紙の本
予言者としての講演者
2001/02/22 21:28
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ここで取り上げたいのは本書の「後記」だ。そこには、この三章建ての書物が昨年「戦後思想」を主題として三回連続で行われた講演に手を加えたものであること、講演というものの性格上、論理の緻密さと論証の完全さと構成の周到さを欠いているけれども 講演でなければ言わなかったような内容が含まれているし、講演であればこそできた極端な単純化や乱暴な断言にもときには意味があるだろうといったことが書いてある。
柄谷行人著『〈戦前〉の思考』(文藝春秋)の「あとがき」にある次の文章と比較してみてほしい。《もちろん、本書は(加筆したとはいえ)講演録だから、平易であるかわりに一種の単純化をまぬかれてはいない。本当は、もっと緻密に書かなければならないと思う。しかし、たぶん講演という機会がなければ、こういうことを発言しなかっただろう。》
いずれもこの種の書物に似つかわしいごくありふれた物言いであって、これらの素材だけを使って性急な一般化を行うべきでないことは重々承知の上で、あえてその愚をおかすならば、両氏はここで「講演会」という(黙して文章を綴る場合とはまったく異なる独特な)コミュニケーションの場においてこそ語られる思想、遂行される思考の存在に言及しているのだと思う。
ここで、本論で展開されている議論を少しだけ(我流で)借用した思いつきを述べると、講演者とは「予言者」の位置にあるのではないだろうか。
一対多の対面関係にさらされ、空間的にも質的に区切られた「特異点」に身を置く講演者は、日常とは異なる身体的な状態を強いられる。彼は自らの「無意識」を否応もなく露出させつつ、聴衆の身体群が(バターのように)連続しガス状の「精神」を浮遊させる瞬間をキャッチし、たちどころに両者を──つまり自分自身の無意識と群衆のそれとを──ひっくるめて言語化しなければならないのだ。まさに「思想」の場にふさわしい状況だと私は考える。
もう一つ思いつきを書く。いま私はピーター・ゲイの『歴史学と精神分析』を読んでいる。「歴史の無意識」といったテーマについて考えてみたいと思ったからだ。「後になって考えてみるとよく理解できる」という日常ありふれた経験の意味を考えれば歴史の概念について見えてくるものがあるのではないかというのが出発点である。(いってしまうと鼻白むほどあっけない動機。)
フロイトが「子供時代はもうない」といったように、歴史的事実は常に「もうない」ものにほかならない。(ちょっと意味が違うかもしれないけれども。)あるのは「いま」であり「記憶」であり「身体」である。そして、これらがすべて「講演会」というコミュニケ ーションの場には用意されている。
ましてそれが日本の近現代の歴史や「戦後の思想空間」といった事柄をテーマとするものであれば、その場に露出し浮遊するものこそが「歴史の無意識」なのではないか。そして「講演者」とはまさにこの無意識にかたちを与え言語化する役割を引き受けた「予言者」(超越的他者)なのではないか。
なお、私は「座談会」というコミュニケーションの場にも独特な構造があるように思う。多対多がおそらくは円卓を囲んで交す発言の連鎖は、たとえば裁判のように経験的に培われた厳密なルールの遵守によって超越的次元が仮構されるわけではなく、ただだらだらと循環し水平的に円環を描くかその場の雰囲気(対立であれ親和であれ)のなかに拡散してしまうのが本来の姿だろう。そして(これは直観にすぎないが)そのような座談会が一つの経験として成り立つ条件が「外部」だと思う。それは正確には漠然と差し示され比喩的に言及される「外部性」というべきだろう。(いわずもがなかもしれないが、私がここで念頭においているのは「近代の超克」をテーマに開催された座談会のことである。)
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「戦後思想」を主題とした3回分の講演会の内容を加筆修正したもの。
内容は戦後思想がチャート式のようにまとまっているわけではなく、雑多な感じ。
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オウムに始まり、戦前・戦後・戦後後と語っていき、思想の流れを読み解く本書。決して簡単ではなく、中盤の「経験可能領域」あたりで訳がわからなくなりました。
ですが、思考方法として、この本から学ぶことは沢山あります。
ウルトラマンやエヴァンゲリオンまで持ち出して現代思想を読み解いていこうとする試みは、とても面白いと思います。
大正天皇に世俗性をおく考え方というのは賛否両論あると思いますが、思考方法としてはありなのだと思います。とても興味深い。
「二十世紀は、とりわけその後半は、冷戦の時代でした。冷戦というのは、仮想的なままに終わった第三次世界大戦です。この対戦に関して重要なことは、これは、最後まで基本的には仮想的なままだったということ、つまり大規模な武力衝突を伴わずに終わってしまったということです」(p235)
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う〜ん。興味深いけど難しい。読書からしばらく離れていたせいだろうか。
所々わかる部分があるという程度。これが大体わかるようになったらいいなと思った。
60年周期で色々な社会的な事件が起きているということが一番心に残った。
しばらく経ってからまた読みなおしたい。
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[ 内容 ]
いま戦後思想を問うことの意味はどこにあるのか。
戦後民主主義を潮流とする戦後知識人の思想は、アメリカを中心とする世界システムのマージナルな部分として位置づけられた戦後空間のなかで醸成された。
だが、70年代を転回点にして、アメリカの善意を自明の前提とした構造がもはやリアリティを失いはじめているのは明らかだ。
西田幾多郎、田辺元の京都学派や和辻哲郎などによって唱導された戦前の「近代の超克」論を検証し、ポストモダンから「戦後・後」の思想へと転換する戦後の思想空間の変容を、資本の世界システムとの関連において鋭く読み解くスリリングな戦後思想論講義。
[ 目次 ]
第1章 戦後思想の現在性(なぜ「戦後」を語るのか 戦争と敗戦 戦後知識人とアメリカ 1970年代の転換点)
第2章 「近代の超克」とポストモダン(脆弱な天皇 資本主義とその挫折 「近代の超克」論 天皇制ファシズム)
第3章 戦後・後の思想(記憶の不在 戦後・後思想概観 消費社会シニシズム ガスについて 自由の条件の探求に向けて)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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3回に渡っておこなわれた講演をまとめた本で、柄谷行人の「昭和・明治平行説」に則る形で、戦前と戦後の日本社会における超越的な審級の変容を読み解いています。
第1章では、江藤淳や加藤典洋の議論を参照しつつ、戦後の日本がそれまでの「天皇」に代わって「アメリカ」が超越的な審級に位置づけられていたと論じられます。ところが、1970年以降もはや「アメリカ」は超越的な審級としての役割を果たさなくなっていきます。1970年代の日本では、「日本」というローカリティが意味を失い、日本人であることがそのまま世界市民であるという奇妙な錯覚が行き渡ります。戦前においてこの時代に対応するのが、超越性を持たない天皇を戴いた大正時代です。
そして、その後にやってくるのが戦後においては「ポストモダン」であり、戦前においては「近代の超克」です。著者は、西田幾多郎や田辺元といった京都学派の議論を参照しながら、彼らの主張した多文化主義の立場が、それまで超越的な審級としての機能を果たしていた「西洋」が普遍性を失い、オブジェクト・レヴェルに引き下げられることに注目しています。ここでは、超越的な審級をたえずオブジェクト・レヴェルに繰り込んでいくことが、逆説的に普遍性を示すことになるというロジックが見られます。そして著者は、これと同じロジックが、「ポストモダン」の時代における消費社会的シニシズムに見いだされると主張しています。
正直に言って、個々の議論の扱い方が恣意的に見えてしまうところがあるのですが、著者の議論の大きな枠組みが共有できるならば、興味深い見方なのではないかと思います。
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大澤真幸の本には、いつも『考える』ことの楽しさ、面白さに満ちている。
社会学の先人には、見田宗介という存在がいるが、昨今は、あまりにも抽象的過ぎる。
その点、大澤真幸は、具体的な事件を扱いながら、誰も想像しないような解きほぐし方をする。
最初に出てくる、慰安婦問題。
なるほど、そういう読み解き方かあと合点がいった。
ウルトラマンや小島信夫の『抱擁家族』に絡めて、アメリカや母性を論じる箇所は、とても粗く、強引に大澤が論じたいように、読み替えていると言っても過言ではない。
文学作品、アニメなどが、単なる小道具に使われているという感がある。
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1
60年間隔
柄谷行人「昭和・明治平行説」
1920大逆事件 1972連合赤軍
加藤『敗戦後論』=敗戦による自己否定の構造による抑圧
太宰治は戦後、戦争についてほぼ書いてない
戦前と戦後のあいだの水門
太宰治だけ開けても水が微動だにしないようだ
=戦時中にかけた以上のことは戦後に書こうとしなかった
『薄明』『トカトントン』
江藤淳
戦後知識人の日本の現状を批判するための「作為の論理を可能にする他者の視点」=アメリカによってsymbolizeされていた何か
アンダーソンのナショナリズムの理論
ウルトラマンとしてのアメリカ
佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』
2
ウルトラナショナリスト
ヘーゲルの論理学
西田
共同体のなかの自己確立
3
内向の世代は過渡的なもの 柄谷
「マクベス論」