紙の本
イギリス版「渡る世間は鬼ばかり」の社会学
2001/11/01 17:54
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投稿者:たけのこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
帯に「ロンドン発、21世紀のディケンズ!?」とあるうち、ディケンズではなくロンドンのほうに反応して、裏をひっくり返してみたら、「三組の移民家族を中心に、カオスの都ロンドンを活写する」などと書いてある。こういう都市社会学を、読まずにすませるわけにいかないじゃありませんか。
イギリス労働者階級のアーチーと、バングラデシュ人でイスラム教を信奉するサマード。かつての宗主国と植民地に属する二人は、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の戦友であった。その二人が、戦後のロンドンでそれぞれ家族を作りながらも、街のパブで長年の交友を保つ。
アーチーの結婚相手はジャマイカ人のクララ。その母親ホーテンスは熱心な「エホバの証人」の信者である。アーチーとクララのあいだには、褐色の肌に青い目を持つ娘アイリー。サマードとバングラデシュ人の妻アルサナのあいだには、ふたごの兄弟マジドとミラト。やがてマジドはロンドンの都市下層社会であえぐサマードの希望を背負って、祖国バングラデシュでエリート教育を受ける。一方ミラトは、不良仲間(ストリート・ボーイズ)との交際を通して、イスラム原理主義過激派の青年団体に接近する。ふたごでありながら、マジドとミラトの運命は180度異なるものとなる。
またアーチーの娘アイリーは、総合中等学校の同級生で、ユダヤ人科学者マーカスの息子ジョシュアとつき合いはじめ、マーカスの秘書的な役割を果たすようになる。バングラデシュから帰ってきたマジドも、マーカスの研究に参加する。
ところがマーカスが進めていたのは、遺伝子工学によるネズミのDNA組み替え実験であった。これに、環境保護運動にかぶれたジョシュアが反発する。そこへイスラム原理主義のミラトや、アイリーの祖母で「エホバの証人」のホーテンスらもからんできて、アーチー、サマード、マーカスの一家が遺伝子工学・対・反遺伝子工学のイデオロギー戦争にドタバタと巻き込まれていく。
この小説、イギリス版『渡る世間は鬼ばかり』というか、あのドラマでの岡倉や幸楽やその他、岡倉家の娘たちの嫁ぎ先の物語が、ここではイギリス労働者階級やイスラム原理主義者やユダヤ人科学者のそれぞれ一家によって演じられているのだと考えればわかりやすい。物語が枝葉末節にわたって、登場人物が増殖しつづけるところもよく似ている。この小説では、家族間や世代間の対立が、社会構造における民族集団やその他の集団間の亀裂にそのまま(あるいは多少屈折して)重なっているのである。
英米でベストセラーとなったこの『ホワイト・ティース』、訳者解説によれば、「ハリウッドから映画化の誘いもきたというが、スミスはこれを断り、テレビドラマにしたいというBBCの申し入れを受託した」(下巻、pp.384-385)とのことである。さもありなん。一貫したストーリーよりむしろシチュエーションとギャグが持ち味のこの小説は、まさしく連続テレビドラマ向きの素材といっていい。
【たけのこ雑記帖】
紙の本
ユニークな移民家族たちの大河ホームコメディ。ディケンズやアーヴィングが試みた家族物語に、いくつかの騒ぐ血とグルーヴ感を加えて…。
2002/02/25 15:09
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
なるほど、カバーに書かれた通り、アーヴィングやディケンズらの先人が試みた「家族」のストーリーテリングを彷彿させる。登場する人物たちの滑稽ぶりを、その当時の流行のモノや人の名を織り込みながら雄弁に描いて、20世紀後半のロンドンのダウンタウンを活写するという実に意欲的な小説なのである。
作者のゼイディー・スミスは1975年生まれ。英国人の父とジャマイカ人の母をもつ魅力的な顔をした女性だ。ケンブリッジ在学中に草稿は書かれ、2000年に発表されたこの作品で複数の文学賞を受賞し、一大センセーションを巻き起こしたとの由、紹介がある。
とても20代前半のインテリ女性が書き下したとは思えないような内容だ。何人も出てくる男女一人ひとりの民族の血の昂ぶりと愛と性が細部まで描かれ、紹介される機会の少ない現代ロンドンのダウンタウンが、彼らの混在する不思議な場所として浮かび上がってくる。ダダダダーンという威勢のよさがある文体。中年男性の裏が、若い女性にここまでかかれてしまっているのでは立つ瀬がないね…といらぬ心配をしてしまうようなあざとい記述も多々ある。
この上巻では、戦地で特異な体験を共有したがために、生涯の友情を結ぶことになったアーチーとサマードというふたりの男性が各々辿ってきた道、辿っていく生活に1章ずつ割かれている。「アーチー」という下町育ちの英国人について書かれた章と、「サマード」というバングラデシュ出身の誇り高きイスラム教徒について書かれた章があるわけだが、このふたり、帰還してロンドンに定住してからは、毎晩6時から8時までオコンネルズという店で過ごし、ありとあらゆる話をしている。
よって二つの章は微妙にオーバーラップするが、往還する年代を書き分けることで、二人の出自と共通体験、彼らから次の世代へという流れがくっきり意識される仕組みになっている。
アーチーについては、イタリア人妻に離婚されて絶望し、往来のど真ん中で自殺を図ろうという1975年時点から話が展開していく。褐色の肌をしたジャマイカ人の若い娘クララと新たな恋に陥るわけだが、それが親戚や知人、職場の人間など周囲にどう思われているか無頓着ゆえ、あちこちでちょっとした騒動が持ち上がる。親友サマードとその妻アルサナの心配をよそに、クララは妊娠する。クララがアルサナに戦争で夫が受けた傷について問うところから、男たちの友情のきっかけが語り明かされていく。
サマードについては、双子の男児の父となり、参加した学校の評議委員会で白人女性教師に一目惚れするのだが、その情欲のエピソードから語り始められる。1984年のことである。インド料理レストランのウェイター職に満足していない彼の頭を、19世紀半ば英国勢力に抵抗したという先祖の英雄の血がいつもよぎる。インドでは首相が暗殺されて混乱が続くが、サマードは双子の息子のひとりを、英才教育のためバングラデシュに戻す決意をする。
限られた下町の生活空間を足場に、150年の時、インド大陸にカリブの島という土地を、縦横無尽に駆け巡るハイブリッドな小説世界が広がる。
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読んでるうちにスピードが出るタイプの本。メチャメチャ面白いっ。ストーリーと登場人物のハチャメチャ加減がいい。
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海外でどれだけ評判が高くても、どうしても理解できない小説というのはあるものだとつくづく思う。ゼイディー・スミスの処女作にして壮大な長篇小説「ホワイト・ティース」は自分には理解できない小説の一つだった。
例えば最近読んだジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」と比べてみたくなる。異邦人であることのアイデンティティと親と子という世代間の問題、更に移民一世と二世の問題、と、その骨格は本書とどことなく似ている。こちらはそれに戦争の体験が加わり、イギリスとインドという問題が加わり、政治、宗教、人種と多面的に問題が絡み合う。更に、もっとも根源的で相互理解不能な問題、宗教。これだけのテーマが少なくない登場人物を交えて語られる。意欲作であるし、プロットも見事だと思う。小道具としてもファッション、科学、なんでもござれで、エンターテイメント性にも優れているだろう。また、あとがきでも指摘されていたが根本的な楽天性というものもあり、かなりの長篇にもかかわらず読ませる力はある。
しかし、何が言いたいの、と「ホワイト・ティース」の主人公の一人のように質問したくなる。結局何が語られたのかというと、大きな疑問を手のひらに載せたままそこで立ちすくんでしまう感じなのだ。何もこれと言ったものが残っていない。面白かったかと言われれば面白かったし、エピソードも記憶に残っているのだが、今まで自分の中には無かったものが、ゆっくりと形をなしてくるような感慨が起こらない。それが自分にとってこの本の評価の根本に繋がる感情なのだ。
ひょっとしたらイギリス人はこういう、だらだらした話が好きなのだろうか。一人ひとりの歴史が少し丁寧に語られ、それがどんなトラウマとなって今の人生を制限しているかなんてことを考えながら読むのだろうか。そう言えば「ウォーターランド」という似たような語り口の小説もあった。
どうもこれ以上は何も出て来そうにない。もう一冊同じ作家の本があるのだが、手を伸ばせるだろうか。
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この小説を紹介するのは難しい。
ましてや上下巻の情までしか読んでいないので、なおさらに。
これといったストーリーがあるわけではないのだけど、躍動感あふれる文体がすごいんだ。
ホワイト・ティース=白い歯
どうしてこういうタイトルにしたのだろう?
最後まで読んでいないからはっきりわからないけれど、多分「白い歯」というのは分断の象徴。
例えば今のイギリスでは、「白い歯」でいられる階級、歯にお金をかけることのできる階級とできない階級というのがあるのではないか。
逆にインドの独立戦争の頃。
暗い闇の中に浮かび上がる「白い歯」が、敵の目印だったと。
事実はそうなのかはわかりません。口を閉じれば歯は見えませんからね。
闇の中の「白い歯」に向かって銃を撃てば、敵を倒すことができた時代。
狩る者と狩られる者。
移民の第1世代と第2世代の確執とか、白人と黒人が結婚することに対する口に出されることのない拒否感とか、深刻に書こうと思えば書けることを、ドタバタとコミカルに表現した後に残るものは…。
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「おれたちの子供はおれたちの行動から生まれる。おれたちの偶然が子供の運命になるんだ(十八字分傍点)。そうさ、行動はあとに残る。つまりは、ここだってときに何をするかだよ。最後のときに。壁が崩れ落ち、空が暗くなり、大地が鳴動するときに。そういうときの行動がおれたちの人間性を明らかにするんだ。そしてそれは、おまえに視線を注ぐのがアッラーだろうがキリストだろうがブッダだろうが、あるいは誰の視線も注がれていなかろうが、関係ないんだ。寒い日には自分が吐いた息が見える。暑い日には見えない。でもどちらの場合も息はしてるんだ(七字分傍点)」
ベンガル人のサマード・ミアーには学歴があったが、従軍中の事故で右手が不自由なため、やむなく従兄弟の店でウェイターをしている。サマードは、敬虔なムスリムとして生きたいと思いながらも飲酒や手淫、浮気といった罪から逃れられない。アーチーはイギリス風朝食と日曜大工を愛する白人。優柔不断で、何かを決める時にはコイン投げに頼る。イタリア人の前妻に逃げられ、自殺を試み失敗した後、コミューンで出会ったジャマイカ出身の美しい黒人娘クララと再婚した。第二次世界大戦の終末を遠い異国で共に迎えた二人は、女房そっちのけで、始終オコンネルズというアラブ人が経営するカフェで顔を突き合わす毎日。
いろいろな国からやってきた移民が集まるロンドンの一地区で暮らす二組の家族に、もう一組ドイツ・ポーランド系のリベラルなチャルフェン一家がからんで起きる家庭騒動を、コミカルななかにも辛口の諷刺を利かせた、とびっきり愉快な英国流風俗小説である。移民にはそれぞれ異なるアイデンティティがある。宗教がちがえば、夫婦関係のあり方や子育ての仕方も異なる。そこから生じる実に様々な齟齬が、ほとんどマンガチックと思えるほど戯画化され、極端から極端に走る子どもたちの行動が、英国だけにとどまらない、信仰と科学、イデオロギーの衝突といった諸々の現代的な問題を引き起こす。
ジャマイカ系のクララは「エホバの証人」の熱心な信者である母を嫌い、ヒッピー仲間のコミューンに逃げ込んでいてアーチーと出会った。母は、今でもランベス自治区でクララのかつてのボーイフレンドであったライアン・トップスと布教活動を共にしている。そのライアンの計算によれば、世界の終りは一九九二年十二月三十一日に訪れる。二人はクララの娘アイリーにそのことを警告する電話を何度もかけてよこす。
サマードの双子の息子、マジドとミラトは二人とも類い稀な美貌の持ち主だ。ただ、それ以外は正反対。成績良好でイギリス人たらんとする学者肌のマジドに比べ、弟のミラトはマフィア映画にかぶれ、デニーロやパチーノの真似をし、ギャング仲間を引き連れて歩く不良少年だが、やたらと女性にもてる。ファミリーという集団に固執するミラトはイスラム系の過激な集団KEVINと行動を共にするようになる。同じ頃、チャルフェン家の当主マーカスの秘蔵っ子となったマジドは大晦日に行なわれる科学イヴェントに向けて準備を進めていた。
遺伝子工学で癌細胞を移植したマウスの公開実験を目的とするイヴェントは、神の意志に背��行為として反対を唱えるエホバの証人やKEVINの他に、動物愛護を唱える団体FATEからも攻撃されていた。そこには運動を主催する女性に魅かれて仲間になったマーカスの息子ジョシュアもいた。こうして、三家族の子どもたちがそれぞれの立場から、マーカスとマジドのイヴェント阻止に向けて一気に行動を起こす。
自分たちの主義主張が正しいと信じて行動に飛び込んでゆくのは、若者の特権のようなものだが、自分たち以外の人間の思想や信仰、慣習を認めない不寛容さは、多様性を認めない窮屈な世界を現出してしまう。大人になれば、その性急さも理解でき、一歩離れた位置から見直すこともできる。一概に愚かしさを責めるのではなく、カリカチュアライズすることで、相対視させるのが、ゼイディー・スミスの真骨頂だ。
笑われているのは若者だけに限らない。カルト的な宗教者やタコツボ的な視野でしか周りが見えない科学者、せっかくイギリスでの生活を選びながら生国の縛りから抜け出せずにいるサマードのような移民たちも同じだ。それらをいかにも滑稽に描いてみせるが、上から目線で見るような意地の悪いものではない。自身英国とジャマイカ生まれの父母を持つスミスの視線には心ならずも移民となった世代に寄せる愛情がこめられている。
自在に回想を挿入し、時代や空間を自由に行き来するスミスだが、収拾がつかないほどこんがらがっていた多くのエピソードが次第に一点に集まってきて大団円を迎える展開は、しっかりしたプロットあってのことである。多少あざとくも見える結末のつけ方も、巧妙に張りめぐらせた伏線のせいもあって、不自然さを感じさせない。これが大学在学中の作品だというからその才能の豊かさには驚くよりほかはない。なにより、アーチーやサマードをはじめとする中年男性のセックスその他のどうしようもない生態が、あからさまにされているところに驚きもし、感心させられる。うら若い女性作家の筆になるとは到底思えない。こうした才能が歳を重ねたらどんな作品を書くのだろう、と末恐ろしくも楽しみなことである。(下巻も含む)