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紙の本
「顔色の悪さ」を踏み越えて。
2005/02/22 05:23
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投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
IPは、オヌマという男の手になる180頁ほどのハードボイルドな日記(5月15日〜9月15日)を本体とする。これに「M」なる人物の手になる3頁ほどのオマケが付されている。(まるで『人間失格』のように?)
「M」は、第一義的にはオヌマがかつて所属していた「高踏塾」(スパイ養成学校?)の主宰者である「マサキ」という人物(変態)を指す。オヌマは某映画学校の卒業制作で仲間たちとともに「高踏塾」のドキュメンタリーを制作、マサキの「人間美学の最終洗練形態という観念」(「M」は三島由紀夫?)にとり憑かれ、仲間たちとともに入塾、五年ほどの歳月をスパイ訓練に明け暮れて過す。あれこれあって今、オヌマはかなりハードな状況に追い込まれ、ドンキホーテ的に大活躍する。
……それにしてもIPの文庫版はカバーが素敵♪ うまいこと素敵な女の子を見つけたものだと、ほとほと感心してしまう。なんというか、このカバーガールは「個人的な」記憶(?)を「投影(映写)」しやすいタイプだ。CG等には見えないから、現実にこの世界のどこかに実在する誰かなのだろう。でも、そういうことを問題にしたくならない。「Individual Projection」を日本語に訳すと「個人的な映写(投影)」とでもなるのだと思うが、まさにバナナフィッシュにうってつけの日!……オヌマは現在、渋谷国際映画(渋谷国映)で映写技師のバイトをしている。
>(154〜5頁、八月二七日)
日記形式というところがミソで、オヌマは自分の行動を対象化してクールに記述しようとするが、勿論それは不可能だ。おまけにオヌマは「顔色が悪い」と言われつづけたせいで(?)完全にキレてしまう。従って『ニューシネマパラダイス』のごとき感動的なラストを迎えることはない。彼は「顔色の悪さ」を指摘されても反論できず日記でそれをぶちまけつづけ、編集は狂いつづける。
>(八月八日、112頁)
これが(たぶん)「顔色が悪い」の初出である。さらに「顔色の悪さ」はつづく。それにつれて事態は切迫し、カタストロフへ一直線の様相を呈する。
>(八月一六日、132頁)
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解説は「哲学研究者」の東浩紀。『グランド・フィナーレ』と併読してみると、さらにおもしろいはずだ。
紙の本
こういう話も好きだ
2019/10/22 22:09
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
ずっしりと重たい大作「シンセミア」が2003年、芥川賞作品「グランド・フィナーレ」が2005年の作品。この作品はそのより以前の1997年の作品だ。前述2作品に比べると、というかあきらかに作風が違っているような気がする。明らかに21世紀の2作品よりも、この作品はとがっている。主人公オオヌマはイノウエだったりカヤマだったりする多重人格者なのだと読んでいる途中で私も気づき始めたとのだが、最後の章にとんでもないどんでん返しまで用意されているとは、ここまでは気が付かなかった。どちらの阿部が好きかと聞かれても、どちらも良いんではないですかとしか答えようがない。こういう話も好きだ
紙の本
90年代版「狂人日記」
2002/06/08 08:53
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投稿者:青月にじむ - この投稿者のレビュー一覧を見る
スパイ塾に所属していたオヌマは、ある事故のニュースがきっかけとなり、かつての仲間と再会する。その前後からの、渋谷の裏側の暴力的で猥雑な一面を執拗に描き出している。成り行きでヤクザと高校生とかつての仲間から追われるようになるオヌマは、あるときは妄想気味に現状を分析しては勝手に苛立ち、またあるときは映画館の従業員の娘アヤコとほのかな恋愛を始めてみたり。事態が進行するにつれ、パラノイア的な部分が大きくなり、周囲と自分の認識にズレができ始める様は、語る側の立場のあやふやさのようなものを感じさせる。この「語る」ことと人が認識するものといわゆる「事実」というもののズレとその危うさというものは、著者が一貫して作品のテーマとしてきていることだと思う。だから彼は手記や日記や聞き書きなどの「ある視点」から見た表現を好むのかも知れない。
その仕掛けは最後の数ページにも現れている。オヌマの日記の後に足されている数ページは、今までの私たち読者の認識を根底から覆すもので、物語の受け取り方をガラリと変えてしまう爆発力がある。
存在した筈の人を、他の誰も知らないという。自分が知っている事実と他の人の知っている事実がかみ合わない、またはあれほど鮮明な記憶なのに、そんなことは無かったと言われる。そんな経験、したことがあるだろうか。それって、周囲が口裏を合わせているのだろうか。それともここはパラレルワールドなのだろうか。それとも、自分が狂っているのだろうか──。そんな危うさを孕みながら、私たちは今ここに生きているのかも知れない。
文庫巻末の東浩紀の解説は、かなりの部分の謎解き(彼なりの解釈)がしてあるので、読むのは本編を読んだ後にした方がいいと思う。私には、とてもここまで深くは読めない。再度読み直してみる必要がありそうだ。
紙の本
インディヴィジュアル・プロジェクション
2001/12/25 20:04
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投稿者:333 - この投稿者のレビュー一覧を見る
解体したスパイ学校のようなところにいたオヌマの日記をもとに構成されている。
叙述に無駄があったような気がするし、詰めてなかったような気もする。日記なのだから無駄があったほうが自然なのかもしれないが、妄想のようなものをとり入れるのならそれをもっとおし進めて欲しかった。
五月から九月までの日数になんの意味があったのだろう?人物の配置の必然性が感じられなかった。多すぎたのではないか、読みにくかった。