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紙の本
荷風とコルビュジェ、あるいは中世主義の陰翳とモダニズムの光
2001/02/17 00:24
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、永井荷風とコルビュジェという──ともに今世紀初頭のパリに遭遇し、以来、自らの芸術の主軸に都市との関係を据えたことを唯一の交点とする以外は──まったく正反対の思想と経歴をもつ二人の芸術家の足跡を対比させている。
荷風は、随筆『日和下駄』に示されているように、江戸時代以来の風景のうちに具体的な理想都市空間を見い出していったのだが、東氏によれば、その原体験は裏路地や墓地といったパリの「暗色世界」にあった。
《狭い路地だが、人々の生活の匂いがふんぷんとし、古くからの記憶がこめられている街角。人々が生まれ、成長し、泣き、喜び、そしてひっそりと死んでいく場所。さまざまの痕跡と景観が、想像力をかきたて、物語を育んでいく小路。オスマンの改造の際に取り壊しを免れた、そういう「暗色世界」のパリこそが、住民たちにとって住みやすく、離れがたいものにしている、この都市の本質であり、文明の本質であり、文明の圧力や技術の発展を越えて、なおパリを生き続けさせていくものだ、と荷風は見て取ったのである。》
そもそもパリは、今世紀初頭に城壁が撤去されるまで中性都市の性格を保持していた。中世都市とは、東氏によれば、狭い道路をもち「一つの区域や建物にブルジョワジーから労働者まで雑多な人間が同居し、働く場と生活する場が混在した、コンパクトで高密度な都市空間」のことなのだが、それは荷風の理想都市そのものだったのである。
これに対してコルビュジェが見たパリは、オスマンによって新設されたブールヴァール(大通り)であり、マチスやピカソによって新しい芸術の潮流が胎動していた活気あふれる都市であった。それは、「あらゆる人と情報が集中し、展開する世界都市」であり「古典と前衛の芸術が共存し、理性的な精神と感性的な情緒の交差する都」だったのである。
このようなパリ体験の質の違いを反映して、コルビュジェの理想都市は、高層建築や高速道路に象徴されるように機械化・工業化される社会の未来を楽観視したもので、荷風のそれとはまったく対照的なものだった。
しかし、著者によれば、晩年のコルビュジェが手がけた建築作品──ロンシャン礼拝堂、ラ・トゥーレット修道院、未完に終わったヴェネツィアの病院──は、「かつての機能や効率性優先とは異なった、精神的な方向に修正し、より高い次元で完結させようと」したものだった。とりわけラ・トゥーレット修道院は、「人々が自然とともに生き、日々の安らぎと平穏を祈る中世都市の再現」としての集合住宅だったのである。
著者が引用しているインタビューで、かつて「住居は住む機械である」としたコルビュジェが次のように語っている。
《住居とは家族にとっての神殿である。その中にこそ、人間の幸福の大きな部分があると私は信じている。なぜ私がそれ程人間の幸福にこだわるのかは分からないが、人間の痛みを和らげる努力をすること、生きる喜びをもたらすことを私は愛している。》
こうしてコルビュジェは大きな軌跡を描いた後で、荷風と同じ場所に立つこととなった。しかしそれは決してコルビュジェの挫折でも変身でもない。あるいは若きコルビュジェが師事したレプラトニエが、スイスで展開しようとしていたアーツ・アンド・クラフツ運動──「大量生産の工業技術が進行する中で、もう一度中世以来の職人芸を見直し、自然の世界へと回帰することによって、芸術を復権させようという運動」──への復帰でもないだろう。それはあくまでも、機能主義、合理主義をより高い次元で完結させようとする努力の結晶だったのだ。
荷風・ラスキンとコルビュジェ、あるいは中世主義の陰翳とモダニズムの光。これらは単純な対立関係にあるものではない。造園における「景」と「用」のように、両者は実は不即不離の関係にある。
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