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電子書籍
虞美人草(新潮文庫) 新着
著者 夏目漱石
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ...
虞美人草(新潮文庫)
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商品説明
大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風でもの静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断わるが……。やがて、小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品。(解説・柄谷行人)
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紙の本
道義の観念の喪失は悲劇を呼ぶ。漱石『虞美人草』
2009/09/28 15:40
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:としりん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品は学生時代に一度読んだことを憶えている。このたび再読して、面白さを再発見した気持ちである。
主人公・小野清三には、縁談の相手として2人の女性が登場する。美しいが我の強い藤尾と、恩師・吉田孤堂先生の娘で物静かな小夜子である。
藤尾の腹違いの兄・甲野欽吾やその母親(欽吾の継母・藤尾の実母)、友人・宗近一とその妹・糸子らが加わって、義理人情がらみ縁談がらみの人間模様を繰り広げる。なかには、打算的な人物も。この作品の面白いところだ。
そして展開は最後に急転する。小野がこの作品の主人公と思われたが、終盤でもうひとりの主人公としてスポットライトを浴びた甲野欽吾が語る。「道義」がこの作品のキーワードだろうか。
作品には、哲学的とも言える難解な記述も少なくない。そこらが読みづらいかもしれない。それでも、ストーリー的に引き込まれ、強い印象を残す作品である。
一般に漱石の代表作といえば、『草枕』『三四郎』『こころ』などが定番として挙げられよう。どの作品が面白いか、どれが代表作か、というのは読者それぞれの主観によるところなのだろう。これまでに掲載された書評の評価もいろいろだ。評者の独断と偏見では、この作品は、『草枕』『三四郎』『門』などより面白い。それくらい重厚な内容なのである。
紙の本
漱石では、この作品が一番好き
2019/01/22 22:24
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
1907年の6月から10月にかけて「朝日新聞」に連載された小説。物忘れが多い私にとっては、新聞小説というのはありがたいもので、登場人物が繰り返し説明されている。という面からも私は漱石が好きだ。この小説は、役人をやめて朝日新聞社に入社してからの第1作目にあたる。だからか、各章の書き出しがぎこちなくというか固く感じられるのは気のせいか。当時は役人>>>新聞記者というのが世間での評価だったらしいから彼への注目度は相当なものだったであろうことは想像に難くない。最後に藤尾を死なす結末になっていまったのは当時の小説としては仕方がないことだったのだろうか。「何を固いこと言ってるのよ」と小野に悪たれをついて生きていく彼女の姿もみてみたかった気がする
紙の本
通学途中
2016/11/08 12:48
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:東行 - この投稿者のレビュー一覧を見る
30数年前、通学時の電車の中で読んだものを再読。三部作(前期、後期)とは違った視点で書かれた小説で気に入っておりました。
久しぶりに藤尾さんとの再会(読)を楽しみにしております。(相手は小野さん???)
まだ読んでいないので、記憶違っているかも。
紙の本
漱石文学初期の主人公
2012/11/14 00:56
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
甲野欽吾は、亡くなった父の遺産を、継母が実の娘の藤尾にやりたがっていることを知っている。彼は、遺産をみな藤尾にやり、自分は一人で暮らしたいと言うが、世間体を気にする継母は、甲野の家督にこだわり、これを認めようとしない。
一方、明るく豪胆な甲野の親友、宗近は、藤尾に好意をいだき、甲野も妹が彼といっしょになることを望む。しかし、気位が高くわがままな藤尾は、宗近よりもむしろ自分の自由になり、社会的地位も教養もある男、小野清三に近寄る。小野も彼女の財産に目がくらみ、許婚となっていた恩師の娘、小夜子を捨てようとする。小野があやういところで、良心をとりもどして、小夜子のもとへ戻るのに対し、最後まで我を通した藤尾には悲劇的な結末が待っている...
漱石が本格的な作家となって初めて書いたという『虞美人草』は、同じく初期の『坊っちゃん』、『二百十日』などと同様、正義感にあふれた小説である。これらの作品では、人間の心理や社会にひそむ悪があばかれ、それへの断罪がおこなわれる。『虞美人草』における悪役は甲野の継母であり藤尾である。それに対比した正義と純粋の人もいる。この作品では宗近とその妹の糸子、あるいは小夜子がそれに属する。
しかし、この単純明快な勧善懲悪の物語においても、のちの漱石文学における典型ともいえる分裂的な人格は姿を見せている。この作品では、主人公の甲野がその人物である。世の中のあらゆる偽善に我慢できない彼は、継母を軽蔑し憎んでいるようである。しかし、世間体を第一に置く彼女の生き方は純粋とは言えないものの、きわめて常識的であり、彼女のさもしい魂胆を理由に家も財産も投げ出そうとする甲野の方が、わがままという気がする。
この時点における漱石作品の主人公たちは、純粋に善を求めながら、自己のうちに何の矛盾も破綻も抱えていないようである。ところが、後期作品の主人公においては、完全無欠だった精神状態も次第に支障をきたすようになる。『行人』や『彼岸過迄』においては、自己の潔癖性と他者への猜疑心から分裂する人格が、また『こころ』では、かつて他者に向かって放たれた非難と憎悪の矢が、自分自身へともどり、ついには自ら死を選ばざるをえない悲劇的人格が描かれるようになる。
漱石にとって最大の問題は、「私」であったとは、よく言われることである。他者が、社会が、国家が悪いと論じ、それを非難することは、一種の心地よさをあたえる。しかし最も苦しいのは、自分で自分がいやになること、みずからが自分の敵になることである。「則天去私」にいたるまでに漱石自身が大いに悩んだ「私」とは、そのような苦しみを知った自己であり、甲野のように自己の倫理感に充足している人格ではないという気がする。
物語の最後、甲野はロンドンに旅立った宗近に宛てた手紙で、次のように述べる。
「道義に重きを置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である...この快楽は生に向って進むに従って分化発展するが故に―この快楽は道義を犠牲にして始めて享受するが故に―喜劇の進歩は停止する所を知らずして、道義の観念は日を追ふて下る」
これに対して宗近は『此処(ロンドン)では喜劇ばかり流行る」と返事をした。これが甲野への同調か、反論かはここからはわからない。しかし、後期の漱石作品の主人公たちを追い詰めたのが、他ならぬ道義の問題であったことを考えると、彼らにむしろ必要だったのは、喜劇だったのかも知れないとも思われる。
紙の本
漱石先生のサスペンス?
2015/12/19 18:26
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:森のくまさんか? - この投稿者のレビュー一覧を見る
虞美人草は日本で最初のサスペンス小説でしょうか?
漱石先生の文学界を背負っていく生き様を感じました。
でも 最後の結末は ありえるのかな?
紙の本
文豪の放つ強烈なエンターテインメント
2002/07/30 21:44
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:しょいかごねこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
漱石の虞美人草、どんな堅苦しい本かと思ったら、これがまた無茶苦茶面白い。嘘じゃありません。僕は本当に笑い転げてしまった。
一言で言うと文章自体が面白いのだ。描写とか形容とか、例えば藤尾さんが登場する場面だが、藤尾さんの容姿を描写するだけで約1頁、ほとんど諧謔趣味とも思えるほど、これでもかこれでもかというほど美辞麗句、ありとあらゆる形容が施される。漢詩混じりの重厚な描写で、意味のわからない言葉も頻発するのだが、これだけごたごた形容されれば登場人物はみんな道化にされてしまう。
ストーリーは具体的でよくわかるのだが、残念なことに結末がいまひとつである。多分この本はストーリーで読む本じゃないんだと思う。何でも漱石が大学教授を断って作家に専念した第一号作品と言うことだが、この文章に漱石の作家としての意気込みが伝わってくる。
紙の本
職業作家、漱石の誕生
2000/12/30 21:07
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:読ん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
漱石が東京帝国大学を辞して職業作家となってからの第一作目の作品。
そう言われてみれば「なるほど!」と思える。「読むなら読め」から「読ませよう」という感じが伝わってくる。
登場人物の性質はいつもながらはっきりしている。場面展開も鮮やかで、登場する人々がだんだんと絡み合って完結するまでに、読み手の方もだんだんと勢いがついてくる。
勧善懲悪で完結するところが不服と言えないこともない。
クレオパトラに称される美しくも棘があり、プライドを後生大事と放さない藤尾。責任回避の話術だけに長け、心をどこかに置き忘れた強欲な藤尾の母。この2人は悪の権化となり、最後には裁きを受ける身となるのだ。
一方、病人呼ばわりされていた寡黙な哲学者、甲野さんには最後に光が当たる展開となる。
結末に不服を感じる理由には、悪を演じる2人に嫌悪感を抱きこそすれ憎むことができないというのが一つにあるだろう。どういうことかと言うと、この2人の中には必ず我々が嫌いながらも持っているもの(性質)が存在する。自分自身に嫌気がさすことはあっても憎む気持ちは起こらないだろうということ。そしてその親しみのある悪が最後にはすっぱりと裁きを受ける時、爽快と落胆の混ざった複雑な心境を覚えてしまう。
二つ目の理由としては、善の象徴である甲野さんだが、そのすべての煩悩をなくして悟り切った様子には共鳴するものの、どうにも覇気がないように見え、自分をすっぽりと善の型にはめ込むには無理がある。最後に光を当ててもらった善に対して、爽快と白々しさという、これまた複雑な心境を覚えるのだ。
本書では約100年ほど前に行われたという博覧会の場面が出てくる。そこには蟻のごときに集まり、忙しく動き回る文明の民について綴られている。世紀をまたごうとする文明の民の浮き足立った様子が感じられる。
やれIT革命だ新世紀だと叫ばれて期待よりも不安ばかりがよぎっていた折、100年もの昔の人々の様子に触れ、胸に重く圧し掛かるものが少しばかり軽くなったように思えた。