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「戦争はいつも正義の御旗の下で行われる」
こんなことは当たり前になっています。が,しかし,その正義がどのような形で作られていくのか,それを解説したのが本書です。
「われわれは戦争をしたくない」という前提があったはずなのに,最後には「この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である」という社会にまで落ち込んで行ってしまう。ここまで来てしまうと,わが国の戦争に反対するのはもちろん,疑問を呈しただけでも「非国民」「敵のスパイ」扱いされてしまいます。
本書では,主に第1次世界大戦と第2次世界大戦で繰り広げられた各国(敵味方が同じような事を言っている)のプロパガンダについて取り上げていますが,それは決して昔の話ではありません。そのことを,コソボ紛争を取り上げて示してくれています。そう,人類はいつも同じ間違いを起こしているのです。そして,9.11以後もそれがくり返されていることを本書の前書きで指摘しています。
日本は残虐な行為をしたとばかり言えない。戦争って結局そういうもんなんだということも分かります。自分のやったことは小さく見せて,人のやったことは大きく見せる…それだけのことです。
著者は,ではわれわれがプロパガンダに巻き込まれないためにどうすればいいのか,その最後の策も示してくれています。
多くの場合,人々は敵陣に懐疑主義があるのを喜び,自分の陣営ではそれを歓迎しない。だが,超批判主義を通せばーたとえ,否定主義のような嘆かわしい愚直さに行き着こうがー良心を殺すこともない。行きすぎた懐疑主義が危険であるとて,盲目的な信頼に比べれば,悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアが日常的にわれわれを取り囲み,ひとたび国際紛争や,イデオロギーの対立,社会的な対立が起こると,闘いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては,とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。(188ぺ)
今の日本の状況を見ても,そうとうなプロパガンダがはびこっています。
・北朝鮮の指導者が悪い。
・韓国,中国は,民主的な国ではない。
・朝日新聞は,亡国的である。
・自衛隊を認めない日本人はあり得ない。
まだ,何も始まっていないのに,この調子です。
あれ,もしかしたら,すでに始まっているのかもしれません。
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書かれていることは「それはそうだろう」「当たり前じゃん!」ということがほとんどなのだが、それにもかかわらず被支配層が騙され続けるのはいったいなぜなのか。この疑問に対する処方箋は書かれていないが、本書は「いま騙されている自分」に気づく契機とはなるかもしれない。
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第一次世界大戦に書かれたアーサー・ポンソンビー「戦時の嘘」にまとめられた戦時プロパガンダに関する10個の法則。著者のアンヌ・モレリは、この10の法則を2001年当時までにあった新たな戦争・紛争・冷戦・「漠然とした敵対関係」に敷衍し、同時にメディアや証言などの証拠を例示することで、法則の汎用性を示す。その適用範囲は、様々な主義主張の国家、そしてそこに属する政治家、マスコミ、作家、文化人までに及ぶ。
近代以降、国家は戦争をするのに国民を説得し同意を得る必要がある。戦争は経済的・地政学的利益のために行われるが、国民の理解を得るのは難しい。そこでプロパガンダや言論統制(国家が直接関与するものでも国民間で自主的に行われるものでも)が正当化される。
1. われわれは戦争をしたくはない
2. しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3. 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4. われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
5. われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
6. 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7. われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8. 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9. われわれの大義は神聖なものである
10. この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である
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インターネットで情報が溢れる現在,プロパガンダはより一層巧妙になっている。少し足を止めて,じっくり考えたい。
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各章のタイトルが、戦争へ誘導するストーリーになっている
10章の最後のくだりが、我々に問題を投げかけている
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戦争プロパガンダ 10の法則
著者 アンヌ・モレリ
訳者 永田千奈
草思社
2002年3月29日発行
1.われわれは戦争をしたくはない
2.しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3.敵の指導者は悪魔のような人間だ
4.われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
5.われわれも誤って犠牲を出すことがある。
だが敵はわざと残虐行為におよんでいる
6.敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7.われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8.芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9.われわれの大義は神聖なものである
10.この正義に疑問を投げかける者は裏切者である
これが、戦争する時に国が行うプロパガンダだという。
確かに、その通り。そして、前半については、なんだか今、国会でやりとしているような内容・・・戦争プロパガンダとまではいかなくても、戦争準備プロパガンダと言われても仕方ないような状況である。
後半のプロパガンダが行われるような事態にならないことを祈るばかり。
1928年に出版されたアーサー・ポンソンビーの衝撃的な著書『戦時の嘘』において、第一次大戦中、イギリス政府が、あらゆる国民に義憤、恐怖、憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵をかき集めるため(当時、イギリスでは兵役が義務ではなかった)、「嘘」をつくりあげ、広めた。彼はその「嘘」を暴こうとした。この本は、それを第二次大戦はじめ、NATO軍によるコソボ紛争(旧ユーゴ)での空爆に至るまでの、最近(と言っても日本での出版が2002年)の戦争にも当てはめ、10の法則として整理した本。
戦争は、でっち上げだったことが、あとから分かってくることがとても多い。
例えば、湾岸戦争のとき、西側メディアが、イラク軍に捕らえられた西側のパイロットの、殴られて顔が腫れあがった姿をこぞって報道した。だが後になって、パイロットの顔の傷はイラク兵による拷間ではなく、飛行中の航空機から飛び降りたときにできた痣だったことが判明し、暴行の事実は否定された。これに関しては記憶が甦ってくる人も多いはず。
同じく湾岸戦争の時、油まみれになった水鳥映像が配信され、フセインによる油田破壊が原因だと我々は信じ込まされていたが、後からアメリカの空爆が原因だと分かった。
先日読んだ「戦争広告代理店」でも明らかにされていたが、今、戦争を有利に進めるためには、PR会社による情報操作のようなものがとても重要になる。この本によると、湾岸戦争の時もそうだったようだ。クウェート侵攻を制裁するにあたり、アメリカが、国民の支持を得るため、広告会社ヒル・アンド・ノールトンの流した情報を利用し、紛争介入を青定する一大キャンペーンをおこなったのは周知の事実である。このキャンペーンの中心になったのは、保育器を盗もうとしたイラク兵が、なかにいた未熟児を放り出したというエピソードであり、国会でも国連でも、ブッシュ大統領(父)の演説でもこの話が繰り返し引用された。この作り話はアメリカ世論の転換に大きな影響を与えた。のちに、この話は、クウェート人有力���の出資を受け、広告会社がつくったでたらめだということが判明したが、その効果は絶大だった。
こんな話は昔からあったということも、この本は明らかにしている。
第一次世界大戦時における連合国側のプロパガンダで、もっとも成功をおさめたのは、大戦時に流布した「手を切断されたベルギー人の子供たち」の話である。噂の推移を追跡したところ、1914末、身体の一部を切断する残虐行為があったという話が報じられ、1915年になると「手を切断された」という具体的な表現が定着したことがわかる。当初は、政府のプロパガンダとは無関係なところで生まれたが、プロパガンダに利用し、ドイツ兵の残忍さを印象づけることで、国境地帯に住む多くの国民が住居を離れて集団避難しようとするきっかけとなった。国際世論に広く、ベルギー難民の窮状とドイツ軍の残忍さを訴える好材料になったという図式らしい。
今、安保法制の成立に突き進んでいるが、そこに出てきているのが中国。中国による海洋進出の無法ぶりが強調され、反中意識が増殖され、人々の中にも「憲法違反くさいがそれどころではない」という意識が生まれてきているのは否定できない。政府はあくまで「合憲」としているが、国民の多くは「違憲」ないしは「違憲くさい」と思っている。それでもなおかつ、成立に向かって突き進むことを許しているのは、“日経平均株価”とともに、このような戦争プロパガンダ的手法があるのではないかと思えてくる。
プロパガンダが犯した犯罪性は、必ず後になって判明する。それは歴史が証明している。
そして、この本において、歴史的な事象を分析する中で明らかになっていること。それは、ヒトラーも行ってきた、こうした10の法則を、アメリカのルーズベルトや、フランス、イギリスも同じくやってきた、そういう事実である。
我々がヒトラーだけを悪魔にして安心している危険性。
それを知るべきである。
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「われわれは戦争をしたくはない、
しかし敵側が一方的に戦争を望んだ。」
プロパガンダを知ったところでも
きっとわれわれは今なお先人たちのように情報をうのみにしてしまう…たしかにそう思う。
敵は悪魔のような人間だ!
われわれが戦うことは仕方ない!
これが正義だ!
ほら、あの知識人たちも
みんなそう言ってるだろ?
この正義に疑問がある?
お前は裏切り者だ!!!!
っていうことが書いてある本です
目次から非常に分かりやすく、
すらすらと読める本でした。
こういう本読んでも
過去の戦争のことを学んでも
戦争はなくならないのです
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戦争前後で話す内容ががらっと変わることがよくわかる本でした。
政治家、役人、軍人がプロパガンダをしていて、広告業者が戦略を練り、アーティストやミュージシャン等クリエイターがマスメディアを使って大衆に広げていく様が説明されてます。
多分平和なときにも政敵や商売敵倒すためにやる人もいるんでしょうね。
やたらと攻撃的な政治家がマスメディアにでてるところとか見るとそうなんだろなと思います。
マスメディアも気に入らない人や企業を攻撃してますし。
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【感想】
「この30年間、私たちが粘り強く忍耐強く、ヨーロッパにおける対等かつ不可分の安全保障の原則について、NATO主要諸国と合意を形成しようと試みてきたことは、広く知られている。私たちからの提案に対して、私たちが常に直面してきたのは、冷笑的な欺まんと嘘、もしくは圧力や恐喝の試みだった」
「私たちは、1940年から1941年初頭にかけて、ソビエト連邦がなんとか戦争を止めようとしていたこと、少なくとも戦争が始まるのを遅らせようとしていたことを歴史的によく知っている」
「現在起きていることは、ウクライナ国家やウクライナ人の利益を侵害したいという思いによるものではない。それは、ウクライナを人質にとり、我が国と我が国民に対し利用しようとしている者たちから、ロシア自身を守るためなのだ」
以上は2022年2月にロシアがウクライナに宣戦布告をした際のプーチンの演説である。発言の全てが「敵国(NATO)が世界に混乱をもたらしており、ロシアは常にその犠牲者だった」「われわれは利権のためではなく、平和のために戦う」といった欺瞞に満ちている。
だが、こうした「戦争を立派に見せる」ための印象操作は、世界大戦以前から行われてきた歴史あるプロパガンダ戦略の一つである。本書では、過去に行われた戦争とその当事者――勝者であれ敗者であれ――がいかに綺麗ごとを並べ侵略を正当化してきたかという事実を列挙し、「戦争プロパガンダ10項目の法則」を検証していく。
例えば、5つ目の「敵はわざと残虐行為におよんでいる」というプロパガンダについて。
第一次世界大戦時、連合国側のプロパガンダでもっとも成功をおさめ、政治的に大きな影響力を持ったものに「手を切断されたベルギー人の子供たち」の話がある。1914年末、連合国側によって「ベルギー民間人の身体の一部を切断する残虐行為が行われた」という話が報じられ、1915年になると「手を切断された」という具体的な表現が流布され始めた。いずれも出所は不明で、実際に切断された犠牲者たちが表に出てくることはなかった。
しかし、「手を切断」という言葉は非常にセンセーショナルだった。「野蛮人に対して善悪の裁きを下す戦いだ」という倫理的な動機や「長く厳しい戦いになりそうだ」という予感など、当時の世論を集約し、象徴するものとなったのだ。この噂話によってドイツ兵の残忍さが印象づけられ、国境地帯に住む多くの国民が住居を離れて集団避難しようとするきっかけとなった。
噂話は戦場から遠く離れたアメリカにも影響を及ぼした。1915~16年になるとアメリカの中立主義が揺らぎはじめた。「ベルギー支援協会」がベルギーの子供たちの救済をかかげ、ドイツ軍の侵攻に苦しむベルギー人に向け古着や食糧を送ろうと、広くアメリカ国民に対して訴えたことが、そのきっかけになった。
また連合国は、イタリア各地で「手を切断された子供たち」の話を繰り返すことで、イタリア国民に連合国側に加わり参戦することを訴えた。
しかし終戦後、プロパガンダに心を動かされたアメリカ人富豪が、手を切られた子供と会って話がしたいと、密使をベルギーに派遣した。ところが、誰一人として実際の被害者を見つけることができ���、やがていずれのケースも作り話であることが判明したという。
戦争を始めるには徹底的な「敵国vs自国」の構図を作り上げなければならない。敵が自分と同じく善良で価値観の合う人間でいてしまえば、攻め入ることで国民からの反発を招く。事実、ベトナム戦争はあまりにも「正直に報じすぎてしまった」ため、アメリカ国内で反戦運動が活発になった。味方からの非難を防ぐためには、相手は血も涙もない野蛮人で、あちらから一方的に攻撃をしかけられたため、わが国は「自衛と平和のために」「やむを得ず」「素晴らしくフェアなやり方で」敵と戦う、というスタンスを築かねばならないのだ。
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以上が本書の一部のまとめである。
本書が発行されたのは2002年、同時多発テロおよびアフガニスタン紛争勃発後である。既に20年以上経過しているため、本書で取り上げられている戦争は、2度の世界大戦、湾岸戦争、ユーゴスラビア戦争、アフガニスタン紛争、とやや古い。加えて現在では刊行当時よりインターネットやSNS等が発達しており、プロパガンダの方法に大きな変化が生じている。具体的には、デマ情報をSNSで流布するネット工作や、ハッキングとスパムによる通信中枢の乗っ取りといった、「情報戦」の多様化だ。しかし、本書で描かれた10項目は昔から続くプロパガンダ戦略の本質をまとめたもので、現代でも全く古びていない。ウクライナやパレスチナといった現代戦での情報発信のされ方にも通ずるものがある。決して色褪せない一冊だ。
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【まとめ】
1 われわれは戦争をしたくはない
近代の国家元首は、戦争を始める直前、または宣戦布告のその時に、必ずといっていいほど、おごそかに、まずこう言う。「われわれは、戦争を望んでいるわけではない」
戦争および戦争に伴う恐怖は、たしかに常識的に考えて歓迎すべきものではない。よって、まずは、平和を愛していると見せかけるほうが得策というわけだ。
太平洋戦争が始まったときの日米のそれぞれの国では、ほとんど同じ言葉を使って演説を行っていた。どちらも平和を望み、開戦には決して積極的でないと語っている。
1939年9月1日、ヒトラーはポーランド侵攻に際し、ドイツ国会を召集した。彼は平和主義をかかげ、平和維持のための努力について語っている。
「私はこれまで、状況建て直しを図ろうと努力してきた。われわれはいつも武力に訴えるなどと言われているが、それはまったくのでたらめだ。あらゆる機会をとらえ、私は一度ならず、交渉によって必要な改善策を得ようとしてきた。(中略)オーストリア、ズデーテン、ボヘミア、モラヴィアとの問題も平和的な解決を試みたが、惜しむらくは結果を得ることができなかった。(中略)ドイツとポーランドの間に平和的な協力関係を築くためには、方向転換が必要なのである」
2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
両陣営とも、相手国が流血と戦火の悲劇を引き起こそうとするのを阻止するために「やむをえず」参戦するという構図を取る。そして対戦国は、常に条約を踏みにじったとみなされ、自国の参戦は攻撃に対する「報復」と主張する。
第一次世界大戦��ロシアとフランスで同時に出された召集令がドイツの宣戦布告の引き金となったことは、フランス政府も承知していたはずである。しかし、フランスは召集令を出しておきながらドイツの宣戦布告を待ち、1914年8月4日になってから、大統領および首相の声明としてこう発表した。
「フランスが参戦するのは、非常に不本意でありながら、ドイツ側からの突然、卑劣で、陰険な想像を絶する敵意の表明があったからに他ならない」
3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
たとえ敵対状態にあっても、一群の人間全体を憎むことは不可能である。
そこで、相手国の指導者に敵対心を集中させることが戦略の要になる。敵にひとつの「顔」を与え、その醜さを強調するのだ。
戦争の相手は必ずしも「ドイツ野郎」や「ジャップ」ではなく、ナポレオンであり、カイゼルであり、サダム・フセインなのだ。(ちなみに、一番容易な方法は相手をヒトラーに例えることである)
こうして指導者の悪を強調することで、彼の支配下に暮らす国民の個人性は打ち消される。敵国でも自分たちと同様に暮らしているはずの一般市民の存在は隠蔽されてしまうのだ。
たとえば第一次大戦以前、オーストリア皇室はベルギー王室と親交が深く、イギリスでもドイツ皇帝は敬愛の念をもって迎えられていた。「皇帝ヴィルヘルムは、高貴な紳士そのものといっていい方であり、そのお言葉は、幾千の儀礼的な誓約よりよほど信頼できる」
ところが、大戦が始まるやいなや、度を越した悪評が皇太子に集中し、さらには皇帝にも向けられた。「従順な国民を野蛮な一団に変えてしまった犯罪的な君主、犯罪的な皇室を排除することができるのならば、われらがイギリスはその血を惜しまない」
4 われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
多くの場合、経済効果を伴う地政学的な征服欲があってこそ、戦争が起こる。だが、こうした戦争の目的は国民には公表されない。
近代においては国民の同意がなければ宣戦布告ができない。多くの国では憲法によって、開戦に先立ち、国会での決議が必要とされている。その国の独立、名誉、自由、国民の生命を護るために戦争が必要であり、この戦争は確固たる倫理観にもとづくものだとなれば、国民の同意を得ることはそう難しくない。
そこで、戦争プロパガンダは、戦争の目的を隠蔽し、別の名目にすり替える。たいていの目的は領土の拡大、貿易の独占、金銭の貸付など、産業的・商業的な競争だ。しかし、それを公式文書では隠蔽し、軍国主義の打倒、小国の保護、民主主義の確立、人道支援といった大義名分にすり替える。もちろん、勝った場合は領土や賠償金といった戦利品を堂々と要求するも、対象的に、掲げていた介入目的は結局実現されないことが多い。
5 われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる
戦争には犠牲はつきものだ。味方も例外ではない。しかし、プロパガンダによくみられる現象とは、敵側だけがこうした残虐行為をおこなっており、自国の軍隊は国民のために、さらには他国の民衆を救うために活動しており、国民から愛される軍隊であると信じ込ませようとすることだ。
敵の攻撃を異常な犯罪行為とみなし、血も涙もない悪党だと印象づけるのがその戦略だ。
どちらの陣営だろうと、暴力というのは程度の差こそあれ残忍なものであり、状況、手段、訓練や命令のあり方次第では、想像を絶する激しいものとなる。だが、戦争プロパガンダは、こうした暴力を用いるのは敵側だけだと思い込ませ、自国の軍隊が暴力的な行為をしたとしても、それは失策や不注意から「不本意に」起きてしまったことだと主張する。
6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
第5の法則の当然の帰結としてこの第6の法則が成り立つ。
わが陣営は、残虐行為はおこなわない。そればかりかまるで何かの競技、それも過酷で男性的な競技のようにルールを守ってフェアな戦いをおこなっている、というのがよくある主張だ。
必死に戦っているのに勝利の可能性が感じられず、新兵器をもっていないぶん自分たちのほうが不利だということに気づく。自分たちが使えない兵器を、敵が一方的に攻撃に用いるのは卑怯だと思う。かくして、自国がおこなうときには合法的かつ巧妙な戦略として有効な「奇襲」も、敵陣が仕掛けてくれば卑劣な行為と非難する。加えて、自分たちが使う可能性のない兵器だけを「非人道的な」兵器として非難するのだ。
また、敵に大きな打撃を与えた場合、たとえ民間人が巻き添えになった場合でも、攻撃を仕掛けた自国の陣営が悪いのではなく、民間人のなかに戦闘員を隠し、人間を盾に使った敵陣が悪いのだという主張をすることもある。
7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
戦況が思わしくない場合、プロパガンダは自国の被害・損失を隠蔽し、敵の被害を誇張して伝える。
第一次大戦はこのときすでに情報戦であった。情報を「伝えないこと」も、また情報戦のうちである。開戦から1ヵ月、フランス軍の被害はすでに死者約31万3000人にのぼっていた。だが、フランス軍参謀は、軍馬一頭の被害もいっさい公表せず(英軍、独軍のような)戦死者名簿も発表しなかった。おそらく、軍内部および国民が士気を失うのを恐れてのことだろう。多数の戦死者が出ていると知れば、戦争を続けるよりも和平を求める声が増えるだろうと考えてのことだ。
また、明らかに敗退した戦いについては、ごくあっさりと闇に葬られた。
8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している。
プロパガンダは人の心を動かすことが基本だ。感動を呼び起こすため広告会社に依頼して、芸術家や知識人が国民の良心に訴えるキャンペーンを展開する。
9 われわれの大義は神聖なものである
神が後押しし、支えてくれるという意味で、戦争の神聖さ、重要さを強調する。
だが、民主主義、文明、自由、市場経済といった概念も、不可侵の価値をもつものとして宗教と同様の意味をもつことが多い。近年の紛争でも、聖なる善の民主主義が「野卑な国家」や「悪の軍隊」と戦うという図式が展開された。
10 この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である
戦争プロパガンダに疑問を投げかける者は誰であれ、愛国心が足らないと非難される。いや、むしろ裏切り者扱いされると言ったほうがいいだろう。
戦争が始まると、もう誰も、公然と戦う理由を尋ねたり、本来の意味を「ねじまげる」ことなく和平を口にしたりすることはできなくなる。メディアは政治権力と密着した関係にあり、いざとなると本当の意味で意見の多様性を守ることはできないのである。
もちろん欧州の各国の憲法では、言論の自由が保障されており、これは戦時でも変わりない。だが、現実として、自由な発言を続けることはかくも難しいのだ。戦時には、政府に対する批判をさし控えるというのが暗黙の了解なのである。