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スペードの女王・ベールキン物語 改版 みんなのレビュー
文庫
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紙の本
省略の妙、または寒い国の熱い話
2009/12/08 20:30
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:風紋 - この投稿者のレビュー一覧を見る
現代の小説の饒舌に飽いた人は、省略のきいた古典で口なおしするとよい。『ペールキン物語』なぞ、どうだろう。稀代の詩人にして反逆児、専制政治の犠牲者、プーシキンの代表作の一である。
5編の短編から成る。たとえば「駅長」のあらすじは、こうだ。
<私>は、「***県」の駅馬路(うまやじ)の「***駅」で、駅長とその14、5歳とおぼしき美貌の娘ドゥーニャに出会う。数年後、同じ駅に立ち寄ったところ、駅長は見る影もなく老いこんでいた。聞けば、<私>が出立してまもなくドゥーニャは失踪した、という。ドゥーニャはさる貴族の囲い者となったらしい。駅長は、風の便りをたよって、ペテルブルグに住まう娘をたずねた。愛されているらしいことはわかったが、くだんの貴族からは邪険に追い返された。告訴も考えたが、駅長は諦めた。やがて捨てられ、零落するだろうに。「いっそあれが死んでくれればいいのにと思いましてね。・・・・」
その後、またその地域に赴いた<私>は、後日譚が気になって、わざわざ道草して寄った。駅長はすでに鬼籍に入っていた。無駄な出費をしたものだ、と悔いつつも、お節介ついでに駅長の墓を詣でたところ、案内した少年が意外な話を伝えてくれた。
きれいな奥さんが六頭立ての箱馬車で、三人の子どもと共にやってきて、駅長が亡くなったと聞いて泣き出した、と。道は知っているから、と案内を断って、「俺らが遠くから見ているとね、あの人はここへぶっ倒れたなり、いつまでも起きあがらなかったっけ。そいから奥さんは村へ行って、坊さんを呼んでね、お金をやったのさ。そいから行ってしまったっけが、俺らにゃ五コペイカ銀貨をくれたよ。・・・・ほんとうにいい奥さんだったなあ」
<私>の思いはまったく述べられていない。ただ、一行だけつけ加える。<私>もまた襤褸を着た少年に五コペイカ銀貨を与え、「この村に寄ったことも、それに使った七リーブルも、もはや惜しいと思わなかった」
5編の短編のいずれも語り手は<私>だが、たんなる語り部にすぎない。真の主人公は別にいて、短編ごとに違った主人公が登場する。誰が主人公なのか、さいしょは定かではない物語もある。前掲の「駅長」がそうだ。タイトルとなった以上、帝政ロシアの行政機構における末端の出先機関の長が主人公でありそうなものだが、じじつ駅長の行動と述懐に紙数が割かれるのだが、真の主人公は駅長の娘である。
ただし、彼女は他人の言葉によって語られるだけの、いわば薄膜を通してのみ透かし見ることができる人物にすぎない。
ところが、目鼻立ちははおろか髪の長短も背丈もまったく記されていないにもかかわらず、その人となりの印象はじつに鮮やかだ。
容姿その他の描写を省略することによって、かえって人間像が陰影ふかく浮き彫りにされることもあるのだ。
紙の本
古典としてではなくて、普通の小説として読みました。そうすると、もっと面白い話はあるかな、乙一も、エリンも。日本に紹介された当時の評価を今も引き摺る必要はないかな
2005/08/04 19:59
9人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:みーちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
角田光代の本を読んでいて、そうだよね、読まなかった本て、いっぱいあるよね、そう思います。で、彼女が大学の文学部に入って、それこそ文学少女を自負していた自分の何倍もの数の、それも名前すら聞いたことのない本を読む学生の存在に圧倒される、社会に出て編集者と会うようになって、ここでも同じような思いにとらわれる、それを読みながら、でも、その人たちって結局、作家じゃあないんだよね、そう納得します。
で、いいわけじみますが私はいわゆる古典といわれるものを殆ど読んできていません。この歳になって気になるから、読んでおくか、くらいな感じで時間があれば、娘二人のためという意味も含めて手にしている状態です。で、私の場合、その作品が出版された時代や状況というのは、今でも全く気にしません。作品だけを楽しもうとします。ですから、古典とか傑作といった刷り込みは全くありません。
だから、その後もっと洗練された作品があっても、もっと以前に出た作品はオリジナルだから傑作、という判定を下しません。まったく同時代に書かれたものとして、どちらが上か、判断をします。ですから、翻訳が悪い海外の傑作と、日本語が心地よい日本文学の駄作では、後者が上に立ってしまうこともあるのです。
そういう観点で、私はこの名のみ有名だった作品を読みました。
目次から構成を紹介すれば、まず「スペードの女王」があって、次に冒頭に「刊行者のことば」がある「ベールキン物語」の五つの短篇「その一発」「吹雪」「葬儀屋」「駅長」「百姓令嬢」、それに詳細な註解、「この訳本について」「短篇六種の発生について」「プーシキンとその作品」「岩波文庫旧版『スペードの女王他一篇』(一九三三年刊)の「解題」」「岩波文庫旧版『ベールキン物語』(一九三九年刊)の「あとがき」」ということになります。
有名な話でしょうが、私のように始めて読む人もいるでしょうから、かんたんに各話について書けば、賭けのトランプゲームに興じる近衛騎士官たちの噂話が狂気にまで人間を駆り立てる「スペードの女王」、A・Pによって刊行されたる故イヴァン・ペトローヴィチ・ベールキンの物語、といういわくありげな書き出しで始まる「刊行者のことば」、そして男の名誉について考えさせられる「その一発」、出会いの不思議さを恋と絡めた「吹雪」、職業の貴賎の問題を投げかける「葬儀屋」、私には軍人の横暴を謳うとしかいえない「駅長」、シェイクスピアの名作をコミカルにしたような「百姓令嬢」という具合です。
で、この文庫の特徴に詳細な註解があります。訳者の神西清にいわせれば、時代背景などを知らない限り、プーシキンの作品を正しく理解することはできない、その傑作である所以も分らないということだそうです。さてさて、へそ曲がりの虫が声をあげます。ここまでして、傑作であると擁護されなければならないのでしょうか。海外文学というものに初めて出あった明治大正の人たちの、時代の制約というフィルターを除いての勝負です。
どれも悪くはありません。でも、今の私には乙一の短篇やスタンリイ・エリン『最後の一壜』に軍配を上げます。これが俵屋宗達の風神雷神図なら、現代のたとえ村上隆が頑張ったって勝てません。二作を並べれば、時の流れを越えて勝負が出来ます。文学作品だってそうであるはずです。私はヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』もつい先日読みましたが、現代作品に劣ると判断しました。ヴィットリーニ『シチリアでの会話』はちょっと保留、どちらかというと現代小説ですから違和感がありません。
白紙の状態で読んでみてください。学校の教科書で傑作と決め付けられた古典、危うし!それが私の感想です。
紙の本
吹き荒れる熱量
2020/06/26 17:57
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
ギャンブルの熱狂をテーマにした、「スペードの女王」に圧倒されます。出会いから恋に落ちていく、「吹雪」の男女も忘れ難いです。
紙の本
小説としては
2020/05/29 14:26
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:のび太君 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「スペードの女王」は小説と云うよりも詩であると思った。もちろん明確なストーリーはあるのだが、読んだときにそう感じた。