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家族狩り みんなのレビュー

  • 天童荒太
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みんなのレビュー5件

みんなの評価4.0

評価内訳

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7 件中 1 件~ 7 件を表示

幻世の祈り

2004/08/05 01:25

既成の家族像の崩壊

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:むし - この投稿者のレビュー一覧を見る

 普通の家族という幻想を持つことは悪いことではないと思う。ただ、その幻想が、えてして自らの家族の現実から目を背けさせ、外の形ばかりが幻想に近づき、結局のところその幻想が家庭を押しつぶしてしまう。

 この物語はそんな既成の家族像による家族の崩壊を描いている。かつて実際に起きた「失敗作」の子供を「作者」たる親が殺す事件。または「失敗作」がその「作者」を殺す事件。いくつかあったその種の事件を多角的に描いているのがこの作品といえよう。
 殺す側がいればもちろん殺される側がいて、そのどちらも幸福な家庭を求めていたはずなのだが、それは少しずつ少しずつずれていって。最後には片方が片方を殺すといった結末を迎える。

 このような事件の背景には核家族化や地域社会の崩壊、個人主義の台頭、受験戦争など様々な理由があるとされてきた。
 しかし本当の問題はそこにあるのだろうか。「普通の家族」あるいは「幸福な家族」といった幻想にばかり目を向けていて、目の前にいる自らの家族が求めているものに気づかなかった、そこにこそ悲劇の本質はあるのではないだろうか。

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幻世の祈り

2005/07/26 19:21

現実がここまで酷い人間ばかり、っていうのは、ニューヨークは殺人犯ばかり、ローマは盗人ばかりというのと同じで、少しもリアリティを感じないんです、わたし

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る

『家族狩り』のリメイク版文庫で、原稿用紙にして2200枚と原作を900枚増え、全面改稿したそうです。当然、前作とは別物とみたほうがいいようでしょう。
私のように、『家族狩り』を出版当時に読んでしまった人は、もう10年経っているわけですから、記憶も薄れ同じ本を出されても案外新鮮に読んでしまうかもしれません。でも、あくまで本作品について書きます。
核になるのは麻生家の事件で、少年が両親と祖父を殺害したらしいというものです。で、それを発見した女子高の美術教師・巣藤浚介、或はその学校の生徒・芳沢亜衣、生徒の引き起こした事件で少女に事情を聞いた氷崎游子、彼女に娘・玲子を奪われたと逆恨みする駒田、或は事件を担当することになった警察官・馬見原光毅、その妻・佐和子、或は不倫の相手と様々な人間が細い糸で繋がっていきます。
よくある本格ミステリのように、一見バラバラな人間関係が最後に纏まる、といった感じではなく、問題を抱えた様々な家族の模様が、時に縺れ、捩れ、切れ、あるいは離れと、多分、天童の意図をすら無視してダイナミックに動いていく、それを読む本とでもいうのでしょうか。
それにしてもです、よくもまあ、不幸というフィルターで世の中をみるものだと感心してしまいます。まず、健全(この定義も問題ですが)な家庭というものが一つとして出てきません。人間は等しく病根を心に抱え、うめき、もだえ、戸惑い、疑います。もう、ここまで来ますとリアルではなく、ただただ作り物だなあと思ってしまいます。
しかも、出てくる男すべてが、駄目男です。まず、女とみれば色香に迷い、いつも責任逃ればかりしながら、説くところは世界のあるべき姿という、学生から総スカンの巣藤がいます。そして、彼をこうまでした父親がいます。事件を起こした亜衣の父親、これがまた全てを母親任せで、二言目には俺には仕事がある、です。それは游子の父親も変わりません。しかも、女性に頼りながら、偉ぶり、陰で苛めをやる。
もう、玲子の父親の駒田になってしまうと、単に人間の屑です。それにヤクザのがいます。これがまた、酷い。家庭をかえりみない、どころが全責任を奥さんにおっつけて、仕事に逃げ込んでいる典型がもうひとりいます。警察官の馬見原です。わかるんですね、そういう人間の存在と、それが持つ意味。でも、実際はそれだけじゃあないです。でも、それには目を瞑る。ないものとして扱う。
これでは、殺人事件や人身事故ばかりを報道して、現在の日本は病んでいるとする現在のワイドショーがもたらすものと変わるところがありません。真実を求める、それ自体が事件全体を物凄い速さで風化させていきます。そして、結局は、現状は改善されないままに、命の軽さだけが浮き上がる。けっしてマスコミも作家もそんなことは意図していないのに、です。
先日、角田光代『いつも旅のなか』で、イタリアについて、あまりに盗難などが多いと雑誌などで騒がれるものだから戦々恐々とし、友人知人にもそういわれ、心の準備をしてでかけたフィレンツェの人々のあまりの普通さに、自分の心配を恥じるところがあります。情報は、その意図にかかわらず一人歩きをします。
天童の意図が、現代の家庭こそすべてという風潮に対する抗議するというものなので、全体に極めて不自然なバイアスがかかっています。こういった如何にも世の中を考えていますといった作品では、そのことをいつも心しておかないと、結局、ツケはすべて読者に降りかかってしまう気がしてなりません。それは『永遠の仔』にも言えます。
ごく当たり前の家庭風景を描くことも大切ではないでしょうか。

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まだ遠い光

2004/06/06 17:53

白蟻とともに生きること

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る

 天童荒太のストーリー・テリングは破格で、ただただ物語の着地点を、というより作者が仕掛けた解けない問いの帰趨を見極めたくて、頁を繰るのももどかしく先を急いだ。新生や再生へ向けた未来への希望や癒しと赦しに満ちた大団円などで締めくくろうものなら、あるいはこの物語に結末はない、それは読者であるあなた自身の生き方に委ねられている、たとえばそのような問いの投げ返しでお茶を濁そうものなら、必ずや焚書の刑に処すべしと、費やした時間に見合う「意外な結末」を期待して一気に読み急いだ。

 高校美術教師・巣藤浚介、児童相談センター心理職員・氷崎游子、刑事・馬見原光毅の主要な三つの人物の魂の交錯の軌跡と山賀葉子や大野甲太郎といった特異な人物の孤独の儀式(家族再生の儀式)、そしてそれらの間に配置されたやや図式的で平面的な人物群の葛藤がそれぞれ十全に展開され溶けあわされ劇的に深まっていったわけではなく、ただ流れすぎていっただけという印象とともに物語世界から放り出されたいま、「まだ遠い光」という第五部のタイトルが示唆する未解決の解決という「意外な結末」を前にして、それをとりあえずは感動という出来合の言葉で呼ぶしかない爽快感あるいは解放感のようなものに浸っている。

 天童荒太はこの作品で二つの交換(反復強迫)を描いている。

「あなたの、わたしにしてくれたことが、ホームレスの方のご親切から来てて……そのホームレスの方も、女子高生に親切にされたことで、誰かにお返しをしたいと思われたのなら……(略)だとしたら……だとしたらよ、さかのぼってゆく線のどこかに、わたしの子どもも、いた可能性はないかしら? いま遠くにいるの。すぐには会えない子だけど、ずっと昔ね、大きな踏切で、渡りきらないうちに遮断機の棒が下りて困ってたおばあさんを、あの子が手を引いて、助けてあげたの。だから……」。

「或る民族が、長いあいだ迫害を受けて、大量虐殺って悲劇も経験した。結果、その民族が慈悲深くなったと思うか? 違うね。別の民族を迫害するようになるんだ。それが現実さ。この世界は、やられた奴が、誰かにやり返すシステムでできてる。あんたも、おれも、その一部なんだよ」。

 この前者の世界につながるものとして、四国遍路の「お接待」のように無償の相互行為の交換によって生きられる可能性や病院内地域通貨の試みが(バングラデシュのグラミン銀行とともに)紹介される。

「時間って実はひとつじゃないんだ、人の数だけ存在するんだなぁって、わたし感心して見てたんです。だったら、外に合わせた時間じゃなく、わたしたちの公約数的な時間を作って、そのなかで仕事をするようにしてゆけばいいんじゃないでしょうか? こうした考えを理解してくれる人は、外の世界にも何パーセントかはいると思うんです。そうした方々と、物やサービスの交換ができれば、これはこれでひとつの共同体だという気がするんです」。

 だが家族再生を強いるテロリスト(「本当に命がけで、家族を愛してきたと答えられるのなら、しっかりとそれをかたちで見せなければ、だめだ」)は必ずや再び平和な市民社会を撃つだろう。私たちの精神の根底に(白蟻のように)巣くう暴力への契機、攻撃性が決して駆除できないこと、つまり解けない問い(自らのうちに巣くう白蟻=攻撃性の意味)を問うことがすなわち生きることであると逆説的に証しするために。

「人間が思っている以上に、連中[白蟻]は利口です。集団で行動し、子孫を残すために、自分が犠牲になることもいとわない。黙々と働きつづけ、外から異常がわかったときには、もう内側はすべて食い尽くされているといった状態です」。──白蟻とともに生きること。天童荒太が『家族狩り』の結末に託したメッセージだ。

 ★全文掲載

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幻世の祈り

2004/12/16 11:20

「家族」とは何なのだろう?「家族」というものを有耶無耶にしている我々への試練のような作品。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:エルフ - この投稿者のレビュー一覧を見る

1995年に新潮ミステリー倶楽部から出版された「家族狩り」は残念ながら私は感動できなかった。
感情移入できる人物がいなかった為、ただのホラーミステリーとしか思えなかったからである。
そして今年1995年度を元にしながら違う作品として、天童氏は我々に家族とは何なのか、生きる意味とは何なのかを真っ直ぐにぶつけてきたのがこの「幻世の祈り」から始る家族狩り5部である。

私達が生きていくうえで一番小さな社会は「家族」である。
そこは本来癒され守られる場所でなければならないのだが、現実はどうだろうか? 毎日のように暗いニュースが流れている。おそらく一歩歯車が狂えば砂で作った家よりも脆く壊れるのが「家族」なのだろう。
その崩壊する様を生々しく描くのが彼の作品なのだが、その生々しさが他の作家と違うのは救いようがないところではないだろうか。
現実の世界で、一般の本のように一度壊れながらも皆の愛で再生していくなんて甘いし無理な話だ。
中途半端に壊れていくものを元に戻すよりもいっそのこと全壊してしまった方が楽だと人は感じるからだ。
この本の中で人々はまず自分の心の中の汚く醜い部分を出している。
でもこれが私達本来の姿だ。だから思わず目を背けたくなる。
そしてまた登場人物の誰もが救いを求めながら足掻き苦しんでいて彼らの叫びが本から直に伝わり思わず本を閉じたくなる。

第一部は運命のように彼らが出会うまでだ。
今から濁流に呑まれるかのように彼らは悪夢の川へと流されていく、第二部からも彼らの叫びに手で耳を塞ぎたくなりながらも目が離せなくなるのだろう。
「家族」というものを有耶無耶にしてしまっている現代の我々に試練を与えている作品のように感じるのは私だけだろうか。

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贈られた手

2004/07/01 02:11

物語は脇役を中心に少しずつ動いてきた。主人公3人を暖かく見守っている自分に自ずから気づくはずだ…

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:トラキチ - この投稿者のレビュー一覧を見る

いよいよシリーズも第三部となった。ますますシビアな世界が繰り広げられて行くが少しずつ変化が見られる点は決して見逃してはいけない。

ぼんやりとではあるが固まりつつあった主要登場人物のアウトラインが少しずつ変化しつつある点が読んでいてわかる点は嬉しいかな。

例えば恋人と距離をおいていた巣藤はかつての教え子とふれあう事によって少しずつ人間らしさを取り戻して行く。

本作の魅力ってなんだろう?
社会派的要素は当然のこととして、物語レベルで論ずると私は主人公三人の苦悩が同じぐらい突き刺さる点が特に素晴らしいと思う。
まるで三つの物語を同時に読んでいるような気がする。
他の読者の方はどうなんだろうか?

とりわけ“明らかに三人の中でいちばん大人になりきってない感の強いというか精神的に弱そうである”浚介の今後を特に気になりつつ読まれてる方も多いと思う。

絶対に目をそらしてはいけない点は、主人公三人ともに今を懸命に生きている点。
三人三様でそれぞれに本当の生きがいと言うものを見失っているようにも見受けられる。
というか、総じて不器用なのかもしれない。
きっと読者は自分の弱い部分を主人公に投影されて読まれてるのであろう。

ただ、現実に立ち向って行こうとする点は見習うべきというか賞賛に値することを決して忘れてはならない。

第一部の感想で重松清の作品との違いを述べたが(私自身重松さんの大ファンなんで)、もう少し補足したく思う。

重松清の作品には愛情を持って子供に暴力を振るう親は登場するが、子供を虐待する親は皆無である。

天童荒太は作品を通して“社会の厳しさ”を教えてくれる。
重松清が“人生の厳しさ”を教えてくれるように…

重松清の作品を読めば避けて通る事の出来ない“人生の苦楽”を体感出来る。

が、天童荒太は得るものが2つあるような気がしてならない。

まず、天童荒太の作品を読むと“グローバルに世界を眺める”ことが出来る。
同時に“人間ってこんなにもろいものなんだ”とひしひしと伝わって来るのである。
まさしく“表裏一体”という言葉がぴったり当てはまるんじゃないかな。

きっとそのもろさって“人間の本性”の一番根元にあるものなんだろう。

結論づけると、重松清の作品は主人公に読者が成り切ることができる(というかそうあるべきである)、天童荒太の作品は社会全体から主人公を見守ってあげなければならないような気がする。

そういう意味合いにおいては天童作品の方が読者に対してハードルが高いのかもしれない。

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物語は脇役を中心に少しずつ動いてきた。
今回のラストは馬見原の妻佐和子の突然の暴挙。
果たして麻生家と実森家の事件はどうなって行くのだろうか?
油井の動向も注目だが、馬見原が研治に対する、あるいは游子が玲子に対する想いって“肉親の愛情を超えた想い”なんじゃなかろうかと胸に突き刺さった。

天童氏の筆力を持ってすれば、どうにでも展開させることが出来るであろう。

あと2冊読み終えた後、大きな感動と教訓をゲット出来る事を信じて本を閉じたことを最後に書き留めておきたい。

トラキチのブックレビュー

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幻世の祈り

2004/06/06 03:36

重松清の作品は“リアル”だが、天童荒太の作品は“生々しい”!

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:トラキチ - この投稿者のレビュー一覧を見る

今年の最大の話題作と言って過言ではない“新・家族狩りシリーズ”の第1巻を手にとって見た。
オリジナル版(1995年刊行)は読んでないので比較出来ないのは残念であるが、物語の圧倒的な吸引力に読者も度肝を抜かれる事は間違いないかなと思う。

家族小説作家としては直木賞作家の重松清が有名であるが、重松清と天童荒太の作風は一線を画する。
例えて言えば、重松清の作品は“現実を直視しなければならない!”が、天童荒太の作品は“人間を直視しなければならない!”
この差はどういうことかと言えば、重松作品は“身近というか生きて行く上で避けて通れないもの”を題材として読者に対して“応援歌”的な意味合いで語りかけているのであるが、天童荒太の作品は読者にもっと厳しい。
題材的にもすべての人が身近と考えられないものが多くて息苦しく感じられるかもしれない。
ただ、天童荒太のいい点はいっさい妥協をしていないところである。
重松清が“今に生きる日本人の家族”を描くのが秀逸なのと同様、天童荒太は“人間というか人類(普遍的なものとしての)”を描くのが秀逸である。
そこに“視野の広さ”を見出せた読者はきっと大きなプレゼントを得たこととなるであろう。

物語は予想通りと言うか予想以上に重い。
登場人物は高校教師・巣藤浚介、刑事・馬見原光毅、児童相談センター所員の氷崎游子の3人がの中心。
物語はまだまだ序盤、平凡な女子高生・亜矢の障害事件によって上記の魅力的な登場人物が交錯したところである。
天童荒太の描く魅力的な人物ってそれぞれが“心に傷”を持っている他ならない。
それはきっとより“人間らしさ”を表してくれているのだろう。
第1部では馬見原刑事の過去のいきさつが1番丹念に書かれている。
多少なりとも馬見原刑事の心に潜んだ部分が読者に受け入れられた気がする。

ラストの家族の変死体がとっても印象的かつ象徴的だ。
きっと物語り全体を支配して行くに違いない。
これからどんな悲劇が待ち受けているのであろうか?
でも最後まで読んで少しでも成長できたらと思いつつページをめくれる幸せを噛みしめてレビューを書いている私がここにいることは書き記しておきたい。

トラキチのブックレビュー

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遭難者の夢

2004/06/27 11:03

ますます深みに嵌って行く姿が赤裸裸かつ衝撃的に描かれている…

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:トラキチ - この投稿者のレビュー一覧を見る

正直、いろんな話が交錯しているので簡単に書き表わせないのが残念であることを最初にお断りしておきたい。

第一部『幻世の祈り』のラストで事件(麻生一家の変死体)が起こり物語が動き出したが、第二部においては主要登場人物様々な角度から物語が動き出すためにより一層読者も釘付けにされてしまう。
麻生一家の事件を目撃した巣藤浚介の心のバランスが崩れ去り若者に襲われる。
恋人とも再び接するのであるが以前のように接することが出来ない。

馬見原光毅刑事は、周りから止められつつも麻生一家事件を執念深い捜査を繰り広げる。
彼は決して被疑者死亡事件だと思っていない。
事件を追うとともに、幼児虐待で油井善博が身近なところに現れたことがわかる。
油井と冬島綾女との子どもが馬見原に電話をかけて来るシーンが1番切なくて印象的だった。

今回は氷崎游子と冬島綾女のプライベートや過去(特に游子の元恋人との再会シーンは印象的だ)に対して掘り下げて書かれている。
2人を対照的な人物として読まれてる読者も多いような気がする。
果たしてどちらがしあわせなのだろうか?


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読者も天童氏の淡々かつ重厚な語り口に着いて行かなければならないから大変だ。

少しづつ主人公三人の接点が近くなって来た。
浚介は運び込まれた病院に亜衣事件で知り合った游子を無意識に呼ぶ。
游子は駒田が児童相談センターに子供を引き取りに来た時に暴力を受けるのだが、
過去に彼の親子問題において深く関わった馬見原が助けてくれたために大事に至らなかった。

天童荒太の描写力の確かさは人間の弱さをあぶり出すときに頂点に達する。

本作においては主要登場人物三人はもちろんのことそれ以外の人物の描写も丹念だ。
例えば、終盤のシロアリ駆除の話なんだが、この物語全体を支配している“恐怖心”の表れを読者に想起させてくれている。本当に巧妙な例えだ。とってもリアルで…

そして今回も衝撃のラスト…
なんと不登校で浚介が家庭訪問をした実森宅で事件が起こるのである。

お気づきの方も多いかなと思うが冒頭の電話相談がかなりモチーフとなっているような気がする。
第一部の冒頭は麻生一家、第二部の冒頭は実森少年かな?

その答えはもう少し待ってみようと思う。

トラキチのブックレビュー

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