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紙の本
雁の寺・越前竹人形 改版 (新潮文庫)
著者 水上 勉 (著)
【直木賞(45(1961上半期))】乞食女の捨て子として惨めな日々を送ってきた少年僧慈念の、殺人にいたる鬱積した孤独な怨念の凝集を見詰める「雁の寺」と、はかない愛の姿を越...
雁の寺・越前竹人形 改版 (新潮文庫)
雁の寺・越前竹人形(新潮文庫)
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商品説明
【直木賞(45(1961上半期))】乞食女の捨て子として惨めな日々を送ってきた少年僧慈念の、殺人にいたる鬱積した孤独な怨念の凝集を見詰める「雁の寺」と、はかない愛の姿を越前の竹林を背景に描く「越前竹人形」。水上勉の代表的名作2編を収める。【「TRC MARC」の商品解説】
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紙の本
なぜにこんなに「暗い」のか。
2011/01/23 08:30
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:analog純 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この文庫本には、上記タイトルからも分かるように、二つの小説が収録されています。『雁の寺』は直木賞受賞作です。
しかしここだけの話ですが(って、「ここだけの話」って意味ないですがー)、めちゃめちゃ暗い話ですねー。
そもそも私は、この筆者の本もあまり読んだことがありません。
昔、戯曲『ブンナよ、木からおりてこい』ってのを何かの拍子に読んだような気がするんですが、あまり内容を覚えていません。
だから、この筆者の作品が、ほぼ「常時」暗いのかどうかについては判断ができませんが、少なくとも今回の二作品は、とってもとっても暗いです。
なぜこんなに暗いのかというと、まー、これらの作品が「人生の孤独」を描いているからですね。しかし、「人生の孤独」を描くというなら、ほとんどの文学作品が描くところでありましょう。
例えば、はやりの村上春樹なんか、いえもっと限定して例示しますと『ノルウェイの森』なんかも、「人生の孤独」を描いた作品でありましょう。
しかし、『ノルウェイ…』は、さほど暗くは、たぶん、少なくともトータルな読後感としては、ありませんよね。
結局この暗さはどこから出ているかと考えますと、それは肉体的ハンディキャップを書いているからじゃないでしょうか。
もちろん肉体にまつわる劣等感が、個人の人格形成に大きな影響を与えることは考えられるのですが、うーん、なんというのか、そういったアプローチからは、いわゆる普遍的な「人生の孤独」には、到達しにくいような気がします。(ちょっと、誤解を生みそうな表現になっていますかね。)
『雁の寺』に出てくる「小僧・慈念」は、「頭が大きく、躯が小さく、片輪のようにいびつ」な少年と描かれています。さらに彼は非人間的に厳しい修行を課せられる中で、極めて孤独な少年となっていきます。(この辺、併せて仏教界の腐敗が描かれるのですが、これが変なリアリズムを持って、気分悪くも面白いところではありますが。)
その慈念が、一人で寺庭の池端にじっと立っているのを、寺の住職の愛人・里子が陰から覗くという場面です。
################
里子は慈念が何をみているのか気になった。池の鯉かと思った。と、とつぜん、慈念は掌を頭の上にふりあげたと思うと、水面に向ってハッシと何か投げつけた。鉢頭がぐらりとゆれて、一点を凝視している。里子もしゃがんだ。廊下から池の面を遠目にみつめた。瞬間、里子はあッと声を立てそうになった。灰色の鯉が、背中に竹小刀をつきさされて水を切って泳いでいくのだ。ヒシの葉が竹小刀にかきわけられ、水すましがとび散った。それは尺余もある大きなシマ鯉であった。突きさされた背中から赤い血が出ていた。血は水面に毛糸をうかべたように線になって走った。
里子は、慈念を叱りつけようと思ったがやめた。
〈こわい子や。何するかわからん子や〉
里子は廊下をそっと本堂の横にそれ、隠寮にもどった。
##############
慈念の殺人に至る動機について、それを「孤独」のみでやっつけてしまうには、少し書き込み不足のような気がします。
そこで上記のような「人格のゆがみ」が描かれます。(途中に出てくる「鳶の巣穴」のグロテスクさは、この慈念の人格や心理を象徴するように描かれ、少し面白くもあり、しかしよく考えれば、餌の貯蔵庫である「鳶の巣穴」の中でうごめく瀕死の小動物というのは、「食」という生物の本能についての話と集約することもできます。)
しかし終盤、寺のお堂の縁の下から慈念がひもじさの余りこっそり食べた鯉の骨が多く出てくるに至って、慈念の鯉殺しの行動は単なる「食」の話になってしまい、上記の引用部から読める、人格のゆがみによる「迫力」が薄められてしまいます。
そうすると、慈念の殺人の動機は、その他に幾つか細かいものが描かれているとしても、集約してしまうと、里子からのセクシャルハラスメントというだけになってしまい、あれこれ書かれてある割に稔るものは少ないと、つい私は思ってしまうのでありました。
上記に、村上春樹の作品について少し触れましたが、この慈念の孤独と、特に初期の村上春樹の作品に見られる「生きることの孤独」との違いを考えると、水上勉がその原因を、親子関係(貧を含む)と外見の特異性に置いていることが分かります。
これが、いわばこの作品のイメージを暗くし、そして「普遍的な孤独」への広がりを妨げているのじゃないかと感じました。
村上春樹が描く孤独は、これもやはり生存の孤独ではありますが、このような「実存的」な孤独が真の姿を現すには、やはり近代都市の発展が不可欠なのかも知れません。
都市生活の中にひっそりと普遍的にある孤独、これはあまねく存在するが故に、別の一面に於いては、作品全体を「暗く」させることなく、それを描くことを可能にしているのかも知れぬなと、私は暗く密かに愚考するのでありました。
紙の本
「雁の寺」はやはり名作
2019/01/26 22:35
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ゼミが同じだった男が水上勉の本をいつも読んでいたことを思い出した。あのころの私はSFにしか興味がなかったので、彼とは文学の話はぜんぜんしなかったような気がする。今回、表題の2作を読んだ。「雁の寺」における淡々と描写されていく慈念の不気味さ、なぜ住職を殺して他人の棺桶につっこんで埋めてしまったのかが詳細に書かれていないので余計に彼の生い立ち、現状を想像することによってえぐさがます。「越前竹人形」は玉枝が病死したため悲しみのあまり竹人形を作らなくなってしまった喜助の話なのであるが、私にはハッピーエンドに思えた。玉枝と幸せな時を過ごせた喜助は幸せ者だ
紙の本
尾を引く後味。不思議とさわやか。
2015/01/26 19:38
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ライカ犬 - この投稿者のレビュー一覧を見る
言わずと知れた、作者初期の代表作「雁の寺」。人物造形の確かさ、はたまた京言葉の魅力でしょうか、後が気になり、ついつい読み進めたくなります。推理小説さながらで、現代のさまざまな推理小説を読んだ身からすると、ちと「?」も浮かびますが、まあ、それはそれ。決して明るい話ではないのに、むしろ不気味で奇怪なのに、読後にくるこのカタルシスはなぜ?いつの間にか主人公に肩入れして読んでいたのですね。
「越前竹人形」小説としてはこちらの方がおもしろい。美しく、悲しい、いいストーリーです。今村昌平さんあたりに映画にしてほしかったなあ。
電子書籍
僕らの孤独の風景
2018/01/25 00:32
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:SlowBird - この投稿者のレビュー一覧を見る
水上勉には社会派ミステリと、故郷若狭などを舞台とした土着的文学と、二つの顔がある。とにかく洞爺丸沈没を題材にした「飢餓海峡」が傑作すぎて、他は霞んでしまいそうなのだが、もうミステリから手を引こうと考えつつ、ミステリ要素を含んだ「雁の寺」で直木賞を取った。これももちろん傑作で、少年時代に禅寺で小僧として修行していた経験に基づくというディテールに力がある。禅寺の生活や小道具についてではなく、それは小僧や和尚の実在感として現れている。
水上勉自身は修行生活が辛くて寺を逃げ出したのだが、当時の記憶が主人公のなんとも説明できない苦しみとして滲み出ているようだ。それは明快な論理や言葉で説明できるものではなく、小さな事実の一つ一つの積み重ねでしか表せないもの。少年にも、周囲の人々にも、少しずつわだかまっていく、鬱々とした精神の霞の向こうに事件の真相はある。
「越前竹人形」は、冬には雪の中に埋もれてしまう小さな山村で、竹人形作りの名人として名を成した男の生涯を描いていて、はたから見れば真面目で仕事一筋の成功者だが、内面には深い苦悩を秘めている。その苦悩を自ら決して語ることはないが、奇妙な運命で出会った妻だけは精神に影の部分があるのを知っている。そうやって妻の視点で語っても、なお苦悩の実態は見えないし、謎解き小説のように明らかにできるものでもなく、一切の他者の理解を拒む領域の問題だ。
これらの作品では、人間の苦悩の根源は、他者に理解できるようなものとは認識されていない。ただ苦しみ悶えてながらも日々を送っている人間がいて、稀にわずかに歪んだ行為となって現れるのが余人の目に触れるのみなのだ。
内面の真実は、妻の目にさえ確かには分からないほど、精神の奥深くに沈んでいる。人間の苦悩が、明快な論理や言葉で割り切れはしないということこそ、作者のこだわりの部分なように思える。また苦悩が人間の中で独自に存在するものでもなく、例えば絵師渾身の襖絵の雁の図や、妻の姿をかたどった竹人形などの存在とも不可分ではあるが、それでもまだ説明はできない。生まれ育ちや、肉体的コンプレックスを加えてもまだ姿は現せない。本人にも説明できないし、苦悩の存在さえ意識していないかもしれず、もしかすると幸福感と一体のものであり、ただそれがある時突然に耐えられない臨界点に達するだけだ。
越前という土地も、作者の故郷の若狭に近く、地域性、特に京都への憧れやコンプレックスも濃密に滲ませている。そんな地方の人々の意識というのは「飢餓海峡」にも濃い影を落としていなかったろうか。社会派として事件を追っても、因襲の中に生きる暮らしに目を向けても、そこから汲み取る哀しみ、そして書きたいことはずっと同じだったのだと思う。それはまた高度成長期において、多くの人々が望んだ物語でもあったろうし、今でもなお日本人にとって全て懐かしい風景でもある。
紙の本
哀しく生きた男女のものがたり
2015/10/31 23:46
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:空間の設計者 - この投稿者のレビュー一覧を見る
山深い人里の佇まいに、溶けこむような当時の裏日本越後という地方、貧しく暗い背景がこの物語の底を流れる。
それは、日本がかつて歩んだ風雪の時代を端緒に象徴しながら読む者のこころの舞台の照明の基調となっている。
妻という名の母は、竹細工という男の生業における最高で永遠の主題となる。
竹の精とまで美しく擬せしめた美貌の持主が、はかなく消滅していく終末は、
女の臨終のことばとともに、果てしなく哀れだが、ロマンの光彩に縁どられ静かに語りかける読後感がよかった。
紙の本
一番強い愛は、母を想う愛なのかもしれない。
2004/06/09 18:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:土曜日の子供 - この投稿者のレビュー一覧を見る
『雁の寺』の主人公である、寺の小坊主であった慈念の、行き場のない鬱屈した思いは、いつか解放されなければならないものであっただろう。溜めに溜めて歪んだ形で負の方向に噴出するまでに、何ひとつ救いがなかったのが、この物語のやるせなさを強調し、独特の重苦しいトーンを形成している。
慈念が一瞬でも母性を求めた里子は、師である慈海の愛人。自分に対し同情し、愛情を注ぎながらも、一人の女として性の喜びに浸る里子への戸惑い・怒り。仏道に帰依し慈念に厳しい修行を課す一方で、ただのオスとなって里子を求める慈海。自分を翻弄する気まぐれな大人たち。「口で格好のいいことを言っても、だれも自分を愛し、受け入れてはくれない」虐げられてくすぶっていた暗い情念が、14歳という多感な時期の情動に、さらに突き動かされていく。
心理描写はあまりなく、むしろ淡々と出来事が語られる。それだけに読むほうが想像し考える時間をたっぷり与えてくれる、奥の深い作品だ。
『越前竹人形』は、容貌にコンプレックスを持つ、ちょっと陰のある22歳の竹細工職人、喜助が主人公だ。物心つく前に母を亡くし、母を慕い母性を強く求めている点でどちらの主人公も共通している。
喜助は母の面影を重ねて、実の母に対するように、妻である玉枝を愛する。喜助の職人としての、類まれなる才能を誇らしく思い、尊敬し彼を支える玉枝。
美しく純粋な愛…。それは心を洗われるような清らかな気持ちにさせてくれる。だが、喜助の玉枝への一途な愛は、玉枝にとってある意味、残酷さをはらんだ愛でもあった。
宿命的ともいえる人と人とのつながり、意のままにならぬ自分の、そして相手の心。やるせなさと、深い深い愛の重さに心を揺さぶられる。物語が終わったあとも強い余韻が胸の中に残る。
悲劇的要素に彩られた内容でありながら、この物語は静謐な美しさをたたえている。それは、ひっそりと山深い、ここかしこに竹やぶの茂る小さな集落の懐かしいような素朴な景色、質素な作業場で一心不乱に腕を振るう喜助の姿、お互いの事を大切に思う、喜助と玉枝の心の絆。それらのことが全てない混ぜになり、この物語から美しい哀しみが、かもし出されてくるからだろう。