- 現在お取り扱いが
できません - ほしい本に追加する
キャッチャー・イン・ザ・ライ みんなのレビュー
- J.D.サリンジャー (著), 村上 春樹 (訳)
- 税込価格:1,980円(18pt)
- 出版社:白水社
- 発売日:2003/04/01
- 発送可能日:購入できません
- 予約購入について
-
- 「予約購入する」をクリックすると予約が完了します。
- ご予約いただいた商品は発売日にダウンロード可能となります。
- ご購入金額は、発売日にお客様のクレジットカードにご請求されます。
- 商品の発売日は変更となる可能性がございますので、予めご了承ください。
紙の本
サリンジャーのライ麦畑でつかまえて
2008/11/16 08:05
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:龍. - この投稿者のレビュー一覧を見る
サリンジャーのライ麦畑でつかまえて。
この本は、大学生の時に英語で読んだのが初めて。
その時に訳本も一緒に読んだので、今回で3回目です。
私が大学生の時ですから、かれこれすでに20年前。
光陰矢のごとし・・・
ともあれ、今回は村上春樹さんが新訳の本です。出版当時、村上さんの訳ということで話題になった本です。
ただ訳者が変わったからといって、もちろん内容は変わりません。
内容は、ホールデン少年の日常生活を通して、少年の持っている漠然とした不安とその葛藤を描いたもの。
いわゆる青春小説。
この本をはじめて読んだとき、私とホールデンの年はほぼ一緒でした。ですから、ホールデンの心情にとても共感した記憶があります。
今回は・・・ちょっと様子が違っています。訳者が変わったから、ということではありません。村上さんの訳は、現代調でいいです。ただ自分の青春時代の言葉とは、違うのです。もっと心に響く言葉だったような・・・
あきらかに原因は訳者にあるのではなく、自分自身にあります。
学生から社会人になって、純粋な部分が失ってしまったのでは?
極端な話、あの頃、共感したホールデンの心情が、今ではわがままな少年に思えてしまう。
若いときに読むべき本なのでしょう。
かなりさびしい感覚。
龍.
http://ameblo.jp/12484/
紙の本
ま、村上春樹が訳すから傑作、てなふうな幻想から私たちも抜け出てもいいんじゃあないかって思うよね、でも村上が訳さなかったら私の中でいつまでもこの本は読まない傑作だったんだから、やっぱり感謝はするね
2003/08/10 20:53
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初に書いてしまうけれど、ダメ男がでてくる小説ってのは、面白くないんだよね。勿論、若さってのは愚かさの代名詞ではあるし、そこに共感を抱くって言うのは分からないではないけれど、ユーモア小説でもないのに、愚者礼賛てのはね、現代人には合わないって思うんだよね。で、村上春樹の新訳が出るまでは、読んだこともないけど、長年気にはなっていた、知り合いが青春小説の傑作というこの本を、わくわくしながら読み始めたわけ。ちなみに、いろいろ話題になった「奴さん」云々は、何度読んでも探し出せなかった、ほんにおまえは屁のような。
語り手は僕。現在、ハリウッドに住む兄は作家でDBで表現される。僕はペンシー・プレップスクールという、ペンシルヴェニア州のエイジャーズタウンにある学校の学生。サクソン・ホール校とのフットボールの試合の日、フェンシングチームとニューヨークから帰ってきた。交流試合に行ったのに、マネージャーの僕が用具一式を地下鉄に置き忘れ、試合が出来なかったから。ここらあたりで、少しも反省しない主人公に共鳴する人、嫌いになる人が分かれる。
僕は4科目に落第点をとりながら、何もする気がせず、学校から切り捨てられた形で退学処分。ルールを守ることが全く出来ない僕。試験の答案用紙にも、不真面目な答を書きながら、むしろ悪いのは先生ではないか、とふと思ったりもする。スペンサー先生との話の最中でも、関係ないことばかり考えている。そんな僕だから、退学はこれが初めてではない。ウートン・スクールでも、エルクトン・ヒルズでも退学になっている。勿論、僕の中では、自分から辞めたのであって、退学させられたのではない。
僕の名前はホールデン・コールフィールド、家族の中で一人だけ頭が悪い。嘘つきの三年生。ヘビー・スモーカーで、アルコールが大好き。面白い話であれば興奮して、他人の言葉など耳に入らなくなる。勿論、童貞、といってもそうならないように頑張りはしたんだけどね。喧嘩も弱いし、ちゃんとしたデートも出来ない。弟のアリーは、二歳年下、1946年に白血病で亡くなっている。多分11歳の時だ。妹はフィービー10歳、今も元気だ。退学処分の手紙が家に届くまでは、両親がうるさいだろうから家に帰りたくない。とりあえず、ホテルで時間を潰そうと、少ないお金を持ってNYに向う。出るのは嘘ばかり。人に文句をいわれれば黙り込み、娼婦を買っても何も出来ず、夜中だろうが何だろうが思いついたら、電話をしたり人の家に押しかける。
ジェーン・ギャラガーは、恋人というか片思いの相手。サリー・ヘイズは美人で格好いいのに、簡単に声をかけることが出来る。思いつきの寄付をしたり、お金もないのに妹へのプレゼントを買ったり、嘘の読書感想を平然と口にしたり、街の子供達に声をかけたり、はっきりいって怪しい青年。デイトに現れたサリーの美しさに、結婚を思いついたり、嫉妬をしたり。
多分、この本が最初に出版された1948年?には新鮮だったんだろう。長い戦争が終わって、暴力的でも、道徳的でもない、かなり酷いだろうダメ男の話が、当時の人々に衝撃を与えたというか、共感を得たというのが分からないでもない。でも、今の時代、現代小説に出てくるのはこんなダメ男ばかり。村上春樹の軽めの訳文は、確かに主人公にはぴったりだし、時代を感じさせない。誰が、第二次大戦の臭いを嗅ぐことが出来るだろうか。サリンジャー自身、時代を描くというつもりはない。だから、私はあくまで現代小説としてしか読むことが出来ない。大したことないじゃん、こんな奴、最近の小説じゃあ当たり前。角田光代『愛がなんだ』を読みながら、もしかして今ではこっちのほうがダメ人間としては上ではないかと思ったり。娘も同じことを言っていた。読者だって世代交代をしている。名作が、いつまでも名作であり続けるということこそ幻想だろう。
紙の本
凍った池のアヒル
2003/09/21 17:04
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
ニューヨークに着いたホールデンは、二十分くらい電話ボックスの中でぐずぐずして結局誰にも電話をかけず、ほとんど放心状態のままでタクシーに乗る。「セントラルパーク・サウス通りの近くに、アヒルのいる池があるじゃない。わりと大きな池だよ。あのアヒルたちって、池が凍っちまったらどこに行くんだろうね?」「俺のことをからかってんの?」「いや、そうじゃなくて、ただ知りたかっただけだよ」(9章)
物語の後半、ろくでもないバーですっかり酔っぱらい、手持ちの金が尽きかけてタクシーに乗る余裕もなくなったホールデンは、ずぶずぶに切ない心をかかえて公園に向かう。「池はある部分は凍り、ある部分は凍っていなかった。でもアヒルはただの一羽もいない。…もしまだそのあたりに居残っているとすれば、アヒルたちはきっと水辺近くの、草のわきとかで寝ているはずだと僕は考えた。おかげで池にあやうく落っこちそうになったわけさ。ともあれ、アヒルは一羽もいなかったね。」(20章)
タクシーの運転手から狂人でも見るみたいな目で見られ、「知らんね、マック」と素っ気なくあしらわれたホールデンは、ここでも、ろくでもないバーの電話ブースから出てちょっとした会話を交わしたろくでもないピアノ弾きから「おとなしく家に帰りなって、マック」と、とてもフレンドリーとは言えない態度であしらわれている。
この凍った池のアヒルたちが、「だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところ」(22章)というイメージと重なっていて、その重なりが死んだアリーと生きているフィービー、「僕」と「君」、スペンサー先生とアントリーニ先生等々の人物の分岐や、電話とタクシーと「マック」で対句的につながってく場面の対称ともパラレルになっているわけだ。だからどうということはなくて、ただそれだけのことなのだけれども。