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北の砂漠から襲ってくるはずのタタール人に備え、警備をつづける砦の兵士たちを描いた寓話。主人公ドローゴの小説的現実と私たちの社会的現実は、どちらがより現実的で、どちらがファンタジックなものなのだろうか。
2009/11/18 22:46
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投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
2007年に光文社古典新訳文庫で短篇集『神を見た犬』、2008年に福音館文庫で作家自身による挿絵入り童話『シチリアを征服したクマ王国の物語』が出て、新しい世代や私のように遅れてきた読者にとっての「発見」となった幻想文学作家ディーノ・ブッツァーティ。その長篇で、今、唯一流通している1冊である。
初版が1992年だが、私が手に入れたのは2008年の第3刷。大切に本を売り続けていることと、単行本なのに今どき定価が1600円。松籟社は偉い出版社だと思った。後付には、最近刊行された同社の「東欧の想像力」シリーズやディートリヒ映画「嘆きの天使」の原作であるハインリヒ・マン『ウンラート教授』、「シュティフター・コレクション」などの案内も刷られている。装丁が地味で、「編集担当者が自分でやっているんですかー」と突っ込みたくなるが、京都にあって、渋めの海外文学を地道に出してくれている有難い出版社である。
ブッツァーティという作家には、小説好きをきちんと楽しませる力がある。余談つづきになるが、最近買った『グランド・ブルテーシュ奇譚』の訳者である仏文学者の宮下志朗氏が『神を見た犬』が出たから古典新訳文庫への愛着が増して、バルザックの訳が進んだのだと書いていた。
さて、ようやっと『タタール人の砂漠』の話である。どうにか一言でまとめてしまえば、これは「待つ」という、誰の人生を通しても大きな部分を占める行為への「いとおしさ」と「当てこすり」を書いた小説だということになろうか。たった今、行為と書いてはみたが、「待つ」というのは必ずしも積極的な取り組みや働きかけではなく、ただ漫然として時をやり過ごしているうちに結果として「そうしていた」ことになる意味も含まれる。
改めて考えてみれば、人間行為の上では非常に不思議なものであり、ベケット『ゴドーを待ちながら』、グラック『シルトの岸辺』、クッツェー『夷狄を待ちながら』など、来るか来ないのかが判然としないものを待つことの不思議を書いた文学作品を集めれば、「『待つ』文学の系譜」として小論でも書けそうなものである。そもそも文学作品のほとんどが「死を待つまでの間を、どう生きてやり過ごすのか」を書くためのものなのだと言えなくもない。
『タタール人の砂漠』は、北の砂漠から襲ってくるはずのタタール人を、辺境のバスティアーニ砦で撃退するべく警備を固めて待つ兵士たちの物語である。
主人公は、この砦が最初の任地となったドローゴ中尉で、士官学校を出たての彼は将校の軍服を身につけ、軍人としてのキャリアのスタートに晴れがましく心弾ませながら、配属先へ向かう。ところが、目指す砦はなかなか目の前に姿を現さず、ようやく出会った大尉に聞けば、彼もそこに勤務しているが、砦は無用の国境線上にあり、過去に一度もその用を成したことがないというのである。
タタール人の襲来は伝説上の話であるらしいので、戦時としての緊張感を欠きつつも、軍人としての訓練を受けた兵士たちは、定められた規則にのっとって勤務をつづけ、非番には少しばかりの楽しみを持ち、日々を送って行く。数ヶ月の後には転属を望んでいたドローゴも、いつしかその生活に慣れ、うっかりとその場所で年を重ねて行くことになる。
そのようにしてドローゴの半生を描いて行くことになる小説には、いくつかの緊張を伴う場面が用意される。迷い込んできた動物をめぐって生じた事件、地平線に見え始めた武装した一団と思しき列が発端となった事件、そして、どうやら工事をしているらしい北の果てに見え始めた明かりをめぐる事件。それぞれが思いがけない方向へと発展して行くのである。
砦に起こるそういった事件の合い間にも、ドローゴが帰省したり、砦に来る者・去る者の出入りがあったりで、「待つ」日々にはいくつもの変化が訪れる。
「兵士としての務め」「辺境の砦という場所」は一般人の生活とは異なり、特殊状況を描いた寓話ではあるのだが、1つのシステムを内在させる砦というのは、現代の企業を始めとする様々な組織や、輪郭が漠とした社会というものに自然に置き換えて読める。そのようにして、砦と自分の生活空間を重ね合わせた時、読者は、「では、自分が待っているものは何なのか。自分にとってのタタール人は何か」と問いかけたくなる。万人にとっての普遍性が感じられるからこそ、寓話性が特徴として挙げられるのである。
現実社会にリンクさせすぎてしまえば、物語を読む楽しさは少し減ってしまうのかもしれないが、タタール人の襲来という仮想は、伝説でありながら全くゼロの可能性というわけでもない。そう考えて例えば、それが環境破壊のもたらす終焉であったり、医療体制や年金制度の破綻であったり、自由主義経済の崩壊であったりするなら、私たちはそうした危機にうっすらとした怖れを抱きつつも、「まだ大丈夫だろう。少なくとも自分の目が黒いうちぐらいはもつんじゃないか」というように、何となくの安心感の下に、決定的な局面は、遠い世のファンタジーとして捉えているのである。
ドローゴの小説的現実と私たちの社会的現実は、果たしてどちらがより現実的で、どちらがファンタジックなものなのであろうか。
――だが、そのうちにこんな思いが浮かんできた、もしすべてが錯誤だとしたら? この勇気も一時の陶酔だとしたら? 単にすばらしい夕暮れや、かぐわしい大気のせいや、肉体的な苦痛が途絶えたせいや、階下から聞こえる歌のせいに過ぎないとしたら? そして、数分後、あるいは一時間後には、またもとの打ちのめされた、弱いドローゴにもどらねばならないとしたら?(P252)
このような記述を読みながら、本を読み終わる数分後、ファンタジーを離れ、自分もまたもとの自分に戻ることに気づかされる。
結末は決して暗いものではない。もとの自分を否定するものではないことに、ブッツァーティなりの愛もあるのだ。「いとおしさ」と「当てこすり」の両極を見せながら、わずかに「いとおしさ」で終わらせる作家の姿勢に好感が抱ける。
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待つこと
2019/03/07 01:25
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投稿者:H2A - この投稿者のレビュー一覧を見る
辺境のバスティアーニ砦に赴任した若き士官ドローゴ。短期間の滞在と思っていたのが、いつのまにか月日が経ち人生の大半をこの砦で費やすことになる。いつか来るタタール人の襲来を夢に見るうちにドローゴは年老い、襲来が現実になる時に物語の幕が引かれる。思わせぶりな寓意のように教訓を強要されるまでもないが、幻想的なこの作品世界を経験すると、虚しさにそのまま切実に身をつまされる思いがした。久々に感動させられた文句なく良い小説。カフカの「城」も「待つ」小説だが、自分はこちらの方が断然良いと思う。
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不条理な砦
2018/05/29 05:27
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
いつまでたっても攻めてくることのない、得体の知れない外敵の不気味さが心に残りました。妄想の世界に落ちていく中尉には胸が痛みました。
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「確信は次第に薄れていった。人間はひとりっきりで、誰とも話さずにいる時には、あるひとつのことを信じつづけるのはむつかしいものだ。その時、ドローゴは、人間というものは、いかに愛し合っていても、たがいに離ればなれの存在なのだということに気づいた。」
♪たららーたららーらら、たーらららー
どこかしら中央アジアを旅するような、厳しさと長閑さの入り混じった音楽を思い出しつつも(韃靼人の踊り)、ここに描かれる旅は底知れぬ恐怖を呼び起こす。
旅の目的地に確信を持てぬまま旅をする主人公を描くことで始まるブッツァーティの「タタール人の砂漠」は、どこかしら彼の「石の幻影」を思い起こさせる。しかし、旅の終着点に謎の根源がある事を知りつつ旅をする「石の幻影」の主人公は、そこに秘せられた目的があることを知っているし、物語としても、その謎を解くという目的が読者の中で自然に芽生え、ある意味で安心できる。一方「タタール人の砂漠」の主人公にとって旅は終着点に辿り着くまでの過程に過ぎず、そしてまた終着点に何があるかは問題ではない。そこは自分の人生にとっての終着点ではなく、一つの通過点であると信じている。しかし読者はその旅の終わりに、タタール人の砂漠、と呼ばれる場所があることを知ってしまい、それがこの本のタイトルであることから、大いに不安になる。
主人公は目的地に着く。そこで発見するのは当初の意味を失った建物である。にも係わらず大勢の人間が捉われ、目的が無い筈などない、という逆説的な狂信に取り付かれているのを発見する。そして、そこが通過点ではなく、出口のない場所になり得ることに徐々に気付いていくが、気付いたときには遅すぎる。その絡め取られていく過程が実に恐ろしい。
例えば、こんな風に物語りは進む。一つの出来事があり、憶測と妄信が錯綜する。しかし依然として何も狂信を裏付けることは起こらない。そして一足飛びに時が流れる。また繰り返される憶測。だか実は着実に状況は変化しつづけている。それが余りに小さな変化の積み重ねであるがゆえに、人々はその変化がもたらすであろう結果に思いを致すことができない。いや気付きつつもそれを否定するのだ。
あるいはここに今の環境問題に対して人類が取り続けている態度を重ねてみて恐ろしい気持ちになったりもするのだが、実のところ自分が感じる恐怖はエピソードとエピソードの間で瞬間に流れ去る時の大きさに対してなのである。それは40代の後半を迎えている自分自身が日頃実感する恐怖と奇妙に呼応する時間の重さであるからだ。自分自身もまたどこかへ進んでいるようでいて、同じ場所をぐるぐると回っているだけなんじゃないのか、という思いがふとよぎる。ここが終着点ではなく、通過点であると、一体誰が言い切れるのか。蟻地獄に絡め取られるような不安の渦が押し寄せる。
そんな自分の不安な心を救ってくれるのは傍に居るものの存在であると思うのだが、そんな心を見透かしたようにブッツァーティは孤独というものの本質に迫る。
結局のところ、人生は目的も目的地もない長い長い旅なのか?
ひたひたとブッツァーティの語る言葉の恐ろしさに犯されていく、そんな読書。読み終えたとき、何故か、鬼束ちひろの「私とワルツを」の詩の意味を深く考え直したくなる、そんな小説である。
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読み始めてすぐに、ああ、これは人生そのものについて描かれた物語なのだ、と思う。
これまで生きてきた年数より、これから生きる年数の方が確実に短いことがわかっている身にとっては、胸をえぐられるように感じられる作品である。
きっと、読者の誰もが主人公ドローゴの人生に自分の人生を重ね合わせずにはいられなくなるのではなかろうか。
変化を待ち望みながらも、変化を恐れ・・・・
やがて来るべき栄光の時を待って、待って、待ち続ける。
打ち捨てられたかのような城砦が時折見せる神秘的な佇まいに、未来を約束されたかのように幻惑され、待つ自分を肯定する。
ここまで待ったのだからと、さらに待つ。
そうこうするうちに、他の生き方をするには手遅れとなり・・・・・
待つことに費やされ、何事をも成し得なかった人生には何の意味もないのだろうか。
いや、まだ最期の闘いが残っている。
進軍ラッパも、援軍も、約束された栄光も、結果を見届ける人もいない闘いが。
ここにこそ、持てる勇気のすべてをと、ドローゴは高揚する。
それもまた、幻影かもしれない、とブッツァーティは囁くのだけれど。
最後のシーンでのドローゴのほほえみに救われる思いがする。
Il Deserto dei Tartari by Dino Buzzati
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[ 内容 ]
「勇気ある作家」ブッツァーティの代表作。
「人生」という名の主人公が30年にわたる辺境でのドローゴの生活にいなにひとつ事件らしいものを起こさない……。
20世紀幻想文学の古典。
[ 目次 ]
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
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☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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味気ない士官学校の日々を終え、将校に任官したドローゴは、最初の任地、バスティアーニ砦に赴くことになった。
誇らしい気分を胸に抱いて、颯爽と馬に跨り、若いドローゴは故郷をあとにする。
バスティアーニ砦とは、その向こうに広がる北の砂漠からタタール人が責めて来ないかという監視と責めてきた場合の最初の攻防戦を交える場所である。
しかし、タタール人が襲撃してくることなどなく、漠々とした景色を砦から眺める警備軍務のみをこなす平和な毎日がただ過ぎてゆく。
ドローゴは、休暇に故郷に幾度か戻るが、町は変わり、母も亡くなり、友も新しい家族を増やし変わっていく。
着任早々、任地転務を申し出たドローゴだったが、短期間の軍務で砦を去っていく軍人たちを多数見送り、いつしかこの辺境の砦を我が棲家のように思うようになるのだった。
いつか、そう、いつか、タタール人が北から攻めてきた時には、ドローゴは軍旗をはためかせ、一番に敵陣に斬りこむ覚悟はできている。
タタール人の襲来は幻想なのか。
ドローゴは、三十余年にわたる砦勤務を続けていた。
何度も何度も目を凝らした砂漠の彼方にタタール人が見えたような気がしたが、それは間違いで、自分の大切な人生の時、ただ、待つ という時間が虚しく過ぎていく。
しかし、ついに、そのときがきた。タタール軍勢が、北から攻め入ってきたのだ。
だが、今や年老いたドローゴは、肝臓の病に冒され、待ちに待った戦闘の時に、無用の将軍として砦を去り、旅籠で死を迎える。
本書は、ディーノ・ブッツァーティの代表作とされている作品。
いつかくるかもしれない襲来を一生をかけて、待ち続けるドローゴの期待と焦燥が、作品から湧き出すように溢れ、結末に極まる崇高な孤独感に読者はなすすべを失う。
軍人として、男として、戦で華々しく命を散らす。それが軍務に就いた人間の本望なのかもしれないが、
ドローゴのような軍人が砂漠のど真ん中の辺境の砦で、生きた人生をわたしたちは考えたことがあったのだろうか。
本書の自国イタリアでの初版は1940年。イタリアは戦火に突入したこともあり、あまり脚光を浴びることはなかったようだ。
しかし、フランスやドイツなどでブッツァーティ作品は、高い評価を得て、今では本国イタリアでも20世紀を代表する作家と見なされている。
『タタール人の砂漠』は、映画化もされているらしいが、私は見る機会に恵まれていない。
ブッツァーティの描く不条理は、ひとりの人間が貫く哲学とそれに覆い被さる孤独と虚しさを、迎合させることなのかもしれません。
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無常にも連連と粛粛と過ぎて行く時間。
希望と失望の狭間で人生を送る青年将校の生涯を描いた幻想作品。
主人公ジョヴァンニ・ドローゴは士官学校を出た後に
ある砦への赴任を命ぜられる。
期待と希望とを胸に秘めて出向いたものの、
そこは、両側を谷間で挟まれ、前方には荒涼とした砂漠のみが展開し、
町からは程遠く、戦では無用な、ある国境の要塞だった。
失望から転任を企てるが空しくも報われず、
その後、淡く微かな戦へのときめきと昇進への期待を抱きながら
砦での生活を淡々と行っていく。
そしてこれは我々の人生を描いた物語です。
人生の主人公である自分は、
何かしらの良い役回りを授かれることを、
僅かばかりの名声や名誉に与れることを、
未来が今日より進歩してることを、
豊かな人生が待っていることを期待し、
しかし、その期待と現実とのギャップに失望し、苦悩し、
そして意欲と妥協との狭間を行きつ戻りつして生きている。
その間に明日はあっという間に後ろに過ぎ去っていく。
本著は、劇的な話ではありません。
しかし、このような静穏な物語だからこそ、
人生の儚さや侘しさを表現し得たのだと思います。
とても良い物語です。
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まぐれ/ブラックスワン の著者、経済学者にして読書家ナシーム・ニコラス・タレブからのリファレンス。1940年のイタリア文学 本日本語版は1992年の初版。
辺境の砦に配属されたジョバンニ・ドローゴ中尉という主人公の目を通じて、組織の文化に染まり、いつか個性や独自性を埋没させていくという甘美な堕落が非常に上手く描かれている。思わず、音の無い窒息に鳥肌すら立つこともあった。
そういう押し付けがましい訳でもないが、ただただ残酷な運命に翻弄される主人公から、目が離せないのは、誰のなかにも居るドローゴとの葛藤だったのではないかと思います。テーマも内容も凄いマスターピースといえるでしょう。
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歴史的に戦闘があったことのない国境の砦の物語。語り継がれる”タタール人の襲撃”に備えて、無為に過ごす兵隊。空しく年齢を重ねることに恐怖を抱き、”タタール人の襲撃”を夢見るように待ち続ける。しかし国境の砂漠には何も起きない。ただひたすら待つだけのこの不条理劇が、それこそ条理だと説き伏せる力に、舌を巻いた。
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待つことーーー唯一私達に示されるのは「待つこと」だけだ。
時代背景も、どこにあるのかもはっきりと分からない砦を舞台にドローゴは待ち続ける。
目前に延々と広がる砂漠の向こうにはタタール人がいる。タタール人の襲来に備えて砦は存在する。
ただそれは何百年も昔の話。本当にタタール人が存在するのかどうか、誰も知らない。
それでも待っている。
人間は傲慢で、自分に終わりがくるなんて本気で思っていない。自分には明るい未来が待っていて、これからだと信じることで生きられる。
老いや死などまだまだ関係ない、先は長いと。
待つことで結局人生を棒に振ってしまうなんて考えもせずに。
特段のドラマも起こらない、ただただ待っているだけの話なのにすごく胸を打たれた。
ラストは悲痛で、美しい。
具体的な地名など一切ないのに、強い日差しに焼けた黄色っぽい砦がありありと目に浮かぶ。
この名著を読む機会をくれた本から引用を。
「全人類はただ存在することによって、延々と待ちぼうけを食らわせる主人公の役を演じている。」
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長い間、小競り合いと呼べるほどの戦闘すらなかった隣国と境を接する辺境の砦に新任の将校が赴任する。時を同じくし、今まで微妙な均衡の上に成り立っていた両国間の戦争と平和のバランスにかすかな亀裂が生じ、それがやがて運命的な悲劇を招き寄せることになる。ほぼ同じ頃に書かれた『タタール人の砂漠』は、ジュリアン・グラックの『シルトの岸辺』に酷似する。
任地に先輩将校がいて、次第に気心が通じあう仲になってゆく点もよく似ている。『シルトの岸辺』が海、『タタール人の砂漠』が山を舞台にしている点が異なるが、事実上の戦闘行為というもののない軍事拠点で平穏な日々を費やす軍人たちの心境というものにはかなりの共通点が見いだせる。軍人として最も敵に近い位置にいながら、戦えない。それは大いなるディレンマといえる。
話を『タタール人の砂漠』に戻そう。舞台はどこともはっきりしない荒涼とした山岳地帯。大砲はあるが移動手段は馬や馬車、無線通信もない時代の話だ。主人公はジョヴァンニ・ドローゴという中尉。士官学校を出て初めての赴任先がバスティアーニ砦。北の王国に面した砦として、かつてそこに行くことは軍人としての名誉だったこともあるが、今では重要視されておらず、最近では昇進を望む若い将校の腰掛けにされている始末だ。しかし、中には長年月を砦で過ごす者もいて、砦に向かうドローゴが最初に出会ったオルティス大尉もその一人だった。
若い軍人の常として、戦功をあげ、昇進を夢見るドローゴは、砦に大した価値観を持たない大尉の話を聞くうちに、急速に砦での勤務に嫌気が差す。すぐにでも帰任しようと上官に願い出るもののうまく丸め込まれ、通例の四年間勤務を続けることになる。同じ年ごろの将校仲間も多く、馬を飛ばして近くの町で羽を伸ばす楽しみも見つけると、勤務自体は楽なものなので、砦の暮らしにも馴れ、悪いところでもないような気がしてくる。何しろ、期限が切られているので、それまでの我慢なのだ。
しかし、十年、二十年と居続ける者は、砦に何を期待しているのだろうか。両側を深い絶壁に遮られ、南には深い谷、北には絶壁と絶壁の間に三角形の土地が見える。砂礫が広がるばかりのそこが「タタール人の砂漠」といわれるところ。かつてタタール人が攻め入って来たという伝説が残る。その手前に国境線が横たわっており、バスティアーニ砦に勤務するということは、真っ先に敵と戦う栄誉を担っていることを意味する。
上は司令官から、下は仕立屋として働く兵曹長まで、いつかきっとタタール人の砂漠に敵が現れることを今か今かと待ち続けて今に至ったのだ。居続ける理由の一つに男所帯の気楽さがある。砦の料理は美味で、視察と称してわざわざ食べに来る将校もいるほど。新しい服が欲しければ腕のいい仕立て職人もいる。生活のこまごました世話は気の利く従卒がやってくれる。山岳地帯の自然は厳しいものの雪解けの季節のうれしさは格別である。長くいるうちに、不都合なことににも馴れ、何もない砦の暮らしに居心地の良ささえ感じるようになる。
いわば、これが罠なのだ。いつかやってくる敵の襲来を待つという大義名分を自分でも信じて���るふりをして、砦という閉鎖的な社会に閉じこもるうちに、一般的な社会との接点を失ってしまう。砦での暮らしは竜宮城にいるようなもの。帰ってみれば今浦島。四年が経過し、一時帰郷したドローゴは、自分と無縁の世界に住む友人に親しみを覚えられず、婚約者のマリアとの間にも壁を感じる。最愛の母さえもかつてのように自分を愛していないことを知り、砦に帰ることを選ぶ。
軍隊という世界は普通の場所ではない。人と人の通常の約束事の上に規律があり、それが支配する。そのために死ななくてもいい人間が死ぬこともある。また、様々な価値観や気質を持つ男たちが閉鎖的な空間に起居するため、相容れぬ気質を持つ者の間には確執が起きる。ふだんは何とかやり過ごしていても、一朝ことあるときにはそれが火種となり、命のやり取りさえ起きる。気楽そうに見える砦の生活にものっぴきならない事情のあることも作者はしっかり書き添えている。
要領のいい将校は四年で砦を去って下界に戻り、妻や子のある普通の暮らしを営む。それでは、砦の生活を選んだ者に何が残されているかといえば、敵の来襲以外何があろうか。目を皿のようにしてタタール人の砂漠を見張る兵が、黒いものの動くのを見つける。ざわめきたつ砦。それが敵兵の隊列であることが分かり、いよいよその時が来たと砦中が沸き立っている最中、竜騎兵が一通の書類を携えてやってくる。隣国の兵は、国境線の確定のためにやってくる武器を携行しない測量隊に過ぎないことが判明する。
期待と遅延、ようやく訪れたと思えた好機は一瞬にして潰える。これが狼が来たと呼ばわる少年の例となり、タタール人の砂漠に人影を見たり、夜半に灯りがちらつくのを見たと訴える将校に対し、軍は不必要に不安を煽るものとして、警告を与え、望遠鏡の使用を禁じる愚挙に出る。敵が道を作っているのだという同僚の意見を信じていたドローゴは、それ以降、確認する手段を失ってしまう。
博打で負け続けた客が起死回生の逆転劇を待つように砦に居続ける者たちの前に、今度こそ本当に敵が責めてくるという事態が勃発する。しかし、そのとき年老いたドローゴは肝臓の病でベッドから起きることもままならない。何というアイロニー。しかし、突然やってきたわけではない。事態がこのように進むことを話者は小出しに知らせてくれている。伏線を張り、幻想的な夢で仄めかしている。それを読者は知っているが、主人公は知らない。
第二次世界大戦前に書かれたこの小説が発表されたのは敗戦後のイタリア。当時はネオ・リアリスモが主流で、日の目を見なかったという。しかし、今読んでも心惹かれるものがある。いいものは時を選ばない。人は何かを待ちわび、待ち続け、報いられることもなく一生を終える。その事実に何の変りがあることか。俗世間での栄達や気散じが大事なら、そう生きるのもいいだろう。しかし、何かできるかもしれないという期待に一生を捧げる人生を選んだとして、仮に報いられることがなかろうと、誰がそれを笑えるだろうか。いつまでも読み継がれる物語だろう。
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『いつか訪れるかもしれない夢を待ち続け…』
辺境の砦で、いつ訪れるかわからないタタール人の来襲を待ち続けるドローゴ。様々な選択肢がある中で、砦に留まることを選択する。ドローゴの心の機微をじっくり味わいながら読みたい一冊!!