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青柳瑞穂の生涯 真贋のあわいに みんなのレビュー

第49回日本エッセイスト・クラブ賞 受賞作品

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みんなのレビュー3件

みんなの評価5.0

評価内訳

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3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本

エゴと真贋のあわいに生きた男

2006/08/26 21:45

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:ろこのすけ - この投稿者のレビュー一覧を見る

阿佐ヶ谷の青柳瑞穂邸の引き戸をひくと鶏をぶらさげた太宰治が立っていて、井伏鱒二、堀口大學、亀井勝一郎、外村繁、火野葦平、木山捷平、小田嶽夫らが顔をそろえている。
戦前この阿佐ヶ谷界隈に住む文士らのたまり場を「阿佐ヶ谷会」と称し、戦後は青柳瑞穂の家がその集いの場になった。
阿佐ヶ谷会の文士達の知られざる素顔、生き様を本書から知ることができ貴重な記録でもある。
さて、本論に入ろう。
青柳瑞穂とは詩人、フランス文学者、骨董蒐集家である。
そして相当な美食家。
その美食も吝嗇に通じていて食べ物にお金をかけることを妻に許さなかった。「限られた費用で最大限においしいものを作ってこそ値打ちがある」という。
これはその骨董蒐集にも同じ理論を持つ。一流の古道具屋で買うのでなく、名もない古道具屋や田舎の蔵などから自分の目で掘り出した安いものにこそ価値があるとし、それを実行。光琳の唯一の肖像画を掘り出し、尾形乾山の「色絵桔梗皿」を発見。農家で平安時代の壷を見つけだし、民家からは14世紀の能面の初期の作品を見つけだした。
妻の兄が建てた家に住み、送金してもらいながら骨董品を買い集める。
資金繰りの為、仕方なくフランス語の翻訳、講師などをし、妻には質屋通いをさせ、美食を欲しいままにした。
家計のやりくりに疲れ追いつめられた妻は青酸カリを飲んで自殺。
妻の死にショックを受け酒を浴びるほど飲んだ瑞穂は、あげくのはて、飲み屋の女将を後妻にするのだから放蕩者もここまでくれば横綱級だろう。
最初の妻には、質屋通いをさせ、骨董品の掘り出し物を続々と購入。
これらの掘り出し物についての随筆「ささやかな日本発掘」は新潮社から出たが、この随筆の高雅な筆致を佐藤春夫がたいそう愛し、「内容は充実して幽情横溢、余情長く、文品は高雅に清澄。この一小文を以て文学史に永く彼の名を留めるに足る名作である」と絶賛された。そして後に第十二回読売文学賞の評論・伝記部門を受賞。
この受賞作品は全て亡くなった妻の実家が舞台である。またその鑑識眼と美意識の高さを買われて「芸術新潮」に骨董随筆を寄稿し阿佐ヶ谷文士特有の筆致が評判を呼んだ。
骨董蒐集で成功し、典雅な文を高く評価されたことが瑞穂の生活を堕落させ、フランス文学訳書に評価がなかった為、仕事を小さくさせてしまったことは皮肉なことだ。
妻が自殺したことから、一人息子は父瑞穂を決して許そうとしなかった。
骨董蒐集品は瑞穂亡き後は全て飲み屋の女将であった後妻のものになり、生前得た莫大な骨董売却費用は生前から後妻名義のマンションションとなっていた。
家庭よりも仕事よりも骨董を愛した瑞穂は没し、集めた骨董品は後妻に遺された。
骨董品、陶器類はやがて壊れ朽ちていき、散逸し、瑞穂の名も忘れ去られていくだろう。
しかし、骨董は滅びても瑞穂の遺伝子は遺り続ける。
本書の評伝を書いた著者は孫。瑞穂を生涯許さなかった一人息子の子供。
孫いずみこさんはピアニストでありドビュッシー研究家、著述家でもある。瑞穂はかつて「文学と同じくらいに音楽にもこころひかれ、ドビュッシー、ラヴェルの楽譜を蒐集していた」というから遺伝子の神秘である。
瑞穂にとって、楽譜もフランス文学原書も骨董も読み解くべき美の秘密を有した「テキスト」であり、テキストが秘めやかに語りかける「ほのかな美」の中にわけいることだったのだろう。
死して遺ったのは骨董でなく、かくも素晴らしい評伝を著した遺伝子だったとは神もあざとい!
高雅な名文を書き、エゴと真贋のあわいに生きた希有な男の生涯であった。

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紙の本

井伏鱒二ら阿佐ヶ谷文士らの骨董の師で、尾形光琳作の肖像画を掘り出した目利きフランス文学者。その生涯をピアニストであるお孫さんが書いた。

2002/03/20 10:56

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る

 中央線沿線、高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪のあたりって文化人が多いな…と、以前仕事を通じて感じていたが、不覚にもつい最近になってようやく、鎌倉文士に対して「阿佐ヶ谷文士」という言葉があったことを知った。そのリーダー格が尊魚堂主人こと井伏鱒二で、彼を慕って移り住んできた文士たちが集まっては飲み語り、ヘボ将棋を楽しんでいたという。阿佐ヶ谷会が盛んに開かれていたのは昭和30年代、その溜まり場としてよく使われていたのが、ここに書かれた青柳瑞穂の邸宅で、彼は副リーダー的存在だったらしい。

 瑞穂の孫であるいづみこさんは、多感な少女時代に、この家に出入りするユニークな文士たちを眺め、盛り上がるフランス文学論と酔っぱらっての大騒ぎを聞いて育った。
 メンバーは、瑞穂の師である堀口大学、上林暁、河盛好蔵、亀井勝一郎、火野葦平、外村繁、小田嶽夫、蔵原伸二郎といったところ。恥ずかしながら私は、彼らの著作や訳書をほとんど読んでいない。名前だけはよく聞くという人もいるが、全然知らない名前だってあった。でも、そういう会があったことを知り、その雰囲気を少しだけ嗅げたことだけでなぜか面白いと感じた。昭和13年ごろ最初に会が始まったころには、太宰治もよく参加していたそうである。

 いづみこさんは、今もこの文士たちが楽しく遊んだ阿佐ヶ谷の家に暮らしている。ピアニストであり、ドビッシー研究家であり、音大の教授という肩書きの教育者でもあり、音楽や本に関する著作も多いマルチな才女は、ある場面では自分に流れる瑞穂の血を愛すべきものとして認めつつ、ある場面では自分と瑞穂を隔てる美意識の差を冷徹なまでに分析していく。

 この本でいづみこさんは、昭和10年代前半に次々と会のメンバーが文壇デビューを果たしていくなかで、ひとり瑞穂だけが創作を離脱して骨董蒐集に精を出していった様を対照してみせることから始め、収集家としての瑞穂の軌跡と、翻訳業をなりわいにしていた生活者としての瑞穂の姿を浮かび上がらせていく。
 青梅街道沿いの古道具屋で、散歩の途中に、それまで存在など考えられていなかった尾形光琳の手になる肖像画(発見から22年ののち重要文化財に指定)を掘り出した瑞穂は、一躍美術界で注目を浴びるようになる。鑑定を頼まれる機会も増え、地方に出かけては気に入ったものを購入する。
 モーパッサンを専門として、渋澤龍彦に先んじて伝奇的なものの翻訳も試みた瑞穂は、かなりの印税を手にしていたが、次から次へと骨董にそれを注いでしまう上、美食家でもあったので、家計は常に破綻寸前。心労を重ねた妻は服毒自殺に至り、それを許せなかったいづみこさんの父君は、隣に暮らしながら瑞穂とは絶縁状態を保った。

 家族でなければ書けなかった傷みや深みのある伝記である。コレクターとして究めていく美感と生活感の乖離、文学の青春時代の沸騰など読みどころが多いが、瑞穂の蔵書で世界文学を浴びるように読んだ著者が、翻訳と演奏というものを比較しながら表現論、芸術論を展開していくくだりが私にはとても興味深かった。
 

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紙の本

戦前戦後、瑞穂宅のあった阿佐ヶ谷周辺の貧乏文士らの逸話が面白い

2000/11/07 00:15

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:安原顕 - この投稿者のレビュー一覧を見る

 青柳いづみこさんは優れたピアニストである。そのことはリサイタルでも実感、CD『ドビュッシー集I・II』などを聴いても知っていた。また彼女は「レクチャー&リサイタル」といった催しもする。それと同時、音楽研究者として『ドビュッシー 想念のエクトプラズム』(東京書籍)、『羽のはえた指 評伝安川加壽子』(白水社・第9回「吉田秀和賞」受賞)といった著書も書き、『ショパンに飽きたら、ミステリー』(国書刊行会)などの軽い読み物も書く。その青柳いづみこが、祖父の伝記を書き下ろした。青柳瑞穂は骨董の目利き、翻訳家として著名な人物で、エッセイ集『ささやかな日本発掘』で読売文学賞も取った。本書は骨董と翻訳を中心に、瑞穂の生涯が綴られるのだが、もう一つ面白いのは、戦前戦後、瑞穂宅のあった阿佐ヶ谷周辺の貧乏文士らの逸話である。そのことは例えば「IV章 阿佐ヶ谷会」などに活写されている。昭和13年(1938)3月3日、記録に残る最初の「阿佐ヶ谷将棋会」が開かれた。井伏鱒二の直木賞受賞を祝うためだった。二次会は行きつけの中華料理屋「ピノチオ」だった。この店、作家永井龍男の弟、元報知新聞記者永井二郎が経営する店で、他にも日夏耿之介、岸田國士も常連客だった。木山捷平『酔いざめ日記』によれば、幹事は小田嶽夫と外村繁。参加者は井伏、木山の他に古谷綱武、太宰治、中村地平らで、優勝者には黄揚の駒と銀製のカップが贈呈された。また井伏の『荻窪風土記』には、この将棋会、昭和4年頃から開かれていたが、「ピノチオ」での再発足は昭和8年、ある程度定期的になったのは昭和13年からのことらしい。哀しい話も出てくる。貧乏な癖に骨董を買い漁り、物のない時代、食事にも口うるさかった夫瑞穂との生活に疲れきった妻とよが昭和23年4月26日、青酸カリを飲んで自殺する。当然、瑞穂は大ショックを受ける。その葬儀に来た太宰治はその2か月後、富栄と心中する。とよの死は、母親っ子の息子茂にも大ショックで、それ以来、茂は父を許さず絶縁する。それからしばらくして、50歳の瑞穂は、翻訳『孤独な散歩者の夢想』で戸川秋骨賞を受賞、母校慶大仏文科予科の非常勤講師(金銭的には持ち出しとはいえ)になったりと、少しずつ明りも見えてきた。妻の死から一、二年後のことだった。それから数年後、瑞穂は妻をモチーフにした未発表の小説「夜の抜」を書くが、結局、作家の道は歩かなかった。

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