紙の本
高密度でビット数の高い音楽のような哲学
2001/02/22 21:26
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
昼食のあと少し固いめの本を読みながら、うつらうつらしてきたら十分かそこらの仮眠をとるのが日課になっています。いつだったかの『アエラ』の特集でサラリーマンの午睡が話題になっていましたが、私の場合もうかれこれ十年以上も前からの習慣なので、そうと気づかぬうちに流行の先陣を切っていたわけです。
以前、東浩紀著『存在論的、郵便的』を二月かけて読んだのも、そういった夢うつつの中での出来事で、これがまた実に心地よい体験でした。もちろん、読み方が読み方なので、細部に立ち入ってのきめ細かな意味をつかむことはもとより全体の結構もたよりなくはかなげだった(あくまで読者の側の話)のですが、そうであるにもかかわらず淀みないスピードでずんずん読み進めることができたのです。(「純粋消費」などという言葉がもしあるとすれば、それはちょうどこのような快楽をもたらす経験をさすものなのかもしれません。)
『週間東洋経済』(1999.2.13)の書評欄では、「80年代初頭に出た、浅田彰の『構造と力』のように、早熟な思想家の処女作は、著者の意図を遥かに超えて時代の行方を予言する。本書もまた、21世紀における市場社会の“脱構築”を冷徹に予告しているようだ」(古田隆彦氏)と紹介されていました。私にとっては後半やや意味不明の評言でしたが、「市場社会の“脱構築”」という言葉の内実をどう構成するかによっては、評者のいわんとすることがわからないでもないような気もします。
いずれにせよ、七◯年代以降のデリダはなぜあのような奇妙なテクストを書いたのか(暗号のようなテクストでもって何を語ろうとしたのかではなく)を終始一貫してテーマに据え、後半に進めば進むほどますます抽象度に磨きがかかる文体や「……である。どういうことか。」といった歯切れのよい叙述のテンポでもって、「高密度でビット数の高い音楽のような哲学」(PLAYBOY[1999.2]掲載のインタビューにおける東氏の発言)に仕上げた力量は並みではありません。
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非常に影響を受けた一冊です。物事の本質を内部から破壊させ新たな地平に導く思考方法はとてもステキです。現代を読み解く上でお勧めの一冊です^^
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12月18日読了。東浩紀の出世作。「脱構築」のジャック・デリダを論じつつ、フーコーやフロイトにも目配りした内容で読み応えがあるが、読みながら「あれシニフィエとシニフィアンってどっちがどっちだっけ?」などと悩みだす自分にとっては、「動物化するポストモダン」などのような読み物と違ったこのような論文を理解しつつ読み下すのは大変だった・・・。しかし、ページをめくるたびに世界がまとうベールが一枚一枚はがれていくようなこの読書感にはたまらないものがあるな。
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東浩紀哲学の出発点。これを読めば『動物化するポストモダン』から『一般意志2.0』まで一貫した思想がうかがえる。人間と動物の二元論とか、エクリチュールの散種とか、郵便空間とか。コミュニケーションをおびやかす「誤配可能性」を「希望」に読み替えるその前向きな思想に共感。
2012年1月26日:
175ページまで読んだが、疲れた。最後まで斜め読み。
郵便空間におけるエクリチュールの誤配可能性や、デッドストック空間への紛失によるコミュニケーションの不可能性については、それが人々にICTへの根源的な不安をもたらしているのだろうと思いました。
2012年5月4日から再読。『ソルジェニーツィン試論』『郵便的不安たち』『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』といった東氏のテクストや『分析哲学講義』を読んだことで、『存在論的、郵便的』もだいぶすらすらと読めるようになっていた。
これも重要。60:00以降が面白い。 → ニコ生思想地図「震災以後、哲学とは何か」國分功一郎×東浩紀 http://live.nicovideo.jp/gate/lv81400801
2012-05-05 17:42 随想
ギブソンのアフォーダンスと、デリダの散種は似てる。ユーザビリティ/エクリチュールの意味が事後に遡行的に見出されるという点で。
デザイナー(郵便局)の特権性は脱構築され、原理的に「目的外利用」は消滅する。人工物の利用における多様な意味は、利用のまさにその瞬間において遡行的に確定する(エクリチュールの散種)。
同じものを使いながら、その使用は一つとして同じではない。大量生産される規格品が生活様式を単一の型にはめるということはない。人工物の利用における意味を創造的に「誤読」することで、私たち自身の生活を自在化する可能性がある。
デザイナーの特権的意味付け(デザイン)から飛躍した「誤配」や「誤読」による創造的な生活の可能性がある。「シンセサイザー」(楽器)にすぎなかった初音ミクのキャラクター的な需要と創造力(ジェネラティビティ)は好例。ユーザーによる「ハッキング」の可能性。
アフォーダンスがつねに無限の可能性・創造性に対して開かれており、人工物の意味や用途が使用そのものによって遡行的に定義されていくならば、原理的に「目的外使用」など存在しない。人工物のテレオロジー批判。デザイナー批判。
ソフトウェアは「目的外利用」しにくいのが問題だ。しかしそれはいまのアーキテクチャがそうであるに過ぎないのであって、「目的外利用」に開かれた情報アーキテクチャを模索したい。
例えば「モーダルからモードレスへ」という上野氏の実践はその意味において意義がある。
HCDとACDに関する議論(浅野氏の記事)と並行している。デザインにおけるHCD的な利用状況(コンテキストオブユース)のアプリオリな措定はテレオロジーであり、アフォーダンスの散種的多様な解釈を抑圧する。しかし抑圧しきれないために「目的外利用」に対してつねに開かれている。
「目的外利用」「誤配」「誤読」をエンパワーするアーキテクチャとは何か。TwitterにおけるRTのような機能は、デザインのメタレベルにおいてはどのようなものになるか。一例としてAPIがあるだろう。データのアクセシビリティを高めること。Google的、マッシュアップ的。
アクセシビリティは「あらゆるデバイス、利用環境での閲覧可能性を確保する」ことではない。閲覧だけでなく加工・再利用に対して開かれていなければならない。つまり機械的可読性が必要なのだ。フロリディ的。
アクセシビリティとAPIの倫理。この基礎的議論からオープンデータ、オープンガバメントの要請が演繹的に出てくることは説明の必要もないだろう。
140文字のツイートそれぞれがバラバラにリツイートされている。これぞ散種だよなあ。ようやく東浩紀氏のTwitter観に少し触れた気がする。
コミュニティの閉鎖性を突き破ってコミュニティ間コミュニケーションを成立させる言葉があるとすれば、強度のある言葉だ。それはリツイートが連鎖しやすいツイートの特徴でもある。
ぼくの新事業開発アプローチ(今風にいえばリーンスタートアップ的)はビジネスの散種的実践か。プロトタイプを作ってモニターテスト、ミニマルなβ版でリリース、みたいな手法は、エクリチュールの種を撒いて、その(しばしば予期せぬ)成功の芽を利用者の中に見出すことだ。
ウェブサービスを提供するソフトウェアは、プログラミング言語でアーキテクチャをコーディングしたものであり、エクリチュールそのもの。その「目的外利用」と探索的事業開発手法は、音声中心主義批判と散種的エクリチュール実践に並行している。
『アーキテクチャの生態系』を検討したい。生態系と進化論と固有名の問題とか。グーグルではなくグーグル的アーキテクチャそのものを考えることは可能なのか。進化論的議論は可能世界的思考を要請する。
2012-05-07 03:01 再読完了。満足。
『存在論的、郵便的』再読完了。3ヶ月前は途中で放棄したのに、こんなに読めるようになっているとは我ながら驚き。大変多くの気付きが得られた。
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-読中-
なかなか読み応えのある本。こういう本一冊あればとっても充実した時間が過ごせる。メモを残しつつ、格闘中。知的好奇心がそそられる。
-読後-
とても疲れました。難しかった。
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東浩紀が実存的な動機で書き始めた論文をまとめた本書。
その動機に抵抗するように、きわめて形式的に書かれている。
感情やゴシップから距離を取ることは大切ではあるが、その徹底的な抵抗が失敗となっている。言い換えれば、転移は避けられなかった。
この著書の結末が散逸した今となっては、各章の間に差し込まれる、東の選択を慎重に検討する必要がある。
第三章までは、比較的デリダの整理に留まっている。
もちろん「奇妙なテクスト」が書かれたデリダ第二期に注目し、幽霊や郵便の隠喩を仮縫いの糸としてデリダの全体を読み解こうとする試みは新しいものであった。
第四章では、浅田彰が指摘しているようにハイデガー読解に問題はあるが、デリダを離れてハイデガーやフロイトにこの問題の系譜を辿ろうとする試みがなされる。
しかし、終盤で提出される「無意識同士がつながる」という仮説は、その問いが含意するものは分かるが、理論的には支持できない。
総じてハードルとしては高いが、デリダの入門書としては充分機能しえる著書になっている。
『批評空間』で試論と自ら呼んでいたこの作業を、単行本にまとめるにあたってそう呼ばなくなったのは、世界に身を晒すという彼の素直な態度だろう。
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【新歓企画】ブックリスト:「大学1年生のときに読んでおきたい本たち」
すみませんぼくも未読です。が、現代思想について考える際、この本は避けては通れぬ一冊だと思います。入学してきて、まず何を読んだらいいだろう? というひと、ぼくみたいに聞きかじったことをなあなあにしてしゃべるのではなく、ちゃんと読んで、いろいろ考えてみてほしいです。ぼくも読みます。一緒に勉強したいです。【S.S.】
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二度目読了。まだまだ手強い。アクロバティックだけど地に足が付いたかんじだ。構造と力を超えた本というのはそうだと思う。
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東浩紀のデビュー作。途中まで読んで積読にしていたが、今回は150ページくらいまでは普通に読み、その後は斜め読みした。
難解で理解できたのは半分以下。
固有名の持つ確定記述の束に還元できない過剰の話は理解できた。
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博論を基にした著作というのは基本的に大作になる。
様々な分野においてポピュラーな本を書いている東浩紀においてもそれは同様で、他の彼の著作のような読みやすさを期待して読もうとすると肩透かしを食らう、というか眉間にシワを寄せることになるかもしれない。
というのも、本著はあくまでデリダの解説本である。
そのデリダの著作よりは遥かに読みやすいとはいえ、やはりそれを解説する以上、それはある程度難解なものにならざるをえないのだろう。
ちなみに自分の場合、デリダの著作はちゃんと精読したことすらないので、そういう意味でもなかなか読んでいくのが大変な本であった。それでも、東の導きにより、少なくともデリダが何を行おうとしていたのかはかなり明らかにされた感覚がある。また、デリダとともに、その批判の対象となったハイデガーについても断片的に知ることが出来るようになるというのも本書を読む一つの意義だろう。
デリダにしてもハイデガーにしても、哲学書の中でもさらにわかりづりい分野を取り組むことは大変なことだ。特になぜそれが有意義なのか、どのように哲学の世界で位置づけられているのかを知ることは、単純に数行にまとめた基本書籍だけを読むだけでは困難である。
そうしたとき、本書のようなものがまさにそこを補う役割を果たすのだろう。
とりあえず、また折にふれて読み返してみたいなと思いました☆(要約)
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デジタルペンを購入しました。現状では実用段階にありません。ノートのとり方を考える必要があります。まず、A4のノートを用意する必要があります。B5のノートでは駄目です。こんな工夫の積み重ねが必要です。地元の図書館で読む。予想外に面白い本でした。テーマはエリクチュールです。書かれたものは、同一性を保てません。warはウォーかもしれません。ワーかもしれませんそれは読み手によります。その延長線上にデリタの仕事があります。デリタは、1970年以後の難解な本を数多く出版しました。多くのものは理解不能でした。これは意図的なものだと主張しています。理解不可能なものを提出することにより、同一の解釈を可能にするのです。皮肉な解答です。再読の価値があります。
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哲学的にはわたしには測りかねるものがあるが、文芸批評史的には柄谷という「父」の思考枠組みに対して根本的修正を迫るという意味で世代交代の端緒も感じさせる重要な一冊。
*
2017.1.7 追記
ここ数日繰り返し読んでいた本。はっきり言って以前のわたしには何も理解できていなかったとおもう。最近読み返して気づいたのは、「政治」の意味が70〜90年代で変容したことが刻み込まれているということ。あと明晰にわかりやすく書かれているようにみえて、二つの概念を出してきてそれをはっきり定義しながらその区別しがたさへと移る、というパターンの論述が基本で、しかもそれを別の言葉で言い換えてまた新しい議論へと流れ込む、というパターンでずっと書かれており、文体の明晰さに比して要約はしづらい。どれほど文体が異なっていてもこのひとはデリディアンなんだ、と心からおもった。
いま関心があるのは本書の最終章を文体論として読み直す可能性。
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東浩紀の著作はいくつか読んだが、それらに比べてこの本は難解だった。
様々な哲学者の名前が飛び交う、まさに哲学の本という感じ。
多くの哲学者が独自に導きだした思考に、共通する論理構造を発見していく手つきが美しい。
フロイトを読みたくなった。
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本書で試みられるのはフランスの思想家ジャック・デリダの読解である。僕は大して詳しくないから、この本が日本の「デリダ学派」においてどのように位置づけられているのか知らない。が、おそらくそのようなことは、本書の主張に照らしてみればどうでもよいことである。問題はデリダのテキストからどのような豊かさを引き出しえたかであり、その点、本書の描き出したストーリーはすこぶる魅力的であるというほかない。
著者・東の文章は明晰そのものであり、議論の進め方も大変丁寧だ。パラフレーズにパラフレーズを重ね、補助線を入念に引きながらロジックを積み上げていく。後半に進むにつれ、内容はやや込み入ってくるが、初学者にとっては、第1章におけるデリダ思想の鮮やかな(教科書的)要約だけでも十分有益だろうと思う。
本書は東にとって最初の単行本であり、刊行されたときには彼はまだ20代だった。以後、ネット時代の本格的到来にともない、彼は最も多弁な知識人の一人として旺盛な言論活動を続けている。彼の言説は文章・音声・映像データとして膨大な量が「散種」された。しかし、その核となるべき主著は、『存在論的、郵便的』以来発表されてこなかった(新書版などによる小著は多くあるが)。近年は雑誌編集の方面に力を入れているようで、著述業からは離れていっているようにも見えた。
が、そんな東が間もなく重厚な新著を出すという。大変な自信作のようで、東はツイッター上などで惜しみない自画自賛を繰り返している。今や「経営者」となった東にとってそれは宣伝活動の一環でもあろうが(新著は彼が経営する出版社から刊行される)、「哲学者」である彼にとってそこに嘘はないはずだ。期待してこれを待ちたいと思う。
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東 浩紀さんのデビュー作。
どっぷり本気の本格的なデリダ論。
デリダって、何言っているのか、全然、分からないよね。なんだけど、それでも初期は、それなりに通常の哲学のなかにいたらしい。で、70年代以降、哲学とも、文学ともなんとしれない言葉の遊び的な本がでてくる。絵に描いたようなポストモダンな哲学。
つ〜、印象なのだが、「どうしてデリダはあんな難しい変な文章を書いたのか」みたいな素朴な問いを深ぼっていく。
スタイルは、デリダ的なものでなくて、結構、ロジカルに一つ一つ、詰めて行く感じ。デリダの解説書って、デリダ的なスタイルで書かれることも多いので、これはいいな。(といっても、速読していると、すぐに流れが分からなくなるのだが)
個人的には、デリダは、90年代以降の政治的なテーマを扱った「マルクスの亡霊」や「法の力」みたいなのを読んで、はじめて興味をもったのだが、この本では、これらの著作は後退したという評価かな?
デリダの二項対立的な世界を脱構築しつづけるという感じから考えると、デリダの政治的な著作は、「来るべき民主主義」みたいな民主主義=正義=脱構築ということになっていて、後退といえば、後退である。
が、二項対立って、人間の思考の基本パターンなので、それを脱構築しつづけても、そこから逃れることはできないんだよね。(もちろん、デリダはそんなこと分かっているのだが)
ならば、二項対立の限界を知りつつ、あえて二項対立をしっかり深めていくというが大事じゃないかと最近は思っている。
そういうわたしにとっては、「法の力」と「マルクスの亡霊」は、ひびく本なのだ、ということをこの本の主張とは別にあらためて確認した。