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紙の本
どうにもならない「哲学する」渇望
2023/04/26 07:54
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:マーブル - この投稿者のレビュー一覧を見る
ウィトゲンシュタインは手強い。そして、彼を理解しようとする他人を簡単には受け入れてくれない。「かくあらねばならない」という理想を追い求めた哲学。その思想の出自を探すことに意味は大してないのかもしれないが、ウィトゲンシュタインの孤独、罪悪感から生まれてきたように思える。どうにもならない「哲学する」渇望。そのままならない欲求を持って哲学の道を歩む者は、はたして幸福なのだろうか。現実社会を「まともに」「上手に」「しあわせに」生きていくことができる人間は、そんな哲学への渇望に苛まれることなどないのではないか。
紙の本
今ここにいるこの私
2014/02/16 18:21
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ぽんぽん - この投稿者のレビュー一覧を見る
読んで思ったこと。
独我論
私(一人称代名詞)を含む言説の発話行為は、その行為を行っている時点に於いて、倫理・認識・存在に関して、決定的に重要。
比較。
過去。発話したこと、言われたこと。記述したこと、書かれたもの。
過去の時点では、記述の優位
現在。発話している、話していること。記述している、書いていること。
現在の時点では、発話の優位
発話行為に於いて、私という言葉を騙ることはできない。
目の前の人が「今、私は発話しています」と言った場合、疑うことはできない。疑う場合、「今ではないのではないか?」「私ではないのではないか?」「発話していないのではないか?」このような疑問が妥当ならば、それは人とはみなされない。
問い。
或る人物が30分前に「リトマス紙は、酸性で赤くなる」と言い、その後「リトマス紙は、酸性で青くなる」と言い直した。
後者の発話内容は誤りだか、この変化を知ることに、意義があるか。その一般的意義といったものは、あるか。
裁判はなぜ公開することが、求められるのか?
生中継、生放送、ライブといったものに共通する価値とは?
時代的変化。神話的な記述の優位→政治的な発話の優位
感覚Eを書き忘れたり、書くのを躊躇したりすることはないのだろうか。
或いは、書き忘れたかもしれないとか、ひょっとしたら感覚Eだったかもしれない、と言うことはできるのか。できる?できない?それは、なぜ?
もっと言えば、他人があなたは感覚Eについて書き忘れたり、書くのを躊躇したことはなかったですか、本当にないですか、と聞いたり、当人がそれに答えたりすることができるだろうか。
紙の本
『形而上学者ウィトゲンシュタイン』vs.『ウィトゲンシュタイン入門』
2002/03/30 21:04
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
細川亮一氏の『形而上学者ウィトゲンシュタイン』を読みながら、これはひょっとすると永井氏の『入門』を批判しているのではないかと思われる箇所がいくつかあった。
細川氏は、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「Die Logik ist transzendental」「Die Ethik ist transzendental」と書き記すとき、そこに出てくる「トランスツェンデンタール」(超越論的)は「超越的」や「形而上学的」と同義であって、すなわち『論考』は論理(本質・必然性にかかわる「である」をめぐる)と倫理(実在・偶然性にかかわる「がある」をめぐる)という二つの「トランスツェンデンタール」なものに関する形而上学の書であると書いていた。そして『論考』に出てくる独我論は、というより反独我論は「論理」の側に(世界の条件=本質に)属していると。
一方、永井氏によると「トランスツェンデンタール」には「先験的」(経験的な事実に先立ち、世界と言語の形式を示すもの:「語りえないもの1」)と「超越論的」(世界を超越し世界の外にあるもの:「語りえないもの2」)の二つの訳語があるのだが、ウィトゲンシュタインにとって「論理は先験的である」が「倫理は超越論的である」。そして『論考』の独我論はこの両者を、つまり論理と倫理という二種類の語りえぬものをつなぐ役割を担わされている。
《第一の先験的な語りえぬものと、第二の超越的な語りえぬものとは、…[「哲学的自我」とか「形而上学的主体」とかいわれているもの]…の存在を媒介にして、いわば神秘的に結合されているのである。そのことがこの「哲学的自我」を超越論的(先験的)主観[素材としての世界に形式=形相=意味を賦与することによって世界を意味的に構成する主観]と混同させることになった。
この点に関連して、その後の思想展開を、あらかじめ少々図式的に要約しておこう。前期、中期、後期を通して、ウィトゲンシュタインは、倫理、宗教、形而上学、独我論、といった超越的な語りえぬものについての直観をほとんど変えなかった。どのように語りえないか、その位置づけ方に変化があっただけである。しかし、世界の形式である先験的な語りえぬものについての見解は、前期、中期、後期を通じて、大きく変化・進展した。ウィトゲンシュタイン哲学の展開過程とは、実のところは、もっぱらこの部分の進展なのである。「論理」「文法」「生(活)」にそれぞれ「形式」という語を付与したもの──論理形式、文法形式、生活形式──が、それぞれの時期の語りえぬものを示している。》(27-28頁)
『論考』における独我論(あるいは反独我論)をどう位置づけるかが『形而上学者ウィトゲンシュタイン』と『ウィトゲンシュタイン入門』の二つの世界の相貌の違いを規定している。少なくとも『論考』の読解に関しては、アリストテレスやカントやハイデガーとの接続を意識した細川氏の著書の方がコクがあって斬新で刺激的だったのだが、永井氏の独我論(そして他者)をめぐる議論にはやはり棄てがたい魅力がある。
紙の本
ウィトゲンシュタイン、そして哲学の入門書
2001/10/28 13:00
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:某亜 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「ウィトゲンシュタインって、名前は聞いたことあるけどよく知らない」そんな人にお勧めするのがこの本です。ウィトゲンシュタインの主張を通じて「哲学とは何か」をわかりやすく解説しています。
最初からウィトゲンシュタインの本を読むよりも、こちらを先に読む方がいいでしょう。でないと独断で解釈してしまったり、理解できなくなって読むのが億劫になってしまう危険性があるからです。原文は統括的かつ抽象的に書かれているため、初心者には全く理解不能であると考えられます。しかしこの著者はふんだんに例示を交えて帰納的に理解させてくれます。
初心者だけでなく、ウィトゲンシュタインを読んだことのある人も一読の価値があります。また新しい発見があるかもしれません。