タイトルほど「お堅い」内容ではありません
2022/07/22 15:22
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投稿者:きみくんのパパ - この投稿者のレビュー一覧を見る
「暇」という時間観念と「退屈」という自己観念の関係性を倫理学的思考で深堀りしていく。こう書くと何やら堅くて難しくて興味が湧かないのだが、「暇」だから「退屈」なのか、「退屈」だと「暇」なのか、というパラドクスのような思考の整理を、過去の哲学者の思考の足跡を追いながら追及していく。小気味よいテンポの文章表現に、ついつい吸い込まれてしまう読み物。認知バイアスという生理学的なアプローチの視点を踏まえて読み込んでいくと、人間がもっている「知」の追求・欲求を哲学・倫理学的に補強できるような印象を受ける。人間という生き物が持つ「哀しい」側面とそれがゆえに人間というアイデンティがあるというまっとうな事実とを眼前に突き付けられた。
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投稿者:なつみかん - この投稿者のレビュー一覧を見る
前半は興味深く読み進めたが、後半は私には少し難しかった。また読み返したい。消費ではなく浪費を意識して日々を過ごしたい。
人生とは楽しむこと
2022/08/18 22:45
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投稿者:K2 - この投稿者のレビュー一覧を見る
人間が生きていることの意味を問う野心作。多くの哲学者・思想家の言説を手がかりとしながら、退屈のメカニズムに迫る。退屈には2種があり、そのうちの1つは日常の中にあるとのこと。著者の主張とは異なるかもしれないが、人生とは楽しむことだ、と私は読んだ。非日常や狂気に捕われないためには、退屈との上手な付き合い方を学ばなければならないと感じた。
退屈は嫌、決断はしたいの不自由をスケッチ
2022/05/08 10:28
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投稿者:サンバ - この投稿者のレビュー一覧を見る
暇のなかでどう生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問いの中で読解していく本。
暇と退屈の概念を、「時間があること」、「事件が起こることを望む気持ちをくじかれたもの」に峻別。人が習慣を求め、「考えなくてすむ」生き方を実現しようとする一方、今日と明日を区別する出来事が起きないことに気持ちがくじかれる(退屈する)。このアンバランスをハイデガーの退屈の分類などを活用しながら解き明かしていく。
筆者は、退屈と気晴らしが絡み合う「第二段階」の退屈こそが、人間がいるべき段階とする。「第一=第三段階」の退屈は、決断となんとなく退屈の循環の中で自己喪失をする熱中の奴隷化の危険があるからだ。
40万年の歴史の中で、ここ1万年定住生活を強いられた人類の能力過剰は哲学を生み、また退屈も深刻なものにした。「とりさらわれている」状態にならず、人間「本来の」姿を願望込みで定義しない。
人は自由である。他の動物より環世界も相対的にかつ圧倒的に移行を楽にできる。それが退屈の原因でもあり、気晴らしのきっかけでもある。その自由を、失わない。ファジーな姿勢で人生を楽しむことを、退屈する人生で実践すべきこととして提示する。退屈もし、気晴らしもする。その中で、楽しむことができれば、「苦しいのに、暇なのに、熱中しているのに」救われない私たちに、その先へ行く実践のチャンスを与えてくれる。
何者かに悩める人達へ
2022/08/20 23:57
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投稿者:マーチ - この投稿者のレビュー一覧を見る
何者か、何か使命を持つべきか、そういった観念に悩める人にはぜひ読んでほしい。自分の生きる指針は他人や宗教に依存するものではないことを改めて再確認できた。
働き方改革により暇が生じる
2022/02/11 17:08
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投稿者:nekodanshaku - この投稿者のレビュー一覧を見る
長時間労働により労働者の暇が搾取されているらしい。働き方改革により、生活時間の余裕が生まれたとしたら、暇のなかでいかに生きるべきか、退屈どう向き合うべきか、考える必要がある。人間はものを考えないで済む生活を目指して生きているという事実にもかかわらず、何も考えずボーとしていることは不快、退屈だと感じる。そんな退屈している人間が求めているのは、楽しいことではなくて、興奮できることなのである。個々に、本書を通読するという過程を経てはじめて意味を持って、考えることが出来る。
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投稿者:そふと - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルは難しそうだったが、分かりやすくて面白かった。
時間の使い方を意識するようになったので、自分を俯瞰できるのもいい。
良い本と出会えた。
暇を許容できる社会への第一歩。
2022/01/30 23:08
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投稿者:ゲイリーゲイリー - この投稿者のレビュー一覧を見る
人はなぜ暇を持て余し、退屈だという感情を抱くのか。
そもそも暇と退屈の違いとは。
著者は、誰もが知っているものの誰もその本質を掴みきれていない暇と退屈に対し、疑念を持ち自らの言葉で再定義を試みる。
暇の中でどう生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか。
本書はそれについて考察し、そこから導き出された結論を我々読者に提示する。
しかしこの結論を知りたいという理由で、結末だけを読んだり、要約されたものを読んだりすることは余りにも勿体ない。
というのも、本書の最大の魅力は結論に辿り着くまでの過程にあると言えるからだ。
つまり暇と退屈について「思考する」という行為そのものに対しても、本書の意義を見出せる。
著者はハイデッガーを筆頭とした先人たちの哲学や人類学、経済学や生物学といった様々な分野を横断し、暇と退屈の本質を暴こうとする。
そうした著者の姿勢は、暇と退屈の本質を我々に提示するだけではない。
多岐にわたる様々な分野の文献や哲学者たちの言い分を鵜呑みにするのではなく、時には批判的な視点を持って先人たちの結論に異議を唱えることの重要性をも我々に提示するのだ。
暇と退屈に対する深い洞察と、そこに至るまでの見事な論理の構築には思わず感嘆の声を上げてしまうほど。
また数多の哲学者や数々の文献を引用しているにも関わらず、予備知識は一切必要ない点も特筆に値する。
哲学書の入門書として、暇と退屈について見事な見解を述べた書物として、そして何より私たちがどう生きていくべきかの指標として語り継がれていくに違いない貴重な作品だ。
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投稿者:エムチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
退屈というより、暇、ということから始まってます。タイトルは、難しそうですが、読み始めたらすんなりと内容が入ってきました。ちょうど、コロナ禍最中に読んだため、余計にそう感じたかもしれません。タイトルが悪いかな
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暇と退屈、という一見すると同義語のようにとれる2つの意味について哲学の観点で紹介している本。
この本を読んだ後、学びを得るか?という点については人それぞれであり、それが哲学書チックであるからと言える。ただ、少なくともこの本からは気づきを得られる。
この本を読むと、映画『ファイトクラブ』を観たくなることは間違いない。まさかそういう作品と取れるとは。
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こんな本が文庫になるのだ、と驚いた。そしてまたそれが文庫で一番売れている書店があるという。世の中はきっと良い方向に動いている、と楽観的に考えてみたりする。僕はあまり暇と感じることがない。周りからするといつでも本を読んでいたり、感想文を書いていたり、余程暇なのだろうと思われているかもしれない。しかし、本人は極めて忙しいと感じている。読むべき本は途絶えることがない。観たいドラマはいくつもある。聞きたい講演会も多い。日々するべき家事はある。仕事の上では、毎日予想外の出来事が起こるから、予定通りに事が運んだためしがない。少し余裕ができたりすると、新たなアイデアを思いつくこともあるのだが、そんなことはめったにない。退屈だなあと感じることは、なくはない。若いころにしていた仕事では、忙しいときと暇なときの差が結構あったので、暇なときは何をすべきか、時間を持て余すことがあった。飲み会などに出かけたときは、うまく話の輪に入れなくて退屈を感じることはある。もっともこれは人間関係の問題だし、退屈というよりはむなしいという感じだろうか。きっと著者本人にしても、ハイデガーにしても、その他本書に登場する人物は、退屈が苦痛だと感じることが多かったのだろう。退屈と感じるかどうか、それを苦痛と感じるかどうか、それらには個人差があるだろう。僕はあまり強く感じない方かもしれない。本書を通読してヒットした内容をいくつか。ウサギ狩りの話。ウサギが欲しくて狩りに行くわけじゃない。ウサギ狩りそのもののわくわく感が楽しい。コンサマトリーということばは本書には出てこなかったが、見田宗介の著書でそのことばを見つけたときは、我が意を得たりと思ったものだ。何かのために学ぶのではなく、学ぶこと自体が楽しいから学ぶのだと。環世界のくだりに登場するダニとかミツバチの話はあまりにもおもしろくて、すぐその日のうちに授業の中で話をした。ユクスキュルの本はいつか読まないといけないと思いつつ読めていない1冊。分かるということをくり返しながら、分かるということがどういう状態かがわかって来る。これがすごく大事なことだと思って、最近子どもたちにもよく話している。例題と同じようにやって答えが得られたというだけではなく、適当に式をならべて答えたら合っていたというのでもなく、ちゃんとこういうことかと分かって、納得して正解をする。それを何度も繰り返すうちに、自分が分かる、理解するとはどういう状態なのかを知る。すると、どうすれば理解できるか、どうすれば解答に近づいて行けるか、そういうことがつかめるようになるのではないかと思う。きっと、自分で問題を見つけて考えるというのも同じようなことなのではないかと思う。ホッブスやルソーのことももっと分かりたいし、アレントもちゃんと読みたいし、他にもいっぱい感じたことはあったのだけれど、1回読んだだけで頭に残るのは本当にわずかだ。まあ、残るものは残ると信じて次に進もう。あっ、それと、痛みの話、歯が痛くなると腰が痛いのを忘れる、というようなことを昔からよく感じていた。だいたい、僕の脳のキャパシティが小さいのかどうか知らないが、いっときに複数のことを同時に考えたり感じたりすること��できない。交互とかならできるが同時は無理。それで他の考えが頭に浮かぶと、前のことがふと消えてしまう。でもまたふと現れる。脳は不思議だ。それから、どうして「まえがき」と「あとがき」は1人称が俺だったのだろう???
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手前のような凡人には
何が何やらさっぱり理解出来なかった
哲学の本でございました…
若林さんの帯は言い過ぎでは…?
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人生において大きく感じる退屈、そして暇。この大きな問題を考え向き合うための哲学の本。とはいえ書かれている内容は歴史、文化、生物、経済と様々な分野に及ぶ。
人は退屈に耐えられず、例えばウサギ狩りのような気晴らしをする。気晴らしで狩りをする人は、ウサギを求めているわけではなく、気晴らしを求めている。人は部屋でじっとしていられない生物と示される。そして今の時代、様々な娯楽が提供され、考える前にその娯楽を消費し、退屈の気晴らしをする。気晴らしについての話はよく実感できた。
また結論の直前で、ハイデッガーによる三つの退屈形式が示される。一つ目は仕事など何かにとらわれて、時間が惜しくなり空き時間を退屈と感じてしまう。二つ目は退屈と気晴らしが交互に作用するものだった。何かのパーティーに出かけて楽しく過ごすも、なんとなく退屈も感じる…。三つ目が特に理由のないふと湧き上がってくる、退屈だった。三つ目と一つ目は相互に作用し、何かに囚われてしまう。人間はどうしても二つ目の退屈と気晴らしの間に行ったり来たりする生物である、とハイデッガーの退屈の形式を参照しつつ本書は環世界という概念も示しながら説く。
通読することによって結論が理解できる、という本書の仕組みも面白かった。人生において考えることを大切にしたい。
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まず今の私は人生がとても楽しくて暇と退屈を感じるタイミングが全然ないので、問題意識にそもそも共感しにくい。仕事に慣れて100%を出さなくてもこなせるようになって退屈を感じるようになってからもう一度読みたい。
1番分かりたいのに理解できなかったのが「浪費」と「消費」の違い。
消費社会に振り回されていつもうんざりしているし、マルクスにも関わってくる部分なのでとても理解したいしそれを頼りにこの消費のループから脱したいのに、わからない。
もっと解像度を上げて言うと「浪費」が何かがわからない。
「消費」はしてもしてもし足りないもの。なぜならモノそのものではなくてモノに付与された記号(これを使えば〇〇になれる、これを持ってるとイケてる、みたいなの)を消費してるに過ぎないから。これはわかる。
でも、だからといって「浪費」は何?「モノそのモノを楽しむこと」みたいなことを書いてあった気がする。ではたとえば25万のマルニのコートをすごく気に入って死ぬまで着ようと思って買ったとして、それは消費なの?浪費なの?????この冬安物のブーツではなくて4万するミハマの素敵なブーツを買った。ミハマは流行関係なく長く履けるなと思って買った。こちらは浪費?消費?????わからん。つまりたとえば浪費と消費の違いは、「好きだから高くても買う」と「流行ってるから買う」で隔てられるような、そういうマインドの違いなの????わからない。しかもそのマインドなんて、「本当に自分がモノそのものを欲しているから買ってるのか」なんて正直誰にも分からないよ。全く異なる時代状況や環境でそれを欲しいと思うかなんて。
それとそもそもハイデガーのいう「退屈の第2形式」も分からない。つまりは「最中はそれなりに楽しかったけど振り返ってみるとしょうもない飲み会」に類するものかな、と思ったけど、そもそも私はあまりそういう飲み会に行かないし。。。私は退屈を避けるのが上手いのかもしれない。と勝手に思ったりしている。
とにかくわからないことが多い。たいへんだ。
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このくっそ忙しい年度末のタイミングでなぜこんなにも頭を使う作品を選んでしまったのか。
ただでさえ通常の読書の2倍はかかりそうなのに、そんなこんなで3倍くらいかかってしまった…
「暇と退屈」について、全部で508ページ。
人が「生きる」とはどういうことか。
オードリー若林「國分先生、哲学書で涙するとは思いませんでした…」と、帯にある。
たぶんだけど、泣くのはラストである。P477『傷と運命』だと思う。
そこに至るまでは、とにかく「人が退屈することについて」語られている。
わたしたちは、初対面の人と打ち解けるタイミングで、その人に尋ねる。
「趣味はなんですか?」「休日は何をして過ごしているんですか?」
わたしたちは仕事以外の時間を余暇にあてるけれど、その余暇ですることといえば、現代においてはすっかりカタログ化されており、もはやP29「労働者の暇が搾取されている」状態である。
つまりわたしたちはすっかり消費社会の歯車の一員となっているのである。
こういう風に掘り下げていくと、わたしたちは次に「消費社会」が気になってくる。
すると次は、「消費社会」について語られるのである。
(ここで映画『ファイト・クラブ』について多く語られているのだ!そりゃ観たくなる!)
こんな風に、ある話題を掘り下げると、また掘り下げたくなるテーマが出てくる。
わかりやすく言い換える、事例をあげる、歴史を遡る、など、話が掘り下げられ続けて508ページである。
暇と退屈を考えるために、縄文時代の生活へ遡り、マルクス経済学をわかりやすく紐解いてくれる筆者。
こんな風に哲学や古代史やマルクスについて学べていたら、わたしはもっともっと楽しく学べていただろうし、よくわかってなくても「ふーーん」であるとか「よくわかんないけど、まあ、いっか」で済ませることは激減していたはずである。
筆者も冒頭で述べているではないか!
P4「問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、『まぁ、いいか』から遠ざけるからである」と。
ものすごい膨大な時間をかけて、ぺたぺたと異様な数の付箋を貼り付けた。それを辿ればこの本のまとめを作ることができるだろう。
だけどそれは、この作品を「読んだ」つもりにはなるのだろうけれど「理解した」ことにはならない。
P392「『分かった』という実感は、自分にとってわかるとはどういうことなのかをその人に教えるからである。(中略)だから大切なのは理解する過程である。そうした過程が人に、理解する術を、ひいては生きる術を獲得させるのだ」。
わたしが高校時代に数学の公式を丸暗記して理解に至らなかったのと同様、それは理解とは言わないのだ。この、読みながら「理解する」、あるいは咀嚼する時間こそが至福なのであって、それはこの作品を手に取って読む他ない。
この作品のすごいところは、物事を深く深く、ずっと深いところまで掘り下げて、学問の垣根なんてあっという間に超えて、回答が出るまでとことん掘り下げるところだ。
「暇と退屈」を語るのに、哲学はもちろん、ゴミの分���の複雑さやトイレの設置などの生活革命、社会学、昆虫学、最後は脳神経科学に触れるなど、とにかく作者の知見の広さに圧倒される。
全体を通して「うんうん」と思いながら読み進めたけれど、やっぱりわたしにはちと難しかったので、置いてかれた部分もある。
だから、作者の提案通り、注なんて全部すっ飛ばした。わたしにはそれで充分だった。
もう一つ、オードリー若林との共通点のようなものと言えば。
彼のエッセイ『社会人大学入学人見知り学部卒業見込み』で「ネガティブを潰すのはポジティブじゃない、没頭だ」という名言があって、その言葉にはかなり感銘を受けたのだけれど、この作品で「暇と退屈」について掘り下げていくと「没頭」というものに対しての怖さみたいなのも知ることになる。そもそも人は、「暇でいたい生き物」なのか、「没頭したい生き物」なのか。
以前読んだ『スマホ脳』では、様々なホルモン物質について触れられていたけれど、本作品では一切それらには触れられていない。だけど現代人は「暇と退屈」さえあればスマホを触るのが当たり前になってしまったわけだし、現代人の「暇と退屈」と、この作品の中で描かれている人間の「暇と退屈」とは性質が少し異なってくるのだろう、と思う。
わたしは、この作品が痛みから目を逸らしていないこと、長いことを承知していること、最後まで読めば自分なりの理解ができること、など、多少難儀なことはありつつも最後まで芯を貫き通してるって感じが好きだ。そういう考え方の人のようで。苦難を受け止めつつ「まあ、人生ってそんなもんでしょ」って言いながら、颯爽と歩いている人のように思えてくるのだ。この作品そのものが、凛としててかっこよく生きてる人みたいな、そんな一冊に思えてくる。
残りの人生で、またこの作品を読み返したいって時が来てほしい。わたしは自分の人生の中で、少なくとももう一度、このかっこいい人に触れたい。それまで、ずっとそばにいてほしい。醜いかもしれないけれど、それなりに楽しい、わたしの人生を、そっと見守っててほしい。