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いや、つまんないですよ。でも、だからこそが読むべき本かも。
中年が弟子の女学生に恋愛感情を抱き、彼女に男が出来たと発覚すると身悶えした挙句彼女が故郷に帰るとなれば残された蒲団の匂いを嗅いで号泣するというあまりにも有名な話。これに共感できちゃった人はまあ、ごめんなさいと言う事で。
しかし。重要なのはあまりにも私小説の形式を取っているにも関わらずこれが完全なるフィクションだったと言うこと、そしてそれまで作家としては燻っていた田山花袋はただ「文壇というものにに衝撃を与える」事のみを目的として書かれていたと言うことだ。つまり、文筆業で喰っていく為の確信犯。もしかしたら本書は20世紀初頭における赤木智弘の「丸山真男をひっぱたきたい」ではないだろいうか、と言う考えはさすがに飛躍しすぎか。少なくとも本書が未だに自然主義の文学で語られている事自体がその影響の現われなんだろう。まぁ、僕はこれが自然主義だとは断じて認めませんが。自分の内面についてうじうじ思い悩む事が自然であってたまるかよ。
「蒲団」が発表されてもはや100年が立つが、今は世の中にはこれより醜悪な自己の恋愛語りが溢れかえり、ネットでは誰もが自分語りをする時代。田山は何を思うのだろうか。
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うーん。作中の考え方に対する?マークが気になってしまった。
なんで肉の恋愛はあんなに忌まわしく扱われるのか。生得した身体が思想に影響を与えるのか。よくわからなかった。
時代背景としては自然主義西欧的思想が主流になり始めてる頃のはず。フェミニズムはまだ叫ばれてなかった頃なのかな。
読みやすかったし、赤裸々ですごい。
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話の筋を読んでみて、主人公の心情に沿っていてなるほどと思ったが、それでどういうことなんだ?だから何なんだ?と理解出来なかった。
この疑問は福田恒存の現実的な解説で氷解した。福田氏曰く、「花袋はあくまで芸術作品を創造するひとであるよりは、芸術家の生活を演じたかったひと」。だから、主体的な問題意識が欠如していて、言いたいことが分からなかった訳だ。解説に依れば、自分は世間から真面目に思われてるけど、本当はこういう一面もあるんだよ、という作者の自己紹介が「蒲団」の意図だったらしい。けれど、それじゃ作者本人にしか意味がない。作者本人の意味に価値を置くのは、内田百間にも通じるが(川村二郎『内田百間論』)、花袋の場合、百間のような自然的なまでの普遍性がない。そのため、作品の迫力や深みにおいて隔たりが大きく感じられる。
福田氏はそれでも花袋をいくらか評価しているが、私は「そんなもの読む価値ない」という柄谷行人氏の率直な意見(『必読書150』太田出版)に賛同したい気がする。
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島崎藤村の「破戒」と並び、自然主義文学の代表作であるのみならず、私小説の先駆けとなった作品であり、人間の性欲や嫉妬心などを露悪的に描写したことで文壇に衝撃を与えた問題作。そしてその反響の大きさゆえ当事の作家たちを島崎の「破戒」の方向ではなく、私小説の方向へと向かわせたといわれている。自己の体験をありのままに小説としてぶち上げるという手法は斬新であり(実際にはフィクションであるらしいが)後世に与えた影響は計り知れないのだろうが、はっきり言って「ただのキモいおっさんの物語」である。実際、多くの知識人にこきおろされている曰くつきの作品である。
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「蒲団」は面白かったです。建前では精神の恋愛、肉体の処女性に拘る主人公の本心は、ただ若くて美しい女性への欲望のみという人間臭さ。個人的に賛同はできませんが、物語としては面白かったです。
「重右衛門の最後」は、正直物足りませんでした。よくあるこの時期の文学作品という感想しかありません。重右衛門、村人たち、そして主人公という三つの視点から物事を見ることができることや、同じような遍歴をもった人物が繰り返し登場するなど、研究の対象としては目をつけやすいところが多いと思いますが、物語としての面白さはいまいちです。
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作品紹介:『蒲団に残るあのひとの匂いが恋しい―赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。その新しい作風と旺盛な好奇心とナイーヴな感受性で若い明治日本の真率な精神の香気を伝える。』
言わずと知れた自然主義文学の代表的作品。写実主義,ロマン主義を経てこの作品につながり,白樺派や余裕派に繋がっていく。
時系列的には,「重右衛門の最後」の後に「蒲団」が描かれたらしい。この本の解説には田山花袋作品の特徴について書かれている。
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課題図書。かと思ったら違っていた…。主人公のだらしなさが非常に興味深く、一気に読めました。衝撃のラスト(!)はさておき、僕はこの主人公は好きですね。
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中島京子版の予習として。今読むと、変態どころか、かなりストイックです。ちっさ!とは思います。クンカクンカするところで終わりですが、読者にはそのあとを想像する楽しみが与えられます。蒲団クンカクンカ後は、油染みのリボンをアソコに結びシコシコしているところを奥さんにみつかる、とか。
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【禁断の恋に落ちる男の壮絶な感情劇!】
妻と子ども3人と暮らすある文芸家の話。ある日、田舎から文芸家に憧れる女学生が家にやってくる。それまでの生活に飽きを感じていた主人公にとって、そのことが大きく生活を変える。
女学生の美しい姿、素晴らしい才能に恋心を抱くようになる。しかし、それは許されることのない恋である。しかし、そうこうしているうちに女学生には恋人が出来てしまう。
恋人と結婚したいと懇願する女学生は、結局父親に連れられて田舎に帰ることに・・・。
女学生が去った部屋で、一人彼女が使っていた蒲団に顔をうずめて泣き崩れるところで話は終わる。
男の女に対する心情が、非常にリアルに描かれており、とても読んでいて臨場感がある。30代半ばは、当ストーリー同様に、夫婦の中に低迷感が漂う時期。自分自身が、そうならぬよう、何をすべきかを考えるきっかけにもなるのではないか。
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文学史上、自然主義のさきがけとなった記念碑的作品「蒲団」、らしい。妻子持ちの花袋が女弟子を好きになっちゃってでも手はだせなくて懊悩煩悶鬱々とする話。と、信州田舎の村落でとんでもないやつを村みんなで殺害する「重右衛門の最後」。殺害というより自己防衛に近いけど。両方とも明治の作品だけどあまり抵抗なく読めました。
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主人公である書生の中年男・時雄は妻子持ちではあるが、弟子として東京にやってきた女学生の芳子に好意を抱いている。そんな中、芳子に田中という恋人が出来る。
これから(近代)の女性は自由であるべきだ、などと賢そうに説いておきながら、「師弟関係にあるんだし、俺は芳子を監督しないといけないんだ」という口実で芳子を拘束しようとする時雄。たくさんの矛盾やエゴが時雄を操ってゆく。
時雄は何度も「ヤったのか?田中とはもうヤったのか!?」と芳子の純潔性の有無に拘り、神経質になる。女の私に理解することは難しい事なんだろうけど、現在でもこういうある種エゴイスティックな思考を持ってしまう男性は多いんじゃないかな、とは思った。人気漫画の美少女キャラクターが非処女だと判明した途端に一部のオタクがブチ切れて単行本を破り捨てる等の暴走をインターネット上で多数披露、漫画休載にまで貶めた、というニュースもまだ記憶に新しい。
芳子が故郷へ連れ戻された後、時雄は芳子が使っていた部屋に入って蒲団や夜着の襟の匂いを「心のゆくばかり」嗅ぎまくる。思わず、うわあ……と感じてしまう。しかし、そこに確固としてある「人間らしさ」の赤裸々な描写に惹きつけられた。ある意味これは「人間に不可欠な気持ち悪さ」なのかもしれない。
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青空文庫にて「蒲団」のみ読了。
明治の作品としてはさきがけであったにだろう。
しかし、今では当たり前になってしまった思考なので、その当時の驚きは薄くなってしまうのだろう。
引用
「夜着の襟の天鵞絨の際立って汚れているのに顔を押附けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。」
▶この後に性欲が先にきているので時雄の気持ちは、肉の恋であるのだが。この臭いを嗅ぐという行為は様々な思いから来ている。
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初読。通説に寄れば私小説の濫觴とされる本作。背景には鴎外や露伴ら明治知識人の碩学には到底敵わない浅学な若手小説家が、自己を披瀝する率直さで勝負に出たところ、エポックメイキングな対抗軸を打ち立ててしまったという事情がある。花袋はさながら小説界のセックス・ピストルズである。現代的私小説観に照らせば主人公は固有名詞を持ち、話者は非人称で、筋も単調な浮気の成り損ないでしかない。読者がただそこに著者を投影しているに過ぎず、事実モデルとなった少女は帰郷せず花袋の養女となり、その関係が周囲に認められてさえいた。そうした不道徳をすることに抵抗はなかったが、それを文学のために擬装することは恥じたのだ。毀誉褒貶の毀と貶ばかり聞き、柄谷行人をして読まなくていいと言わせるほどだが、それでも日本文学全体が永く花袋の蒲団の中に包まれていたのも事実なのだ。
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(1966.03.31読了)( 1964.06.25購入)
(「BOOK」データベースより)
蒲団に残るあのひとの匂いが恋しい―赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。その新しい作風と旺盛な好奇心とナイーヴな感受性で若い明治日本の真率な精神の香気を伝える。
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嫉妬というと、"女の"嫉妬なんてわざわざ"女"を強調したりすることが多いが、なぜだか"男の"嫉妬、という言い方はあんまりしない。でも別に、嫉妬という感情に男女の別があるわけではない。ただ、男は嫉妬を「権力闘争」や「大人の対応」なんて言葉で都合よく包み隠しているだけだ。
文学者である竹中時雄の元へ、文学を志す女学生からの熱心な手紙が届くようになる。彼女が後に正式な弟子として受け入れることになる芳子。かつて情を燃やしたはずの妻にも飽き飽きしていた時雄は、芳子にいつしか好意を抱くようになる。芳子の恋人である田中との仲を芳子の"師"として諭し心配するフリをして、内心は嫉妬心を強くするひとりの中年男性の苦悩を描く。
話が進めば進むほど、この身勝手な中年男子が変態的にすら思えてくる。男が理想的な女を規定したがるのは現代にも通づるものがあるが、そのくせ自分は嫉妬心を燃やし、芳子を失えば彼女が使っていた蒲団の匂いを嗅いだりするのだ。
こうした男の女に対する態度だけでなく、旧式の女性(時雄の妻)vs新時代の女性(芳子)という世代間での対立構造もまた現代に通づるものがあって、明治時代とて日本人は根本的に同じなんだなぁと思ってしまう。従ってそこまで大きな違和感なく読めるが、「あぁそんなに嫉妬したんだねー大変だったんだねー」以上の感想は抱きづらい。私小説ってやっぱりこんなもの?そしてちょくちょく出てくるロシア文学が知識があることだけをひけらかしているようで逆に嘘っぽくないか?