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広く人々に事実を真実を伝えるのがマスコミの存在意義。
一方で事実を広めるために誇張、ねつ造という手段をとる。
どこまでがセーフ?どこからアウト?
本書は再現は必要だがねつ造はアウトって立場で
様々な事例を検証しております。
新潮社の新書はタイトル付けがうまいね。
中身は?
(・∀・;)
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[ 内容 ]
初日に釣れたのに、最終日に釣れたとして盛り上げる釣り番組。
新郎新婦はニセ物、村人が総出で演技する山あいの村の婚礼シーン。
養蚕農家の生活苦を、擬似家族が訴えたドキュメンタリー作品―。
視聴者を引きつけようと作り手が繰り出す、見せるための演出、やむを得ない工夫。
いったいどこまでが事実で、どこからが虚構なのか?
さまざまな嘘の実例を繙くことで明らかになる、テレビ的「事実」のつくられ方。
[ 目次 ]
第1章 テレビ的「事実」はこうして作られる(作り手の工夫はどこまで許せる? なぜ幻の魚は旅の最終日に釣れるのか ほか)
第2章 ドキュメンタリーとフィクションの境界線(「事実」と「再現された事実」 再現映像はゴールデンタイムの主役 ほか)
第3章 NHKムスタン事件は「やらせ」だったのか(犯罪と指弾された「内輪の常識」「やらせ」とは何か ほか)
第4章 テレビの文法(いち早く「再現」を認めた欧米 「あるがままの事実」と「もうひとつの事実」 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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テレビや映画のドキュメンタリーはどこまでが真実なのか。再現、演出、演技は許さない虚構か、やむをえない工夫か。視聴者側とあまりにもかけ離れた制作者側の意識。ドキュメンタリー制作に携わってきた著者が明らかにするドキュメンタリー制作の事実。
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テレビのやらせはどこまでが許されるのか? について書かれた本。
生中継の映像以外は、リアルではなく、誰かの考えが入ってしまうのは仕方がないと思う。
のんきな視聴者とすれば、わかり易くしてもらうことが一番ですが。
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図書館利用。
高校新書レポート用。
テレビを全部を全部信じてはいけないと思った。
この頃、ちょうどあの納豆ダイエット事件が話題だったので、タイムリーだった。
ただ、レポートを先生にはボロクソに批判された苦い思い出がある。
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「テレビの嘘を見破る」3
著者 今野勉
出版 新潮社
p103より引用
“事実の前にまず謙虚であること、”
演出・脚本家である著者による、
テレビのヤラセ問題についての一冊。
1993年に放映されたドキュメンタリー番組等、
具体的な例を数多く挙げてこの問題について書かれています。
上記の引用は、
ドキュメンタリストの姿勢についての著者の意見の一文。
画面に映される世界の自然等の素晴らしい事を、
確かめに行く事が出来ない今の自分の状況を謙虚に受け止めて、
毎日頑張りたいと思いました。
映像がどの様に作られるか興味のある方に。
ーーーーー
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ドキュメンタリー番組の「やらせ」は「演出」として許容されるのであろうか。
この話をスパイラル形式で書き進めているため、結論が徐々に変わっていく。
そして最後は有耶無耶で終わっている。
テレビの嘘を見破る方法が書かれているのではない!
最近は情報自体に価値が出てきたため、素性が重要になってきたそうだ。
制作者はそれを明らかにする必要があるが、視聴者も制作手法を勉強しなくてはならないらしい。
ドキュメンタリー番組は、単に事実を記録したものではない。
そこに含まれる何らかの意図、それをどう判断するかは視聴者自身なのだ。
著者はドキュメンタリー番組の制作者でもある。
彼の作った作品は信頼できるのかもしれないが、お話としては面白くないだろう。
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作為=工夫とするならば、「嘘を見破る」というこの作品のタイトルさえも見事なレトリックが施されているに違いない。無意識に読者を誘う巧妙な手口は流石プロ。
ドキュメンタリー番組の制作においての事例をいくつか挙げて説明しているが、ヤラセや嘘を見破るというよりも、そのヤラセや嘘を前提にして結果的には全てを丸め込もうとする意図が感じられる。
テレビの向上的な工夫というよりも、視聴率主義への妥協的な作為が見え隠れしているような、改めてテレビの倫理性を疑ってしまうような仕上がり。
テレビを作る、見る側様々な立場からあらゆる意見が出そうな一冊。
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テレビの嘘を見破るということで、製作者サイドからそれが「やらせ」か「演出」かについて語られている本です。
正確には本書では、「テレビ」の嘘ではなく、「ドキュメンタリー番組」の嘘を検証するということになります。本書は2004年に書かれている本で、もうずいぶん古い情報となります(中古で買った本だからしょうがないけど)。その書かれた2004年からさらに古い1993年のNHKムスタン事件についても検証しています。
っということで、情報自体がずいぶん古いですね。
さて、内容についてですが、「やらせ」や「誇張」や「再現」「演出」など、さまざまな実例をベースに作り手の工夫といったところから、ここまでならどう?それじゃ、この例は?といった形で読者に投げかけてきます。
しかし、正直、文章でその例を挙げられても、ぴんとこない。映像分野なので、映像で語ってくれないとつらい。イメージできないところもあります。これはテキストの限界ですね。今後、電子ブックがはやっていくと、こういったところでは、動画が出てきて、わかりやすくなっていくんでしょうね。(おっと脱線)
さて、本書では、どこまでが許されて、どこまでが許されないか?
それをベースとしての作り手の苦悩
などが語られているわけですが、それは、作り手側の一方的な視点でのみ語られており、受けて側の視点の掘り下げが足りません。
結果的に、作り手側の言い訳にもとられてしまう内容となっています。
それがちょっと残念かなと。
受けての一人として思うところは、誰かの手を通して発信されている情報はすべて、その人の意識や意図が入るものでしょうから、ニュースにしろ、ドキュメンタリーにしろ、その情報発信者が何を訴えたいのかを見てあげることが重要かなと思います。
2011年の今では、視聴者はおおよそ、TV上の演出って理解していると思うんですけどね。その上で、自分が共感したもの(感情が動かされたもの)が事実だったのか、演出だったのか、捏造で作られたものだったのかが許せる、許せないの境界なのかもしれません。
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かつての「ドキュメンタリーの名作」には、登場人物すら「やらせ」「演出」のものがあった! 告発や暴露ではなく、テレビが映し出す「事実」とは何かを考える本。
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[2012.その9]番組の作り手が考えるドキュメンタリーのあり方。「やらせ」という言葉があらゆる所で使われている現在、何が「やらせ」なのか?「やらせ」、「虚偽」、「歪曲」、「捏造」...映像を作る上で避けて通れない宿題を提示してくれる一冊。
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今野さんの本。テレビにまつわる話題は最近多いが、来る時が来たとも思うし、これからはもっとだなとも思う。ドキュメンタリー映像の制作において交わされてきた論議やその制作現場の葛藤。「関係性の開示」というキーワードは時代の流れの中から執拗に迫られ出たある意味方法論。メディアリテラシーとは何か。今や映像の情報を利用する、分析するという意味でのリテラシーは熟成しないうちに、それを上回る勢いでネットのそれの方が格段に浸透している感。情報に接する際の受動か能動かという話はもはや情報の質という角度ではあまり意味がない。映像制作や番組制作サイド側が何を前提に制作をしているのか、前提としてるものは本当にあるのか。情報がよりパーソナライズされ提供されていくことが必至な状況の中で、最近よく言われるテレビの「公共性」とはどういう意味をもつのか。放送もひとつの解体された情報の要素として受け取られ消費されて行くことがこれからのリテラシーであるとすれば、今後の状況の中でメディアとしてテレビが果たしていく役割はどこにあるのか。とか。
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ドキュメンタリーのやらせはどこまで許されるか、について様々な作品の例を出して検証。
…なのだけど結局「ドキュメンタリーはどこまでも自由なものなのです」みたいな結論でモヤモヤ。どうせやらせのないドキュメンタリーなんてものはない!もう最初から割り切ってニセモノのバラエティ見てた方がいいわ!という気にすらなった^^;
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ドキュメンタリーのあり方を具体例を出しながら分かりやすく解説してくれた。
しかし、結論にはがっかり。。
まぁ物事を多方面から見る事の大切さと答えが無いのが答え、ということもあるのだと再確認させられ楽しかった。
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ドキュメント作品を作る上での再現場面がどこまで許されるべきか? 記録と事実の違いを考えさせられます。