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ホテル・ニューハンプシャー 上巻 みんなのレビュー
- ジョン・アーヴィング (著), 中野 圭二 (訳)
- 税込価格:825円(7pt)
- 出版社:新潮社
- 発売日:1989/10/30
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文庫
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紙の本
悲しい出来事、なのに明るい
2002/07/08 21:50
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ポーリィーン - この投稿者のレビュー一覧を見る
熊のいる海辺のホテルでロマンチックに出会った両親と、それぞれに問題を抱えるその子供たち、ホモの長男、生意気な長女、長女を慕う次男、小人症の次女、難聴の末っ子。その上に次々と起こる暗い事件…なのに不思議と明るく妙に爽やかな読後感を残す魅惑の長編作品となっている。トニー・リチャードソン監督が映画化し、映画を先に見てその奇妙な前向きさや明るさといった魅力にとりつかれたのだが、映画と違わず原作も素晴らしく面白かった。
紙の本
開いた窓の前で立ち止まるな
2015/11/26 20:54
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:つよし - この投稿者のレビュー一覧を見る
家族でホテルを経営するという夢にとりつかれた家族の年代記。家族の一人一人が残酷なまでに運命に翻弄され、よわくて純粋なものほどあっけなく死ぬ。とはいえ湿っぽさはまるでなく、むしろユーモアと喧騒に満ちている。このあたりの語り口が、レンタルビデオ店で「ヒューマンドラマ」の棚に置かれたアメリカ映画を見ているような感覚で、あまり好みではない。だが、ストーリーテーリングの技術はさすがだ。緩急の付け方、ユーモアとペーソスのまぶしかたも一流。よく言われることだが、熊の着ぐるみを着たスージーは村上春樹の羊男を連想させるし、リフレインする言葉「悲しみは漂う(sorrow floats)」は、ヴォネガットの小説「スローターハウス5」での「そういうものだ(so it goes)」と同じ効果を与えている。印象的なのは、最後の頁。「しかしこれがぼくたちのすることである。夢を見続け、そしてぼくたちの夢はそれをありありと想像できるのと同じくらい鮮やかに目の前から消え去る。(中略)それが起こることであるから、僕たちには利口な、よい熊が必要なのだ(中略)開いた窓の前で立ち止まってはいけないのだ」。作中で引用されているフィッツジェラルドの名作「グレートギャツビー」のラストにある「緑の灯火」=見果てぬ夢が、重要なモチーフになっている。それにしても、自分にとっての「熊」はなんだろう。再読することで魅力が増す小説かもしれない。
紙の本
紛れもなくこの物語は現代の神話なのだ
2001/02/11 16:05
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
昔、某大学院で組織論を勉強していた頃のこと、教授やゼミの仲間と酒を酌み交わしながら談論する機会が何度かあった。教授は東京と宝塚に住居を持ち、東京へ行くたびに新着の洋画を観ては私達に感想を聞かせてくれ、それを肴に話が弾むことがたびたびあった。
なかでも「ホテル・ニューハンプシャー」を話題にした時は面白かった。確か教授が、一つ一つを取り上げれば荒唐無稽な出来事が唐突に次から次へと生起し、アメリカの片田舎からウィーンへそしてニューヨークへと舞台は転変する、まるで分裂病者の妄想のように物語は進行するのだが、観終わると奇妙に一貫している不思議な映画だった、というような話をしてくれた。私達は教授の評言に刺激を受けて、雑談はやがて「リゾーム状組織」の可能性といったところへ落ち着いていった。
その後実際に映画を観て、あ、これは現代の神話を造形しようと目論まれた物語なのだと思った。家族をめぐる神話、いや神話とはそもそも家族の物語なのだから神話そのものを造形(再現ではない)することが、アーヴィングの意図だったのだと。
もっとも今思い返すと私にとって映画「ホテル・ニューハンプシャー」は、フラニー役のジョディ・フォスターの強烈な存在感に尽きるものだった。今回原作を読んでいて、これは紛れもなくジョディの(正確に言えばもちろんジョディ・フォスターによって演じられたフラニーの)イメージそのままだと、一種のファン心理からわくわくしながら読みふけった。そういうわけで私にとっての『ホテル・ニューハンプシャー』は、ほとんどフラニーの物語となった(フラニーをめぐる愛の物語。語り手たる「私」つまりフラニーの弟にして近親婚の相手方となったジョンは、神話の語り部である。アーヴィングがこの作品は現代の「おとぎ話」だと言ったのは、そういうわけなのだ)。
ところで、神なき時代における神話とはスキャンダルに他ならない。──登場するのは多かれ少なかれフリークめいた人物ばかりだし、出来事はことごとくスキャンダラスだ。とは言えフリークの証であるスティグマは聖痕と記すのは気が引けるほど卑俗で、時として滑稽なしろものである。スキャンダルはアーヴィング独特の語り口(些末な細部の不当な拡大や何でもない語彙の意味あり気な反復、事件の予告と回顧談の挿入による過剰なまでの物語性の付与など)によって、常に象徴的な高みから引きずり降ろされる。
アーヴィングが造形しようとする神話は、私達が知っているそれから限りなくずれていく。だが、紛れもなくこの物語は現代の神話なのだ。ホテルとは家族が傷つけ合いながらも夢を育むべき神殿なのだし、狂暴性と滑稽なまでの優しさを併せ持つ半人半熊のスージーは、死とレイプからの救済を司る司祭なのである。