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津上は仕事に燃えているようで実は覚めている、いい男だ
2019/01/26 22:21
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「闘牛」の主人公・津上にはモデルがいる。その人は小谷正一。この西宮球場(作内では阪神球場)での闘牛の企画は、大雨のために大失敗したが、そのあとの企画、阪急百貨店で開催された西洋絵画展が大成功を収めて失敗を帳消しにしたのみか、プロ野球球団「毎日オリオンズ」の設立に奔走するというとんでもなくパワーのある人だ。その男と怪しげな興行師・田代、戦後の成り上がり者・岡部などのパワフルでうさん臭い戦後日本のある意味では原動力となっていった男たちとの会話が魅力的だ。仕事に熱く燃えているようで実は冷めている、しかし勝負師でもある津上に好感がもてる。
紙の本
三作品とも名作ぞろい
2018/05/02 13:51
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投稿者:けんたん - この投稿者のレビュー一覧を見る
『猟銃』は,サスペンスタッチで,ページをめくる手が止まりませんでした。
『闘牛』は,ビジネス小説ですが,戦後の日本の様子がうかがえました。当時の天気予報の精度の低さが印象的でした。
『比良のシャクナゲ』は,老人のボヤキですが,その孤独や苦悩について考えさせられました。
紙の本
孤独な生き物たちよ、万歳
2001/11/14 11:49
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投稿者:読ん太 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『猟銃』『闘牛』『比良のシャクナゲ』の三作品が収録されている。
『猟銃』では、三杉という男の不倫の様子が、彼の妻、愛人、愛人の娘の3人からの三杉宛の手紙で描かれる。それぞれが三杉に対して最後通知のつもりで書いたものだけに、鬼気迫るものが感じられる。妻は、夫の不倫に早い時期から気付いていたが、夫に詰め寄る期を失した。形としては耐え抜いた女性ということになるだろうが、彼女の手紙を読んで頭に浮かんだのは「賭博する者の心理」だった。負けが続いたら今さらやめるわけにはいかない、つぎ込んだ金と労力をこの手にするまでは。それも2倍にも3倍にもしなければおさまりがつかない。これと同じ心理が妻に働いて、何年も何年も知らぬふりを通してきた。そして最後に兎に角も勝利を収めたと彼女は感じているようだ。 一方愛人は、三杉への愛や日陰の身であることは一種のカモフラージュのようなものでしかなく、彼女を立ち上がらせる気力は前夫の浮気にあったようだ。
手紙の差出人によって主人公が転々と変わっていくので、段々と話が複雑になりながらも真相が明らかになっていく。まるでミステリーを読んでいるようでもあった。
三杉が愛人に、「人間は誰も身体の中に一匹ずつ蛇を持っている。」と語り、それに対して愛人は手紙の中で次のように言っている。「人間の持っている蛇とは何でありましょうか。我執、嫉妬、宿命、恐らくそうしたもの全部を呑み込んだ、もう自分の力ではどうする事も出来ない業のようなものでありましょうか」。『猟銃』は、まさに人間の業を見事に描いた作品だと思う。
続く『闘牛』では、やり手の新聞記者が闘牛の興行に賭ける様子が描かれている。人間の中身は、年齢や経験によって成長していくものとは別に、決して変化を見せることなく消えることもない一部分があることに気付かされる。どうしても顔を出そうとするこの一部分によって、人の人生は大なり小なり波乱万丈と言わしめられるのだろう。
三作目の『比良のシャクナゲ』は、一言で言えば老人のぼやき小説だ。今の世なら、定年と同時に妻から離婚届を突きつけられるタイプの男性だ。研究に没頭する毎日。辿り着くべき場所を求め続けている。他人の無理解を罵倒する姿は孤独で、研究を認められたいと願う気持ちは憐憫の情を催す。
まやかしを取っ払った人を見せてもらえて、却って清々しい気持ちになれた。
「自分なりにしか生きることができない人々」の姿を読み、安堵のため息が出た。
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金持ちの孤独ってのが多いですね。何か思いいれでもあるんだろうか。それはともかく、どうしてこうも書簡形式の小説ってのは心ときめくんでしょう(猟銃)
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「猟銃」のみ読了。
これは確か井上靖の処女小説?かな。
三人の視点というのが独特で、海辺で羽織を来た女の人のイメージが美しい。
「詩人」なだけあって、井上靖は小説で書かれる「絵」が美しいです。
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「闘牛」の題材になった定期興業は口蹄疫で約60年ぶりに中止に。代わりに読みました。それぞれの話で、みな孤独そうなのが良い。
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ブックオフで見つけて、芥川賞受賞作なので買ってみた。
読み終えて、なぜタイトルが『猟銃』なのか疑問に思った。
三杉が手紙の最後に書き添えたことの意味を考えると、
このタイトルの意味もなんとなく分かってきた。
すると、やはり彼は全てを知っていたのだろう、
どちらの蛇の正体も知っていたのだろう、と思った。
『闘牛』については、津上の孤独の影が強すぎて、
私は惹きつけられると言うより恐いと感じた。
三浦に対して感じてしまう敵意は星廻りのせいだと言い切っていたのが、
どうも納得できなかった。
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あなたは愛される一生を選ぶか、愛する一生を選ぶか。女学生だったヒロインたちの日常生活での一言は、その後の私の人生に大きな影響を与えた。
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宮本輝さんが、雑誌の中で「人間同士の言うに言われん相性みたいなものを絶妙な言い方で表現していますね。…本当に名作ですよ」とおっしゃっていたので、手にとりました。本当にそのとおりでした。
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井上靖の初期3作品「猟銃」「闘牛」「比良のシャクナゲ」を収載。自分的には少し距離感のある作品群のように感じられたが、それぞれ、ストーリー構成が良いのと、3作品とも違った趣の文体であるので、それぞれの形で楽しめたと思う。
「猟銃」は妻と愛人と愛人の娘から送られた手紙を読むことで、全体の想いが詳らかになるという意欲作だが、最後の愛人の想いに違和感があったのと、普通、その順番で読まないだろうという自分の中の意地悪な思いもあって(笑)、構成は面白いがいまひとつ馴染めなかった。
「闘牛」は割と動的な展開で、闘牛大会開催に向けてのとりつかれた情熱も伝わってくるのだが、ラストの展開は個人的には良いのだが、主人公の新聞記者のニヒリズムがいまひとつ伝わってこなかったように思う。むしろこれだけの展開があるのなら、長編にして丹念に心情を描いても良かったのかなと。愛人の使い方ももう少しもったいない。日本の闘牛は静的なイメージを持っていたので、結末の行方にある意味自分自身がニヒルに感じていたかもしれない。(笑)
「比良のシャクナゲ」は偏屈老人の戯言(笑)が書きつづられた作品だが、個人的には短編としてはなかなか良かった。人生のターニングポイントで訪れる比良の旅館の風情が主人公とよくマッチしている。偏屈老人(!)の心情をひたすら吐露する話であるが、学問にとりつかれた因業が良く出ている作品のように思う。
3作品とも部屋の窓から外を眺める(特に前2作品は愛人と)印象深いシーンが出てくるのは作者の強い思い入れがあるのだろうか。どの作品も失敗や挫折の中の孤独が1つのテーマとなっていると思われ、日常の中に潜む心の暗部をよく象徴している。
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闘牛」は、井上靖の第二作目の作品である。処女作は『猟銃』で、芥川賞の候補には、この二作とも選はれていた。が、第二十二回の芥川賞は『聞牛」に決定している。
新聞社内部の実話をもとに
『聞牛』は、新聞社内部を描いたモデル小説だと言われている。モデルとなったのは、新大阪新聞が行った闘牛大会である。作品では伏せ字にしたり名社を変えてはいるが、阪神球場というのは、西ノ宮球場。B新聞というのは、井上賭がいた毎日新聞社であり、大阪新夕刊というのが、新大阪新聞のことである。生人公津上は、新大阪新聞の小谷正一氏のことであるが、そこまで現実と重複(だぶ)らせては、ノンフイクション物になってしまう。この小説は、あくまで、 『闘牛大会』という背景を借りた、恋愛小説として勝むべきである。
同じ新大阪新聞社の創立当時を扱った小説に『夕刊流星号」があり、作者の足立巻一も社員であった。内部から見たエピソードのひとつとして書かれている「闘牛大会」の部分を合わせ読むと、さらに興味深い。
終賭直後の生きる手懸りを”賭ける”
編集局長である主人公は、たえず行動に駆り立てられながらも、行動の裏側には孤独とニヒリズムの影がまといつている。彼は、W市て年三回開かれる闘牛大会では、観衆の殆ど全部が牛の競技に賭けていると闘き、それだけで、社運を賭した闘牛大会をやろうと決める。
『賭ける、これはいけると津上は思う。阪神の都会で行っても、W市と同じようにそこに集まる観衆のすべては賭けるだろう。終戦後の日本人にとっては生きる手懸かりといえば、まあこ人なところかも知れないと、津上は思う』
彼は闘牛大会の実現に奔走する。久しぶりに会いに来た恋人のさき子さえ、じゃまあつかいに冷たくする。闘牛大会の初日、二日目と雨が降り、興行的には失敗する。が、津上は無感動に、競技を進行させている。これをみていたさき子は言う。
『あなたは初めから何も賭けてはいないのよ、賭けれるような人ではないわ』
しかし、反対に津上から、君はどう?と聞かれて、『もちろん、私も賭けてるわ』と 答える。実際さき子は賭けたのだ。いまリングの真中で行われている二匹の牛の闘争に 賭けたのだ。赤い牛が勝つたら津上と別れてしまおうと…。
終戦直後に書かれた作品でありなが、今読んでも、不思議と古さを感じさせない。
さき子の自立した生き方などは、現在そのものである。津上の生き方は、験争を深く体験した日木人の姿であり、五木寛之の作品に出てくる男の姿に似ているように思うのは、私だけだろうが。
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お金の価値とかに時代を感じる。
それでも、井上靖の作品は、はっきりとその感情がなんなのか述べられていなくても、理解ができるところが凄く面白いと思う。
自分が感じていて、なかなか外には現せないような感情が、誰にでも、どんな時代の人にもあると思えるから、面白い。
それにしても、本のレビューを書く以上、誤字脱字には特に気を付けるべきだ。
偉そうに評価しておいて、どう入力したらこんな間違いをするのだろうと思われるような誤字のある文章は、薄っぺらさを露呈しているだけ。
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友人に勧められて読んだ…久しぶりに小説らしい小説を読んだ気がした…翻って考えれば、純文学という領域が普遍性を鑑みない狭所に閉塞している現状もあるのだろう…面白かった。惹き込まれ一気に読まされた。
昭和24年第22回芥川賞受賞作「闘牛」を含む、著者初期作品による短編集…他「猟銃」「比良のシャクナゲ」所収。後に歴史物で名をなした著者であるが、ここに掲載されているのは、すべて現代物…登場人物の造形がしっかりされていて破綻がない。誰にも心情移入することができた。
たとえば「猟銃」では、不倫関係にある恋を、妻・愛人・愛人の娘の日記によって構成している…愛人は臨終の際にこのように記していたのだ…
―女が人生の終りで、静かに横たわって死の壁の方に顔を向ける時、愛された幸福を満喫した女と、幸せ少なかったが、私は愛したと言い切れる女と、果たして神はどちらに静かな休息を与えられるでしょうか。しかし一体この世に、神の前で私は愛しましたと言い切れる女があるもので御座いましょうか。いいえ、やはりあるに違いありません。
奇を衒わぬ書きぶりゆえに、激しく心動かされる文章…だと思う。芥川賞受賞作…とは云え、当時の作品は文庫からはずされているものが多い…本作は、長く読み継がれるものであろうと…ひしと感じられた。
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『猟銃』の印象は割と薄かったのだが、『闘牛』はさすがの読後感だった。史実をもとにして淡々と進んでいくストーリーの中に、主人公津上と愛人さき子との先の見えぬ不安感を織り交ぜている。前者は物語を円滑に進める働きを持ち、後者は要所で物語に絡んで、ドラマチックな結末を生む大きな要素となっている。
闘牛の結果と二人の関係の終わりを重ねた最後の段落、特に最後の一文は凄まじい。
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この主人公のように
地位もあって、お金もある程度あって
仕事もできて愛人もいて、
里には妻も子供もいる
それでも何物にも酔えない孤独。
やっと、これだ!と思ったものが
どんどん色褪せてしまう。
井上靖さんのこの短編集は
人生はそういった縋るべき充足感を探す旅である、だけどそれは決して容易に見つからない
見つけたと思ってもまたすぐに逃げていく。
だから人間は孤独だと言っている気がします。
でもそれは寂しいメッセージでもなくて
みんなそうなんだよって言ってくれて
ほんの一時、そっとよりそってくへる
そんな一冊でした。