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どこの国ともいつとも知れない、物が極端に貧しく、荒れ果て、犯罪が横行し、人々はごみ漁りぐらいしか仕事がない、国を出ていくことすらできない、言葉すら(概念ごと)どんどん消失してしまう国に兄を探しに乗り込んだ主人公アンナが、そんな「最後の物たちの国」で時折垣間見た希望や人との出会いなどを
「あなた」に向けて綴っている物語。
これまで読んだオースターの作品の中では一番救いがないんだけど、なぜかちょっと温かい気持ちになれた不思議。
そしてこれは近未来とかじゃなくすごく現代的なお話だと思う。
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三回か四回目の読了。ワタシは記憶と喪失についての物語が好きなんだなぁと改めて思いました。閉じられた世界は崩壊していくだけで、主人公には勿論止める力などないし、ただかきとめて送るだけ。それも本当に届くかどうか分からない。哀しいことだと思う。
5/11更新。何度読み返したか分からない。何度読み返してもいつも新しい発見がある。いわゆる近未来ディストピア小説のようなものと思い読んで来たが、今回何度目かの読み返しで、今は違った考え方で読めると思った。以前にこの読書会で読んだ「写字室の旅」を思い出していただきたい。あの作品の中で部屋に囚われている老人ミスター・ブランクがいた。彼は作者自身の意識、そして彼の世話をするアンナ・ブルームこそ今回の主人公である。アンナ・ブルームを何年もたってから、また重要な役割を持たせ、作品に登場させたオースターの思いを探るような読み方ができればいいと思う。オースター自身は解説にもあるようにこの作品の時代背景を近未来として描かなかった。最後の物たちの国で、原題はIN THE COUNTORY OF LAST THINGSである。最後の物たちとはなにを表しているのだろうか。ここにある物は人だけではなく、世界を構成する物質であり、終わり行く世界、崩壊していく場所と物、そしてそれらの記憶をあらわしているのではないだろうか。終わり行く世界の中で、アンナはまだかろうじて自分が認識できる青いノートにその思いと記憶を綴る。手紙形式で書かれた、どこにも届くことはないかもしれないそのノートはかつてまだ死を意識しないでいられた、平和なはずの世界にある彼女自身の部屋に置かれることを祈って外の世界に送り出される。アンナは、ノートを部屋にあるかつてのアンナを構成する物たちのひとつになるように置いてもらうことを読み手にお願いする。手放した記憶その物もアンナの今の世界からはもう 遠くへ行ってしまう。ということは、彼女は明日になればもう何も覚えていることはできないのかもしれない。記憶を確かめるように、何度も何度も読み返していたに違いない青いノートは、きっと端がめくれ上がっていて、あちこちに染みがついているはずだろう。(オースターは文房具もモチーフにすることが多い。「オラクル・ナイト」でも作家がノートに綴る形を取っている。)青いノートこそが、アンナ・ブルーム自身だったかもしれない。いずれにしろ街から出ることはできなくなっていて、逃げ出そうにも船は入港してこない、飛行機は人々の記憶から消えている。ひとたび物が消えると、その記憶も一緒にきえてしまうのです、と書かれているとおり。死と隣り合わせのこの閉ざされた国でアンナは 精一杯生きようとする。生きることが死ぬことにつながる世界でただ一人生き抜こうとしたアンナが要所要所で誰かにうまいこと保護されるのは、小説としてでき過ぎかもしれないと思ったこともあったが、それほど彼女の生存本能は強いとも言い換えられる。観察する目と記憶する頭脳を持ち、生まれなくなって久しい子供を宿したアンナはこの世界で聖母にも等しい存在になれそうだったのに、宿した子供は裏切りによって失われてしまう。どんなに身を落としても、彼女は生きることだけは手放さない。それがアンナ・ブルーム。オースターの愛したキャラクターではないだろうか。何もかも失ったとしても記憶がある限りひとは存在したことになるのだろうか?もしも記憶さえもなくなったとしたら、それは 生きていることになるのだろうか?わたしはこの作品を読むたびにそう考える。最後の一つの物とは、人間自身のことだと思う。
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終わりを迎えつつある絶望的な国に迷い込んだ人々の物語。寓話的だが、現在の世界のどこかにはこういう国はあるだろうし、日本も昔はこのようなときはあったはずだ。いずれまた極限まで追い詰められた状態になり、この物語の国と似たような状況になるのかもしれない、と思いながら読んだ。しかし、物語は全て絶望的なことばかりではなく、随所で救いがあるので安心する。
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ポール・オースターの本はいつも疲れるのだけれど、この本はとりわけ疲れた。読んでいるあいだは毎晩10時には寝落ちしてしまっていたのは読み疲れのせいだと思う。感想がまとまらないので、以下メモ書き。
物は無くなり、人はいなくなり、赤ん坊は産まれない。状況が良くなることはもうないだろうと思われる、そんな国。主人公アンナの生き方が私にはとてもリアルに感じられて、「ああ、こんな夢、今もよくみる」と思った。夢みたいな現実。あまりにも酷い状況が続く時、頭に霞がかかるような、それでも感覚は鋭くなるような、不思議なあの感じ。夢も希望も無い時にそれでも生きていこうとするための脳の防衛本能か。
こんな地獄のような世界でも、主人公アンナを愛し、助けてくれる者達がいることが何よりの希望だ。その中でも好きなのはボリス。厭世的で悲観的。だからこそいつでも陽気な男。彼は作りごとばかり喋る嘘つきだ。けれど誰より信頼できるのはなぜか。大事なのは目の前の状況に対処し続けること。その瞬間瞬間だけが本当であり、過去はもう無くなってしまった物だからだ。自分らしさというのは過去の集積だ。ボリスには過去は無い。だから聞くたびに出まかせのプロフィールでも、それは彼の本当だ。
何も無い悲惨な世界に、言葉だけがまだかろうじて残っている(その言葉さえも、いずれ忘れられて消えていくのだが)。走者団、飛び人、安楽死クリニック、暗殺クラブ、変身センター(火葬場)、紙メシ、微笑団、匍匐団、世界の終わり会、幽霊家主、街漁り人。人にまつわる言葉はおどろおどろしくもユニークだ。ランプシェード・ロード、ディクショナリー・プレイス、フィラメント広場、メモリー・アベニュー。地名にはどれも物語が込められているようだが、人々はもう忘れてしまっているかもしれない。
町のガラクタの中に、ニューヨーク3部作である「ガラスの街」のクィンと思われる者のパスポートを見つけて何か感慨深かった。
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222p
あなたの古き友人アンナ・ブルーム、別の世界からの便りでした。私たちが行こうとしているところまで行きついたら、もう一度手紙を書くようにします。約束します。
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兄を助けに「そこ」に行った女性の話。「そこ」に染まるつもりがないのに、最終的に「そこ」に居場所を見つけてしまう過程が秀逸。
ポールオースターでは1番好きな作品。
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2009年2月2日~3日。
背筋が寒くなるのは、これがフィクションじゃなくて、本当にある話とリンクするから。
1987年、今から22年前の発表。
アウシュビッツや北朝鮮を思い出させもするが、そんな異国や過去を振りかえらなくても、22年後の現在の日本を見れば納得がいく。
これは近未来の話でも予言の書でもない。
現在進行形の話であり、22年たった今、ますます状況は悪化してきているということだ。
それでも最後に希望が残されていて、少しは救われる。
今、こうして雨風をしのげているのも、運が良かっただけなのかも知れない。
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四冊ぶりの柴田元幸訳ポール・オースター。
舞台は自壊して秩序を失った国。時期は近未来を思わせるが、訳者あとがきによれば近未来ではないらしい。これでもかというくらいの悲劇が次から次へと主人公アンナ・ブルームに襲いかかる。物語の大半は失意と絶望。でも、終盤のほんのわずか、本全体の数%にも満たない部分で光がさす。そして、その光が意外なまでに明るく、明日への希望が読後感に残る。筆者と訳者の卓越した技術がその読後感を生み出しているのは確かだが、もうひとつ重要なポイントは、オースターにしては珍しく(もしかしたら唯一?)女性を語り手としていること。これが悲劇の深さと、希望の明るさをより一層強くする効果を与えている。
まだまだオースターは止められない。
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ニューヨークが舞台になっている三部作の後、1987年に、「ムーンパレス」の前に書かれた作品だが、少し趣が違っている。
アンナ・ブルームは行方が分からない兄を探して船に乗った、アンナ・ブルームという女性が、瓦礫ばかりの荒廃した土地に降り立ちそこで暮らし、それを知人に書き残したと言う形になっている。手がかりは兄を知っていると言う一枚の写真だけだった。
ここは、存在したものが絶え間なく消えて行くところ。「常に消滅していく、最後の物たちの街」だった。
そこに入ると、気候までが定まらない、まるで生きた記憶が朧になり霞んでついに消えて行くような、思い出す過去もなく思い描く未来も忘れ去って、数少ない生きる選択肢のなかから、何としても生命を繋いでいかなければならないところだった。
「アイアム・レジェント」という全てが崩壊した映画がある。それを見たとしても振り返れば何も変化していない日常がある。しかし、この非情な生き方を読んで、映画が作り物だと信じられるだけ、今を対比させて、なお。この小説を読むと、感じることがある。
アンナの現実は食料を奪い合い、食べられるものは全て食べつくす、極寒の日も酷暑の中も、生きぬかなければならない。「飛び人」(自殺者)「這う人」「走る人」人は群れ、死さえ生きる源になり、金を持っているものは安楽死も出来るコースがある。様々に壊れた世界では人は狂っていく。わずかに残った秩序をわずかな人たちが管理し、政治体制は都合に合わせてコロコロと変わり、人を苛んでいる。
アンナも、食べられるものは何でも食べ、拾った靴を履きぼろを身にまとう。老女と知り合って瓦解寸前にあるような建物に同居し、彼女の死を看取ったり、訪ね当てた写真の男と暮らしたり、妊娠中に襲われて高い窓から飛び降り一命を取り留めたり、様々な生活が、最後には高価な(ぜいたく品は高騰している)ノートにか書かれ、彼女の声が届いてくる。
行きぬくために汚物にまみれ地面を這うような生活の中から、一握りの最後の者たちを救うために、遺産を使い果たしつつ善行を施す人も、ついに資源が突き、破綻して消えて行く。
町の中の石だらけの錯綜した道を彷徨するうち、足の裏に当たる尖った石までも気にならなくなるほどの心の痛み。飢餓、欲望、繰り返される暑さ寒さの中の人の脆さが、絶望感が、これでもかと書かれている。
オースターの幻想的な、曖昧な世界にあった自己と他人の醸し出す曖昧な境界線。交じり合った独特の孤独な世界は。いつかこの土地に蔓延する孤独感、絶望感、危機感に、姿を変えて、実に鮮明に、感覚的に表されている。救いのないこんな世界を、体験しないまでもまだ近い過去に見たことがある。
こうした、ひとりの育ちのいい女が踏み込んだ現実が、寓話的な迫力を持って迫ってくる。彼女の運命とともに、印象的な終末の世界がいつまでも心に残る。
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再読。
従来の秩序が崩壊し、横行する食物の強奪や殺人はもはや犯罪ですらない国。物が次々失われていき、大半の人々が街を漁って一日を生き延びる国。そんな国に行方不明の兄を捜しに来たアンナ。
人の悪意に揉まれながら逞しく生きる術を身につけ、絶望の中でも支え支えられる人々との出会いから新しい希望を見出していく。誰かに必要とされる、それこそが最大の生きる理由なのかもしれない。
昔読んだ時は完全に架空の世界の話だと思えたが、新型ウイルスの影響でマスクや一部の品々が姿を消したこの状況、いつこの“最後の物たちの国”になってもおかしくないのだと痛感する。
「何だかんだ言ったって、たとえこんなひどい時代だって、人生ってのはいくらでも素晴らしくなれるんだ。それをわざわざ台なしにしちまうことしか考えない人間がいるなんてねえ、ほんとに情けないよ」のイザベルの言葉が胸に刺さった。
この小説は作者からのアンナからの、混沌した時代を迎える今の人たちへのメッセージ。
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秩序が崩壊し、犯罪が横行している国。その国にジャーナリストとして取材に行き、行方不明になった兄を探す主人公アンナ・ブルーム。常に状況は変わり一定の状態が存在しない世界。状況が変わりすぎて人々の思考から言葉どころかかってあった概念さえ消えてしまう世界。そんな世界の放浪記。アンナが手紙を書いている形式なので、語りかけてくる感じがよい。近未来とも思えるし、まさに今どこかで起こっていることにも思える。
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うーむアンナ・ブルームよ生きていてくれい。
消息を絶った兄を求めて、すでにまともに機能していない国に渡ってしまった若い女性アンナのサバイバル物語。青いノートにつづられた手紙という形で語られている。『ガラスの街』では赤いノートだった。ノートにぎっしり書き込む登場人物がP.オースター氏は好きなのだろうか。
苦労話の連続ではあるのに、相変わらず語り口が天才的に面白くて、内容ほどには重苦しく感じずに読めた。不思議な本だ。
サバイバルのハウツー描写が地味に沁みた。ショッピングカートを体にくくりつけて狩猟民族のようにアクティブに街をうろついて物拾いをする人たち。原語はスカベンジャーだろうか。くくりつける紐を臍の緒と呼ぶのが洒落てる。もしかしたらアメリカのホームレスからイメージしてるのかもしれない。
目的は分解し、夢は燃え尽き、愛する人々は死んでゆき、刹那的な希望だけがかろうじて残る。生まれたら死ぬのが当たり前の成り行きだけれども、誰も自分が死に向かって生きているとは思っていない。ただ日々をどうにか生き続けるだけだ。その過程で出会って別れる風景や人物は、どんなに素晴らしくても永遠に残してはおけない。風景は記憶から消えてゆき、人との関係も変わってゆく。それでも瞬間瞬間鮮やかに花開き、奇妙に愛しく人生を彩ってくれる。
アンナが歩いた道程はひどく過酷で、奇妙で、とんでもなくファンタジーなのだが、同時にとても馴染みのあるものだった。
青いノートがちゃんと誰かに読まれているのがいい。読んでいるのは元恋人なのだろうか。それとも何の関係もない赤の他人だろうか。どっちでもいいのかもしれない。発した言葉が、別の誰かに届くこと、そこには救いがある。