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紙の本
死を選ぶまでの揺れる気持ちが迫ってくる
2003/04/22 17:38
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ナガタ - この投稿者のレビュー一覧を見る
思春期の少年、少女が自ら死を選ぶ時。だれかに自分の決意を気付いてほしいけれど、本当に気付かれてしまっては、彼/彼女の決意は実行に移せなくなる。右へ、左へ大きく揺れながら、ふらっと揺れの勢いに背中を押されて、一歩を踏み出してしまう。その子を失った周囲にしてみれば、腕の中からスルリと抜け落ちて、手の届かない場所へ行かれてしまった、そのような気持ちになる。
このような、分かったような事を書くのは、私自身、最近、友人になることができたと思っていた親しい少女に、先に逝かれてしまうという体験をしたからである。
ドイツの作家レンツは、15歳の少年が死を選ぶまでの過程を、とてもリアルに描くことに成功している。
少年アルネは、一家心中した彼の家族の唯一の生き残りである。父親の親友が、アルネを家族の一員として受け入れることにした。一家には子供が3人いた。長男は親に頼まれたせいもあり、責任感をもって、いつもアルネの見方として接してやっていた。年の功ゆえに、アルネが、外国語習得能力に極めて長け、高い知性を備えていることを素直に認めることもできた。しかし長女、次男はそうではなかった。とりわけ、アルネが密かに思いを寄せた長女が、彼の存在を拒否した、という事実が、少年には重くのしかかった。
長男といつも遊ぶアルネ。長女、次男は近所の悪ガキたちと、おんぼろ船を改造して海に出る等々、子供らしい無邪気な遊びにふけっている。アルネは仲間に入れてもらいたいと切に願うが、少年少女は残酷だ。船の改造にお金がかかると知ると、ならば自分の貯金をと差し出すアルネ。その瞬間だけ、仲間入りが許される、という構図は、近年、日本の学校社会で子供達が金銭に絡んだいじめを繰り広げるとの現状に、通底する。子供の世界は残酷で、現実的である。
とはいえアルネは、本当に、孤独だったのか。一家の両親は彼を大事に扱っている。長男という味方もいる。なぜ少年は、死を選ぶほどの孤独感にさいなまれたのか。
いじめが綿々と発展するうちに、彼の味方であったはずの一家の居候的男性を、アルネは裏切る行為を仲間から強いられてしまう。アルネはその行為の意味を、こう捉えたはずだ。道徳を以て考えれば、大人の側につくべきである。でもたとえ一瞬であっても仲間に入れてもらえるのならば、子供たちのいいなりになるか。
悲痛なクライマックスは、ぜひ、美しい日本語の手本のような訳文で味わっていただきたい。救いのない結末ではあるが、読めば、作者が主人公を奈落の底に落として物語を終えている訳ではないことが分かる。最後の2段落が、この悲しい物語に救いを与えている。
紙の本
小説表現の「細部に宿るもの」——それは、自分の小さな持ち物を撫でて思い起こす出来事や、ひとりの夜更けに甦ってくる、あの日のあなたの言葉にも似て…。
2003/04/10 22:53
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投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
「遺品」という言葉がタイトルに含まれているので分かる通り、亡き人を偲ぶ物語である。10代の若者が、しばらく寝起きを共にした義理の弟アルネ少年の身の回り品を整理しながら、自分の頭のなかの記憶もいっしょに「あるべき場所」へとしまい込んでいく。
特徴的なのは、ナラティヴ(話術)である。主人公である「ぼく」が、アルネ少年との出会いから別れまでを語るのだが、随所に故人への呼びかけが交じる。
ナラティヴの問題というのは文学の重要な要素であり、構成に特徴をもつメタフィクションという試みともリンクする。研究者でもない私は、それを広く俯瞰するような地図を持たないが、ナラティヴの話題で必ず出てくる「信頼できない語り手」については、クローネンバーグ監督映画『スパイダー』の原作のレビューで、知っていることを少し書き出してみた。
語り手をどうするか、構成をどうするか——書き手たる小説家がその二つに無頓着でいられないのは、考えてみれば当たり前のことである。だが、読み手の側としても頭に入れておくと、今注目される現代作家たちが、それらにいかに神経を遣っているかが分かる。たとえば読みかけの『昏き目の暗殺者』の作家アトウッドなどは、「意識の流れ」の技法で知られるH・ジェイムズを読み過ぎたというだけあって、その最たる例となっているようだ。
本書の作家レンツの場合、ナラティブに特徴があるといっても、それは決して技巧的なものではない。信頼できない語り手でもない。ひとりの人間の悲しみという感情の流れを追うに、死者に呼びかける語りの選択はごく自然なものであろう。
同意を求めたり問いかけをしながら、今の自分と過去の自分についての告白も行う。語りかける相手が限定されている表現——それは、とても親密で閉じられたものであるがゆえ、読者は本来なら近寄ることのできないはずの個人の魂のある場所に寄り添うような経験をさせてもらえる。
旅先で手に入れた置物、忘れられない人からの手紙、めぐり逢うべくしてめぐり逢った本など、誰にでも一つや二つ、ごくパーソナルな持ち物があることと思う。
同時に、そこにはごく私的な物語も付随する。
人にない才能をもちながらも不幸な運命に翻弄されたアルネ。その遺品を整理する主人公は、アルネ少年にとって心強い相談相手であり、信頼できる兄であり友人でもあった。したがって、いくつもの遺品が少年と主人公にとって共通の記憶の大切な象徴であるわけだが、亡くなったアルネにしか意味が分からないものもある。
私たち一人ひとりのなかに、誰にも伝えようがない体験や思いというものがあって、それはいつか必ず死と共に滅びていく。そんな切ない感懐に至らされた小説ではあるが、その一節一節の細部の表現のなかに宿るものが、「だからこそ私たちはどうあればいいのか」と、ゆっくり静かに呼びかけてくるのである。
紙の本
いまさらこの本を、とは思うんだけれど読んだ以上は、何かを書かなきゃいられないのが女の性(さが)。時間が経つほど、心に霧が忍び込む
2003/05/31 20:44
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
今回は一気に内容に入る。いやその前に、本のカバーに載っている作家 中沢けいの言葉も紹介しておこう(手抜きじゃあないよ、ホント)。「港町にあらわれたアルネ少年について知りたくなるにちがいない。聡明なアルネ少年がなぜ死ななければならなかったのかをどうしても知りたくなる。それは親しい人を思う気持ちに似ている」
天気は、きっと曇りだろう。柔らかな、それでいて決してきらきらすることのない、丁度フェルメールの絵の、あの左から差し込むような光に中で、ひとり遺品を前に手を休める「ぼく」の姿から小説が始まる。少年が勉強していたフィンランド語文法の本、アルネの眼の高さに貼ってあったボスニア湾のカラー地図、木製の小さな灯台の模型、プルノウが分けてくれたスコットランド製の純毛毛布、マニラ麻のロープ。色あせたカーレバッセ。
静かなドイツの港町。窓の外を見ている「ぼく」が、車から降りる少年を見つける。それが、一人旅立っていったアルネとの出会いだった。沿岸ディーゼル船の持ち主であった彼の父は、家族を道連れに自殺を図る。両親と二人の姉は死に、彼だけが蘇生術で息を吹き返す。それが少年十二歳のとき。船長の友人だった父は、少年を引き取ることを決心する。彼らの前に初めて姿を見せた華奢な少年、アルネ。その彼が家に来て、姉の遺品をハンスの母エルザにプレゼントする場面には、ちょっと驚く。そのお礼に、父ハラルドがあげたのが自分の手作りの灯台と周辺の模型だった。その時、ぼくハンスは17歳。アルネの亡くなった姉と同い年。少年の目を惹きつけた妹ヴィープケは14歳、そして口の悪い弟のラース。少年を兄弟のように受け入れなさいという母。
そうして、屋根裏のハンスの部屋でのアルネの暮らしが始まった。彼が、身の回りに自分の世界を構築するかのように、自分の荷物をきちっと並べていく緊張感。丁寧に折りたたまれたハンカチ、フィンランド語の辞書と文法の本。学校の先生も認めるアルネの語学力。モールス信号をたったの二日間でマスターする懸命なアルネ。飛び級でヴィープケと同じ学年に入りながら、自分でわざと成績を落としていく少年。アルネとヴィープケ。アルネとラース。そしてアルネとハンス。そして、いつまでも周囲に溶け込めないままに、小さな悪意が少年の心を、少しずつ、外からやっと窺えるくらい、ちょっとだけ、そして実際には、もっと深く傷つけていく。少年を大切にしよう、優しく見守ろうとする人々の心と、それを出来ない子供たち。
「北ドイツの港町ハンブルグを舞台に、美しいエルベ河畔の自然の中で、ゆっくりと進行する」。これは出版社の謳い文句だけれど、自然の描写は殆どといっていいほど無い。ドイツ人には、ハンブルグ、エルベ河畔でひとつのイメージを抱くことができるだろうけれど、日本人にはそうではいかない。それを補うかのように、港の情景はしっかり描かれている。そこで流れる、緩やかな時間、現代の喧騒が嘘のような世界。時間は、遺品を片付ける現在と過去を行き来するけれど、それは少しも煩雑なものではない。ヨーロッパの曇り空のもとで、ヴィープケを賛美し憧れながら、それを口にすることも出来ず、孤立していく少年の姿は、あまりに哀しい。それが、さらに彼に悪意を招き寄せる。どこにでもあるイジメのパターン。
この小説に、アメリカ映画風の感動を求めてはいけない。生も死も、愛も憎しみも、あるものとして淡々と現実を見つめる上質のヨーロッパ映画を思ってもらうのが一番。生きていて欲しい、どんなに惨めな姿になっていてもいい、もう一度姿を見せて欲しい、そう祈るのはハンスやヴィープケ、そしてラースだけではない。読んだ時は、そうでもなかったけれど、今こうして評をかいていると、目の前が滲んできて、鼻の奥がツーんとしてくる。こんな静かな涙は久しぶりだ、困った、こまった、コマッタ…
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