知られていない人物であるので、とても楽しく読み切れた。
戦前はケルン市長を長く勤め、ケルンの君主と呼ばれていたこと、
徹底したソビエト嫌いで、アメリカやフランスとの関係強化に努めたこと、
ナチスのユダヤ人迫害を公に謝罪して、イスラエルとの関係改善を実現したことなど。
いずれも、日本の戦後の歩みと対比させてみると、色々と考えさせる内容が多かった。
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アデナウアーの評伝。
新書らしくアデナウアーの生涯を駆け足で振り返るが、
内容は外交を中心に充実しており、
アデナウアーの思想も細かく解説されるため、
アデナウアー個人の生き方を
短時間でざっくりと知ることができる。
時代を読む力に長けていたとも言えるが、
何よりも行動様式や考え方が時代に強く適合したが故に
偉大な人物たりえた人間だったと感じた。
著者が後書きで触れる通り、
朝鮮戦争を契機として加速する再軍備や、
戦後補償問題に関する日本との比較も面白い。
良書。
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20140830読了
あちこちに「アデナウアー通り」があって、名前を通りの名称で残すくらいだから有名人なんだろうくらいの認識だったのが、レーンドルフをふらついてみて「えっこれは有名人どころか戦後ドイツ史の重要人物では」とようやく気づいた2年前。無知でごめんなさい…よいタイミングで新書が出て、やっと人となりや業績を俯瞰できた。
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ケルン市長から西ドイツの初代首相となったアデナウアーの物語。
第一次大戦からナチズム、第二次大戦を経て冷戦に至るまでのドイツの、そしてヨーロッパのあり方を知る上でキーパーソンになる。
日本に照らして、全面講和、片面講和の論争、戦争責任論などについても考へさせられる。
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私の中では「西ドイツの戦後の首相の1人」であるという認識しかなかった。
詳細は読むことをおすすめするが、彼の徹底した「反ソ主義」「間接民主主義」は眼を見張るものがある。「本当に」「何一つ」ソ連の言うことを信用しないのだ(若干民族主義の嫌いもある気はするが)。
ドイツの「臣民」の感覚を利用し、彼は西ドイツに民主政を根付かせることに成功した。
彼のドイツ再統一論は、逆説的ではあるが「東ドイツの存在を認めない」ことにある。彼の中には、ドイツ帝国の後継者たる西ドイツが「メーメル川までのドイツ」を回復することにが脳内にあったのだろう。しかし東ドイツが編入され、東ドイツを編入した西ドイツは、ポーランド政府とゲルリッツ条約(オーデルナイセ線)を追認する条約を結んだ。
彼は徹底した力の政治で西ドイツの「西欧化・西側へのドイツ」をつくり上げることに成功したし、その意味で私は戦後日本の復興と対比させながら読んだ。彼はヒトラー政権での戦争責任を政府としては認めたが、国民に対しては認めなかった。
「何事もタブーにしないこと」が重要なのであろうと思われた。
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第2次世界大戦の敗北により、人心・国土とも荒 廃したドイツ。その復興を担ったのが、73歳で首 相に就任、14年間その座にあったアデナウアーで ある。戦前、ケルン市長として活躍した彼だが、 ナチに迫害され引退。戦後、保守政党を率い、 「復古」「反動」のレッテルを貼られながらも、 常に自国のナショナリズムを懐疑し、米仏などと の「西側結合」に邁進、ユダヤ人との「和解」に も挑んだ。「国父」と呼ばれる保守政治家の生 涯。
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ドイツでは最も有名だが、日本ではあまり知られていないアデナウアーの業績と生涯について。
内容をおもに戦後の外交に的を絞ってあるので読みやすい。その人となりや思想はステレオタイプな記載しかないのでイマイチよくわからないが、新書サイズということを考えるとこれで十分か。
戦後ドイツの思想一般については読み応えのあるものは多いが、もしかしたらそれらと対比させて読むものなのかもしれない。
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日本ではほぼ知られていなそう(自分も世界史でちょっとかじったのを覚えいるくらい)ただドイツにとっては、国の再建を担った人物で、戦後のドイツを語る際、アデナウアーを欠かすことはできない。
特に東西ドイツ統一よりも、西ヨーロッパ統合の道を優先した点が興味深い。普通なら国内の状況を優先しそうな気もするし、特に国の分断を放置することはかなりリスキーに思える、結果的には正しい道だっと評価できる。
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ケルン大学をヨーロッパ諸国民の協調の礎として位置付けた。アデナウアーは収容所から逃亡劇を演じている。妻がゲシュタポに逮捕、尋問されて娘の安全と引き換えに夫の居場所を漏らしてしまい、再度逮捕された。ケルン均衡の刑務所に収監された。士官となっていた息子の奔走で釈放された。
ボン共和国と呼ばれた西ドイツはヴァイマール共和国の歴史を繰り返さないことが国是となった。
西ドイツとの和解によって、イスラエルは中東紛争を生き延びることができたといえる。アデナウアーっはイスラエルに招待され、物議を醸しだしたが、歓迎された。その後、ベン・グリオンの私邸を訪れるなどドイツとイスラエルの和解を演出した。
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アデナウアーについて名前しか知らない程度で本書を手に取りました。購入のきっかけは第二次世界大戦後のドイツの政治経済を勉強したかったこと。そのためには、まさにこの時期に西ドイツを率いたアデナウアーの本が一番いいのではないかと思い購入しましたが、期待は裏切りませんでした。
全般的に初心者にも読みやすく、アデナウアーの話だけでなく、敗戦後のドイツそのものの激動について興味深く読みました。
しかし本書を読む限りにおいてはアデナウアーという人はかなり独善的に感じました。ドイツに自由民主主義を定着させるという目標のために、議会民主主義は全然顧みなかったという、ある意味矛盾を抱えていて、しかし言い換えれば原理主義者ではなく、あくまで現実を見ながら妥協や取引を通じて自分の考える方向性を実現する、ということで政治家としては極めて有能だったのだろうなという印象は受けました。1つ不思議だったのは、ヒトラーという独裁者を経験したにもかかわらず、ドイツ人はアデナウアーという別の意味で独裁的な人物をトップに選んだこと。ただし本書にも書かれているようにドイツ人は経済復興に最大の関心を持ち政治はお任せ、という状況だったのもあるでしょうし、何より復興にはある程度強権的なリーダーがいなければ立ち行かない、ということで、まさに戦後のドイツ復興になくてはならない人物だったという印象を持ちました。
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アデナウアー
現代ドイツを創った政治家
著:板橋 拓己
中公新書 2266
四か国によって分断占領された、ドイツ第三帝国は、まさに冷戦の出発点となった
戦後のドイツの方向性を決めたのは、アデナウアーであり、西側とともに生き抜くことを選択する
日本でいう吉田茂が、西ドイツのアデナウアーである
亡くなったときに、国葬となったことでも、戦後のドイツをささえたことでも、二人は似ていると思いました
また、西ドイツは、戦後の奇蹟の経済復興、西側への軍事、および、経済圏への参画など、驚くほど、日本と似通っています。
アデナウアーはその道筋を作り、戦後の復興にドイツを導いた首相だったのです
気になったのは、以下です。
コンラート・ヘルマン・ヨーゼフ・アデナウアー(1876.01.05~1967.04.19)
ドイツ帝国のケルン市に生まれた
ケルンのカトリックは、他のドイツ地域のカトリックと比べると保守色が弱く、リベラルで社会改良志向が強かった
1919年06月 第1次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約が結ばれた
フランスはアルザス・ロレーヌ地域を奪還するととも、ケルン市を含む、ラインラント分離構想を画策した
このとき、ケルン市長となっていた、アデナウアーは、苦心惨憺の上、ラインラントをドイツに押しとどめる
ことに成功した
1920年代 アデナウアーは、ケルン市の近代化を推し進めていく
ただ、そのやり方が強引であること、近代化のために多額の投資をしたことで反感をかった
アデアウアーの手法
①懸案事項について、徹底的に調べ上げ、議論に備えること
②相手に最後まで話をさせること
政治で成功する秘訣は、「最後まで座って居られること」というのが彼の持論であった
1933年~1945年 ナチスとの闘い
アデナウアは、ナチスと全面的に衝突する
ケルン市長の定職
住居を差し押さえられ、俸給停止、銀行口座も封鎖される
仮収容所に押し込められた彼は、全体主義下で「人間的な感情を完全に失った」人間を、あらためて実感する
アデナウアーはこの苦難の時期を何とか息抜き、自宅で終戦を迎えることができた
1945年アデナウアは、アメリカによって、ケルン市長へ復職するも、イギリスのために、罷免されてしまう
失望したアデナウアの心は、ケルンから離れ、中央政界へと向けられていく、本書は、そのことがドイツにとって幸運であったとのべている
物質主義と権力崇拝の蔓延が行きつく果てとして、ナチズムとスターリニズムを同一の範疇に位置付けている
アデナウアーは、個人主義、人格主義を掲げている西側諸国との連携を選択することとなる
1947年 モスクワ外相会議、ロンドン外相会議の決裂にて、ドイツの東西分断が確定的となる
この時以来、西側諸国は、ドイツ中央政府の樹立を諦め、米英仏占領地区の西側ドイツだけで国家を創設する
方向となった
1948年 ボンに、11の州議会から、65名の代表を集めて、憲法制定会議が開かれる
その議長となったのが、アデナウアーであった
1949年 ドイツ基本法として、議会評議会によって採択され、5月に布告された
基本法の根幹理念は、自由民主主義、連邦制、社会国家の3点である
08.14 第1回連邦議会選挙が行われ、09.07 暫定首都となった、ボンで連邦議会、連邦参議院が招集され
アデナウアー初代首相に推薦され、09.15 に首相になる
1949年~1962年 アデナウア連立政権
ザールランド問題
ドイツ再軍備
スターリン・ノート
東ドイツの民衆蜂起と、ソ連軍の武力鎮圧
NATO加盟
ジュネーブ首脳会談
ソ連から9600名の戦時捕虜の帰還交渉
ハルシュタイン・ドクトリン 東ドイツの孤立化
ルクセンブルク補償協定 イスラエル・ユダヤとの和解
イスラエルは、西ドイツとの和解によって、中東紛争を生き残ることができた
戦後、奇蹟の復興
1961年ベルリンの壁
1967年 アデナウアー死去、国葬
目次
はじめに
序章 ドイツとアデナウアー―「西欧化」の推進者
第1章 「破局の時代」のなかで―第二帝政からナチ体制まで
第2章 占領と分断―第二次世界大戦後の四年間
第3章 アデナウアー外交の展開―「西側結合」の模索
第4章 「宰相民主主義」の時代―一九四九~六三年
終章 アデナウアー政治の遺産
あとがき
参考文献
アデナウアー略年譜
ISBN:9784121022660
出版社:中央公論新社
判型:新書
ページ数:256ページ
定価:820円(本体)
2014年05月25日発行