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ポールオースターが暗い未来を描いたSF小説(本人はSFとされることを好んでいないようですが)。
そこは新しいものが何一つ生まれず、ただ、ゆっくりと消えていく国。人も、物も、言葉も、記憶も。消えたという事実すらも。
そんな国に行方不明の兄を探しにやってきたアンナ・ブルームの物語。
オースターがこの作品を書いていたとき、ずっと頭の中にあった副題が「アンナ・ブルーム、20世紀を歩く」。ここで描かれている数々の「悲惨」―施設、出来事、仕組み、事件など―は、実際に20世紀にあった、もしくはあったとされている出来事だそうです。
それを一々具体的に挙げていくことはここではしませんが、この暗い物語を、しかしオースターは「これまで書いた中で実は一番希望に満ちた本」と言っています。それはアンナがどんな状況でも人間であることを止めることず、ともかく未来へと進もうとするからなのでしょう。未来とは暗闇であり、暗闇とは、希望がつくる影。そうであるべきだ、という物語。
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「
どことなく現実的で、読んでいて恐くなる世界の終わりが、ある女性からの手紙の中で描写されている。
極限状態のその街では、物や人がなくなる。物や人はなくなるだけでなく、それについての記憶もなくなる。まるで最初からなかったかのように。
その状況では幸福は見つけるのと、奪い去られるのの繰り返し。最後も、彼女はどうなったかはわからないまま。残ったのか、なくなったのか・・・。
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バカンス中に読むような本でもないか…と思いつつ。でも、暑くて頭がぼーっとした状態で、ここまで絶望的な本を読む、というシチュエーションもなかなかいいかも。…というくらい、救いのない話です。一体どこの、いつの物語なのか、特に記述はありませんが。「人々が住む場所を失い、食べ物を求めて街をさまよう国。盗みや殺人がもはや犯罪ですらなくなった国、死以外にそこから逃れるすべの無い国。」での救いのない物語。オースター曰く、架空の国の物語ではなく、この「最後の世界」で起る事柄は、すでに世界で起っている事柄に他ならないとのこと。なるほど、言われてみれば、そうだよな。現実ほど救いのない世界もないしね。…でもあのラストは一縷の望みを期待することができる、という読み方もできるんだけど、でもやっぱり私は、あの先にあるのは絶望のような気がしてならない。それでも、主人公は前に進むしかないんだな。パンドラの箱の底に残っているのは希望かもしれないから。(2001 Aug)
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19歳の女性が兄を探すため最後の物たちの国(犯罪が犯罪でなくなりゴミや死体が生きる糧となっている絶望的な国)へ行き、抜け出す事ができなくなってしまう。主人公が持ってるほんの少しの奇跡に救われながら混沌とした世界を生きていく話。
寓話らしいのけど作者が言いたかったこととは。
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読んでてすごく「サラエボ旅行案内」と通じると思った。この本にしてもサラエボ旅行記にしても、悲惨な状況の中で悲壮感に沈んでしまわない強さに惹かれる。土壇場で踏みとどまる底力。
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無秩序、混沌、喪失のなか、消失していく先には何が?
飲み込まれていくなか、薄っすらと希望が見える瞬間もあるのは、
その地に生まれず、飛び込んだ人だったからか?
未来に続くかのようなラストの言葉。
それもまた、その無秩序な秩序の世界に飲み込まれてしまうのだろうか。
否それでも足を一歩前へ。手紙が届いているのだから。
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あらゆるものを失い、あらゆるものを損なわれた人たちが生きる何処でも無い国。
あらゆる物が、あらゆる言葉たちが消えていく、最後の物たちの国。
「ひとたび物が消えると、その記憶も一緒に消えてしまうのです。脳の中に闇の領分が生じ、その消えた物をひっきりなしに喚起する努力でもしない限り、またたく間に永久に失われてしまうのです。
物が消えたら、すみやかにそれについて考え始めなければ、あとはもうどれだけ頭をひっかき回しても取り戻せはしないのです。
結局のところ、記憶とは意図的な行為ではありません。それは本人の意志とは無関係に働きます。」
読了後、しばらく現実感覚を失ってしまった。
何もかもが痛々しいまでにグロテスクだけれども、静かな美しさの在る、哀しい小説。
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ギリギリまで無に近づいていく社会についての思考実験?いやいや、世界の紛争地域・貧困地域では、これに近い状態で現実の日常を送っている人がいるのだろう…。
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政治は混乱し、治安も何もあったものではないまさに無法地帯。物資もなく、人々は貧しく、他人を信じず己の身を守ることだけ考えて暮らしている。そんな「最後の物たちの国」に兄を探しに訪れた若い女性、アンナ・ブルームが届くあてもなく書き綴る手紙の手法をとっています。
そこにあるのは絶望のみなのだけど、アンナは人間としての尊厳を守りつつ、「生」を貫いていきます。そりゃあもう、えらい目に次から次へと遭っていくんだけど、根がポジティブなアンナさんは負けずに一縷の望みを胸に手紙を書くのです・・・。
初めて読んだときは未来的?と思った(オースターは現代の話だと言っている)んだけど、今になってみれば、ホントに今現在、こんな状況の国って世界にいっぱいあるんだよね・・・。アンナ・ブルームが四面楚歌とも言える状況でわずかな希望を持って生きているのは物語的?と思ってたんですが、どんな状況でも、人間は希望を持ちたいし、希望がなくては生きていけないのだ、ということが、年嵩増して理解できるようになりました。
他の作品でも、「言葉」「言語」にこだわりをもつ記述が多いオースターですが、ここでは「書く」ということにこだわりたかったのかなあ、と。
ほんとにいいことのない物語なんですが、オースター作品で一番を選ぶとしたら、私はコレです。アンナ・ブルーム健気で可愛いし。読後感が何故かさわやか。
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前世紀の暗い記憶を喚起させる作品。深い絶望に彩られていながらも、キングの「霧」のラストに似て、一片の希望が残されている。傑作。
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どこの世界かなどといった具体的な説明もなく、唐突に物語は始まる。食べ物がろくになく、人から奪うことで自分の生活が成り立つ、人の死が慢性化した無法地帯。そんな世界にアンナは兄を探しに行き、その状況を「あなた」に書きつづる。その国で彼女は人から奪い、奪われながら生き、そしてそこを脱出しようともがく。どん底まで落とされた女性が最後まで希望を探し求め、人を愛し、信じる。楽園はあるのだろうか?これほどの絶望の中にも、たった一つの希望が光ることを思い出させてくれる傑作。
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その国では、人々が住む場所を失い、食べ物を求めて異臭漂う町をさまよう。盗みや殺人がもはや犯罪ではなく、死以外にそこから逃れるすべはない。
行方不明の兄を探してアンナが乗り込んだのは、そんな悪夢のような国だった・・・。
新しい命も、物も、言葉もすべてがゼロに近づいていく世界では、その先には何があるんだろう?って問いへの、一つの反応を示した人たちの物語。
オースター作品の中でいちばん好きかもしれない。
素材の暗さから、絶望的な生活の記録になるのかと思ったら、良い意味で裏切られました。
悪夢的な陰鬱さを纏う町の中では一筋でしかない光、だけど力強くともり続ける「生きる意志」としての光を感じて。
途上国を歩く中でかんじた疑問や感情が、抽象的であれ喚起されました。
名もない架空の国が舞台なのに、この世界とパラレルなきがしてくる。
遠くの国の出来事のようだと油断した瞬間、日常の中でもふとあの国の影がよぎる。すぐ近く、嗅げる距離に。
コルカタのスラムで感じた五感的情報が呼び起こされたけど、量的にいえば、私のいまの日々の生活の中で理解できる描写の方が多いかもしれない。
死んだ男を投げ落とすために上った屋上で、「町が全世界ではないことの証を得た」シーンは、フィッツジェラルド的で透明な悲しさがあった。
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ものがたりの世界は、いつなのかもどこなのかもわからない世界。あらゆる制度や秩序が崩壊した、荒涼とした終末的な世界だ。そこでは、わたしたちがあたりまえのように享受しているいろいろなものが存在しないし、あるべきものがそぎ落とされてしまっている。それだけに、わずかに存在している希望や、アンナの聡明さや生命力が際立って価値のあるものとして映えて見える。
他のオースターの作品とは少し、趣が違う。でも、表現力や想像力を駆使して書かれた文章は、ものがたりの世界をリアルに感じさせてくれる。
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オースター作品はどれも、物語が終わったところが新たな物語の始まりになっていて、読み終わったその先に真っ白な世界が広がっている。「近未来ではなく現在」の物語として読めるこの作品では特に、最後に読者の前に広がる本当にまっさらな未来は圧倒的に果てしなく、訳者解説にて「オースター作品で最も希望を感じさせる」と書かれているのもだからこそなのだろう。ありえないパラレルワールドを描いているような、けれど酷似した現実は実際に世界のどこかにあるのだと日々のニュースを見る中で直観的に分かってしまう、何もかもが失われて全てが“最後の物”である国での出来事は、遠いようで近く、読み進むほどにショッキング。それでも自分自身が“最後の物”であったとしても、それが決定されるのは今ではなく、いつか自分の時間が果てるその時でしかない。「今」と「その時」の間に横たわる未来はこの本のラストの先に広がっている世界のようにまっさらで真っ白で、だから人はいつでも先に進んで行くしかないのだと、悲観的な意味ではなく思える読後感は、確かに「希望」に満ちたものなのかもしれない。
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以前購入して、読まずに放っておいたもの。1ページをめくり何となく気分が乗らなかったので、そのままにしておいた。小説との出会いはときに、迷路のように複雑な経路を描き、
著者自身、大好きな一冊であるのに本国アメリカで余り人気がないことを嘆いているらしいが日本での人気は、ブログ等へのレビュー率が高いことからうかがえる。なぜか。
現実感のない設定は、裏を返せば「どこにでもある話」として定義されうる。日常に起こりうる些細な諍いや喧噪を極めて純化された環境でくりひろげさせることが、効果的に小説の視界を描く。
彩りをもって迫ってくるのは、アンナが飛び降りたとき、サムがいた部屋、ウォーバン・ハウスの外界から隔離された清浄さと醜さ。そんな情景だ。印象的であるが故にその印象を構造化できないところが、この小説の受け入れられぬ要因だろうか。悪夢のような貧しさを好んで描くアメリカ人作家もそうそういないのかもしれない。
これほど読後感の苦い小説もない。一方、これほど希望を切実に感じるラストもない。切実さは、部屋に充満する幸福感のそれではなく、くらい部屋に光るひとすじの光明、といった風情である。パウロ・コエーリョのベロニカは死ぬことにした、が紡ぎだす文章の濃密さと何となく似ている。状況も書き手も全く違うアプローチだけど、描き出す日常の恐怖は同じ類のもののように思える。
ちなみにベロニカは日本で映画化されたけど...見てないなぁ、真木よう子。