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膨大な量の中,話があちらに飛びこちらに戻り,ある点がどんどん拡大されていくかと思えばすっと収斂する.また登場人物も1914年の3人の農夫,現代の私と業界紙に努めるメイズを中心として入り乱れ錯綜し非常に分かりにくい構造.読むのにはなかなか苦労するが内容は面白く,時に披露される哲学的な考察は読み応えがあった.特に自伝についての論旨などはメルロ=ポンティを想起したりして興味深かった.またメイズのフォードの遺産にかかるあたりのユーモアも楽しかった.
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人生はすべて、雑多な集合体である。農夫フォード、文盲フォード、機械の天才フォード、進歩主義者、反ユダヤ主義者、博愛主義者。現代という時代は、定義上すでに、その数十億倍も雑多な集合体である。この一方の集合体をもう一方の集合体につなぎ合わせるには、相当量の編集作業が必要となり、それゆえ相当の個人的気質が紛れ込むことになる。伝記作者が「これこそがこの人物を偉大な、代表的な人間にしている」と言うとき、すなわち、その人物を追いかけることに自分が何年も浪費してきた理由を説明しはじめるとき、伝記作者は自分を巻き込みはじめている。自分の個人的気質を、そして逆説的なことに自分の時代の見方を、巻き込みはじめているのである。
手を汚さずに済む伝記作者はいない。伝記が小説と異なるのは、証明の方向性においてのみである。伝記は人格の個別的細部から出発し、ひとつの生涯の全般的・歴史的文脈を演繹的に引き出そうとする。小説は歴史的な場をひとまず仮想し、そこから人格の代表的細部を帰納的に導き出そうとする。どちらも、作品を書き手の意図と気質で汚してしまう点に変わりはない。(p.236)
トラックの後輪のかたわらに丸まった、ひとつの死体。それはファインダーを通してまさしく自分が見たものであり、と同時に、それとはまったく違ったものだった。写真のなか、あのときよりもいまの方が、ずっと多くのことが起きている。細部のゆらぎ、ハーフトーンに包まれたしわくちゃのかたまり、物自体のまったき沈黙。それはあのとき彼が見たよりはるかに多くのものであり、にもかかわらず、シャッターを開いた瞬間に彼が思い描いたものそのままだった。
借り物のアイデンティティに課された仕事はこれでなしとげた。この仕事を為すために自分は前線に送られてきたのだ。これ以上はないというくらい単純なこのスナップショットのなかに、非戦闘員の観察者たちはついに見るだろう、何ら曖昧さの余地のない、何の解釈にも染まっていない、1914年の舞踏そのものを。いかなる言葉もその衝撃に注釈をつけ加えられはしない。戦争とはどういうものなのかを、この写真は傍観者たちに伝えるだろう。(p.320)
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これは、あれだ、頑張って最後まで読んだ自分を褒めてやりたい、ていうやつだ。
ページの厚さ以上に文字多すぎですから。しかもあっちゃこっちゃ内容が飛びまくるし、もう試されてる感。
でもって内容はと言われると、まぁ色々ありすぎて、ね。なんだけど、アドルフ、すわ第二次大戦とユダヤ人ネタか!と思いきやの第一次大戦からのヘンリー・フォードやらザンダーやら、知らぬ話が続々とやってくるので、それなりには面白いのですよ。途中の作者の思い入れのある哲学的な文章を乗り越えていければ。
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柴田さんのエッセイを読んでからもう3ヶ月たっちゃった。試験も終わった(正式の結果通知が来ないんだが)んでのんびりとこの本。ドイツ人写真家アウグスト・ザンダーが1914年に撮った1枚の写真『舞踏会へ向かう三人の農夫』をたまたま見かけた若きパワーズはその瞬間に未来への扉がすぱんっと開いちゃったのね。ドラえもんの『どこでもドア』ってのは本当にあるんだわ。
その足で会社を辞め2年間かけてこの本を書いたらしい。24歳ですって天才かよ。何が凄いって構想力よ。たった1枚の写真から妄想の風呂敷をどばーっと広げて2段組400ページ強の時空を超えた物語を仕立て上げた。この表紙にもなっているけれど特にこうなんかある写真とは思えないんだけれどパワーズには啓示だったのですね。
1914年にぬかるんだ畑の中を3人の若者がこの格好をして出かけて行く先はどこなんだろう? 戦争なんだわ。なるほど写真ってそう見るのかぁ。じゃあ1914年って他に何がある? ヘンリー・フォードでありサラ・ベルナールであると。なにこれ本当の話? そんなことはどうでもいい。この3人の農夫を待つ未来にパワーズが込めた想いとは……。しかし懲りもせずまた戦争が始ま(って)る。
《その麻痺状態は、いまの時代に支配的な要素であるように思えた。それはいまや、避けることのできないひとつの条件なのだ。「私は薬漬けだ」と人が言うとしても、まさに薬漬けになっているがゆえに、本人はその状態を除去したいとは思わない。彼の世代はモルヒネを打たれた患者のように、感覚がなくなるというのがどういうことか、自覚的には感じられなくても、すでに知っているのだ。彼らにとって、記憶にカタルシスは伴わず、歴史には認識が伴わない》