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紙の本
夜ごとの愉悦
2005/11/26 14:04
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
四季歌をあつかった上巻を読んでいた時は、連日、陶酔に次ぐ陶酔だった。下巻に入って、恋歌[こいか]のあたりで王朝和歌の遊戯性が薄っぺらなものに感じられるようになった。言葉の多義性と呪術性をとことん活用し、二重三重に意味の層を重ね描いていくパランプセストとしての王朝和歌。それが薄っぺらだと感じるのは、読み手の言語感覚が硬直していたからだろう。読み手の側の心のありよう、というか身体のありようがそこに反映していたに違いない。
丸谷才一は、遊戯性を必ず社交性とセットで取り上げている。「呪術としての詩はやがて社交の具としての詩となり、さらには藝術としての詩へと進化する──もちろん呪術といふ要素を幾分かは残したまま」。この「社交性」は、松岡心平が『宴の身体』で、連歌は「言葉のまわし飲み」であり、連歌が張行される場は文芸における「一揆」的場であったと書いていたことにつながる。
会話が弾んで、何を言っても聞いてもおかしくておかしくて、笑いがこみあげてとまらなくなることがある。「天使が通る」とか「三人寄れば文殊の知恵」という言い方があるが、その時その場にたちこめている言葉は、私の言葉でも座を共にする相手の言葉でもない。非人称、無人称、多人称の次元から響いてくる、もしくは洩れてくる言葉に酔っている。躰が言葉に動かされていく。王朝和歌の「社交性」とは、たとえばそのような体験のうちに今も息づいているのかもしれない。
薄っぺらに思えた王朝和歌がほんの数日でもとの輝きをとりもどし、その後は最後まで一気呵成に愉しめた。丸谷才一の文筆の冴えは恐ろしいまでの域に達している。以上、とりわけ印象に残ったフレーズ。
第76番・和泉式部「黒髪のみだれもしらず打伏せばまづかきやりし人ぞ恋しき」をめぐって「王朝和歌の基本的な技法の一つである本歌どりは、単なる模倣では決してなく、継承であり、展開であり、唱和であり、それゆゑ一つの批評のあり方なのだ」と書き、また第95番・慈円の「旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな」について「かういふ和歌はただ口ずさめばそれでいい。まるで自作をつぶやくやうにして。あるいは空港の待合室で、あるいは夜半の寝覚めに」と綴る。
源実朝の「いつもかく寂しきものか葦の屋に焚きすさびたるあまのもしほ火」をとりあげ、「現代短歌はこの一首にはじまる」と記す。「もともと和歌は単にテクストを読むだけでは充分でなく、そのテクストをマージン(欄外、余白)のやうに囲み込む作歌事情まで視野に入れるとき、はじめて十全に理解できるたちのものであつた」。なぜか。第一に、和歌が極端に短い詩形だからであり、第二に、和歌が「やがて文学となつたものの、それでも相変らず呪文および社交の具といふ性格を捨てなかつたせいであつた」と喝破する。
──さて毎夜の慰めを失って、これからどうやって就寝前の無聊を癒すか。最初から読み返すのもいいが、それは後の日の愉しみにとっておこう。さいわい、安藤次男の『完本 風狂始末──芭蕉連句評釈』(ちくま学芸文庫)が手元にある。まずは「狂句こがらしの巻」(『冬の日』)から、おもむろに頁を繰るか。
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