紙の本
「注文の多い読者」ですみません
2006/05/24 23:10
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:半久 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者のブログである、「内田樹の研究室」の日録(2004〜5年分)をまとめたもの。「研究室」は滅多に覗かないので、こうやってまとめて読めるのはありがたい。元稿にかなり手を入れられたとのことなので、ブラッシュアップされた「知働蔵」になっているのでしょう。
読後感としては、いつものことながら、考えさせられる所、よく分からない所、反発したくなる所が入り混じった、‘もこもこ’としたものが残る。いや、決して悪い読後感ではないっす。
なんだか最近、言い回しがますます微妙になっているなあ(肝心な所になると、どうとでも取れるというか・・・)と思っていたら、途中でこんな一文が。
《そういえば、私自身もだんだんと「不決断」な人間になっている。
ためらったり、口ごもったり、前言撤回したり、両論併記したり、なんだかんだと言いながら、結論を先送りにして、うじゃうじゃにしてしまうという傾向がこのところさらに強まっているような気もする。》
「ためらい」は著者の売りですしね。誰が言ったか「ネオ説教師」なんて呼ばれているけど、「オレの言うことを聞け!」式の押しつけがましさが薄い所に内田流説教の醍醐味があるんだから、この線で行ってオーライなんじゃないかな。
世に出れば出るほど、逆に批判されることも増える。勝手な想像だが、著者はそれに敏感なのかも。批判に超然としている人は、前言撤回なんてそうはしない。
「結論」を連連発することの権力性に、「正しく」怯えられる人なんだろうと思う。
と、好意的にとったが、『おわりに』を読むと、はてなマークが浮かんできた。
《だから、当然にも本書の中では「言っていることのつじつまが合っていない」ということが起こる。こちらの文章で主張していることと、あちらの文章で主張していることが、ぜんぜん違うじゃないかということが散見されると思う。》
そりゃあ、人間は矛盾の塊だし、昨日と今日で言うことが違うことすらある。それを一から百まで突けばいいというものでもない(反省を込めて)。
でも、「矛盾である自己」に開き直りすぎてもいけないと思う。結論を先送りにすることより、辻褄が合わないことの方が問題は大きい。気が付いているのだったら、もう少し摺り合わせ作業をしてもバチは当たらないと思う。
上の文章は、なんか予防線を張っているような気がするのだ。
《けれども、それらの考想は私の中に時間差を置いて、いずれもたしかに一度は存在したものである。そうである以上、「ぜんぜん違う」表層の下には、たぶん同一の「思考の母型」のようなものが伏流しているはずであり、それが何であるかを私自身もまだちゃんとことばにできていないということにすぎない(いばって言うほどのことではありませんが)。》
レトリックとして、さすが「うまい説明」だと思うが、「いいわけ」っぽくも聞こえる。本当に伏流しているかどうかが疑問。脳内の複数のコビトさんが、それぞれ「異なったキャラを演じて」好きなことを語っている例も、中にはあるんじゃないかな。
括弧内を読むと「憎めないなあ」とは思いますが。
《本書のテクストはどれも「生成過程のことば」を小器用にまとめずに、そのまま差し出したものである。だから、「要するにあなたは何が言いたいんだ」と詰め寄られても、私には返すことばがない。むしろ、「私は何が言いたいんでしょう?」とお聞きしたいくらいである。》
ここを読んでガクッとしてしまった。これを「謙遜」ととるか、「開き直り」ととるべきか、迷う。どちらだろうと真面目に考えることが、既に嵌められているのかもしれないけど(笑)。
私としては、せっかく単行本として出すのだから、小器用でもいいからまとめも重視して欲しかった。
それは、次回に期待ってことでいいですか?
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以下のページで感想書いてます。http://blog.livedoor.jp/subekaraku/archives/50213562.html
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靖国問題や日中・日米関係などについて論じた「? 問いの立て方を変える」に特に感銘を受けて色々と考えていたところに、首相が靖国参拝をほのめかしたとかで、非常にタイムリーな思いがした(「15日ならず、いつ行っても(中国などは)批判する。いつ行っても同じだ」というコメントは凄いですね)。
最近ようやく政治や国際情勢に人並みに興味を持てるようになった私だから、本書でも繰り返し問われている「何故反日感情を煽るのが明白であるのにあそこまで執拗に靖国参拝を繰り返すのか?」という問題に対しては、公人ではなく小泉純一郎という一個人の、偏執的な思い入れの勢い余った発露では?程度の発想より先に進めずにいたのだけど、「靖国再論」という項で著者が指摘してる、この問題の背景には日米のある共謀関係があり靖国参拝は世論を掌握するためのスイッチとして機能させられているのではないか…という論の展開の仕方には、おおーと驚く。その他の部分も説得力はもちろんのこと探求心や「世界に開いていく」力が感じられて、良質な知を味わえた充実感があった。
「? 武術的思考」内の「武道家から見る改憲論」も良かった。
(…)戦争はあくまで「不祥」の、すなわち「二度と起きてはならない災厄として観念されなければならない。二度と起きてはならない事況に備えて、できるだけ使わずに済ませたい軍事力を整備すること。この矛盾に引き裂かれてあることが「兵」の常態である。勝たなければならないが勝つことを欲望してはならないという背理のうちに立ちつくすのが老子以来の「兵の王道」なのである。
私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともうまく機能した政治的妥協のひとつ」だと考えている。(…)
改憲の必要はないという著者の主張を他のテキストで読んだ記憶があるけれど、著者の言う「整合性」に無自覚のうちに染まっていた私は、この「ねじれ」の意義を認めるどころか意識すらした事がなかったんだなあと気付かされる。これは『9条どうでしょう』も読んでおくべきか。
ブログに掲載された文書にエディットを加えたのが本書なので、内容は他にもリスク社会や記号論、レヴィナスの他者論などばらつきがある。そのばらばらの根底に一貫してある著者の姿勢からは、全肯定にも全否定にも安易に走らずに地道に吟味を重ね、双方を柔らかく内包し折衷する思想や思索を保つことの尊さを思った(そういえばこの人フェミニストが嫌いなんだっけ)。私も硬直状態に陥らず、自分と異なるものに厳しく門を閉ざさず一旦は柔らかくキャッチし保留にできるような緩衝材のごときものを自分の中にイメージしていきたいものです、できることなら。
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前半で格差社会、リスク社会について論じ、後半では靖国問題や反日デモ、君が代など時事的な問題について書いている。本人がブログに書いてあることをまとめたエッセイ集。さすが哲学の学者だけあって、ニーチェ、オルテガなどの哲学者の言葉から格差社会を論じているところはおもしろかった。
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ブログで読んだ記憶の残る文章もあるけれども、こうしてあるテーマに沿って並べ直されたものを読んでみて、その論点がずれていないところに改めて内田先生の凄さを感じる。まあ、毎度毎度決して短くはないまとまった文章をブログに挙げていらっしゃるのを読ませて頂いても、その物事の捉え方のエッジの効き具合はひしひしと伝わっては来るのであるけれど、例えば時事ネタなどを並べ直しても決してブレていないというか何というか、凄いと思う。
ああそうだ、きっと媚びていないと言うべきなんだな。だから、読んでいてスカッとするんだろう。
中に、記号論の話が出てくる。何故だろう、自分は記号論の気配が漂って来ると妙にわくわくする。ぐちゃぐちゃとした有機物のごもごもした動きが、何か化学記号の展開のような必然的な因果律に還元されるようなすっきり感がある。ああそうです、自分は還元主義に魅せられるものの一人です。
でもですね、本当にぐっと来るのは例えばこんな話。
「モードというのは逆説的なものなのである。」つまり誰かが着ている服を見て皆がそれを最先端だなと認識するには何らかの情報共有によってその服が意味することを皆が知っていなければならず、皆が知っている時点で背理的に最先端とは呼べない、と内田先生は指摘する。そりゃそうだね。そして先生は先へ進む。「流行の先端性というのは、ウロボロスの蛇のように自分自身のしっぽを齧ることでしか生存できないのである。・・・それ自体の先端性を否定することなしには、先端性として認知されないという「脱構築」的な宿命ゆえに、流行はすぐれて人間的な現象なのである。」
還元し得ないもの、それこそが人間の本質である、というのは理屈ぬきに信じたい言明であるけれども、それをこんな風に解きほぐして指し示してくれる人がいることを、幸せだなと思うのです。
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手を替え品を替え同じことを言っているにもかかわらず、心地いい文章のリズムで飽きさせず読ませること、作家や文献を的確に引用することで、読み手の知識の広がりと奥行きを拡張してくれる、いつもの内田本。
内田樹をなくしては、レヴィナスやハイデガーやレヴィ・ストロースの知見に一生アクセスする機会がなかった読者は、僕だけではないのでは。
文章がグルーヴして、強いコヒーレンスがある点は、村上春樹の小説に通じます。
コンテンツではなく、コンテキスト依存的ともいえます。
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抽象的で眠くなるかと思いきや、語る調子がいいので読みやすかった。
随想集というか、エッセイぽいところもあるけど、それもそのはず。ブログの記事を編集したものだからだ。
けれど、あの量と質をブログでドカンと上げているところがすごい。
中でも、中国、韓国、日本の大東亜圏を形成する、という話が興味深い。元々同じ文字を使っているし、文化は受け入れやすいのか。
「自分の書いた漢字の間違いに自分より先に気づく外国人がいる」という件が印象的だ。
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シャーロック・ホームズとミシェル・フーコーはともに、どうしてその出来事が起きたのか?ではなく、どうしてその出来事は起きたのに、それとは別の出来事は起きなかったのかを問うことを、彼らの推理術の重要が技法として駆使した。
他責的なトラブルシューティング方法に熟達するより、トラブルを事前に回避する心身の能力の開発に優先的に教育投資を行う方が合理的であるとわたしは考えており、繰り返しアナウンスしているのであるが、同意してくれる方は依然として多くないのである
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最初から最後まで、「脳みそが溶けそうな」興奮に満ちた本だった。これは内田樹の著作の中でも、上位に入る面白さと言ってよいと思う。
ニーチェとオルデガの大衆論の差異。
フッサールの『他我論』とレヴィナスの『他者論』の差異。
哲学的巨人たちが遺した世界観を、見事に読み解いてくれる。
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内田樹のエッセイ集。というより、本人がブログに小泉政権時代(2004年~2005年)に書き散らした文章を編集者が取捨選択してまとめたもの。というより、内田さんの本はほとんどそういうスタイルらしい。ということで、いろんな著書等での発言と基本的には同じような内容が多い。専門と関わる哲学の話とかはちょっと読んでも分からないけど、個人情報保護だとか、国益と君が代問題とか、英語教育での会話偏重傾向とか、学校の危機管理問題とか、その辺は面白かったかな。
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これで内田氏の貴族と大衆についての話を読んで、前から気になってたオルテガの大衆の反逆を注文。あんまり読める気はしない。
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http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163677002 ,
http://blog.tatsuru.com/
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10年くらい前の本、小泉が総理大臣やってた頃のこと。
本の帯には「弱者は醜い、敗者には何もやるな。負け犬叩きが加速化するリスク社会をどう生きるか?」とある。
思えば、日本人がはっきりと資本主義を自覚し始めたのはこのころではないか。
それまでは一億総中流の時代を過ぎ、バブルで盛り上がってハジけ、みんながみんな同じように停滞感を味わっていた。
小泉総理の時代から新自由主義が入ってきて、あれ?みんながダメだと思ってたら、あいつだけは金を儲けてるぞ?
引きこもりや不登校は昔からいたけど、NEETに非正規に格差社会にブラック企業と、問題が噴出を始めたわけです。
そんな転換期が10年ほど前なのではないかな。
そして10年が経ち日本はどうなったのか。
「嫌いなことを我慢し続けていると『何かを嫌う』という感受性の回路が機能を麻痺してしまう
人は『イヤな仕事、嫌いな人間、不快な空間』を『我慢する』ために、みずから感度を下げるのである」
と筆者は指摘している。
さて、毎度引用するけど古市憲寿の「絶望の国の幸福な若者たち」より、未来は良くならないと絶望しているのに、現在に対しては幸福感を感じている。
これ以上良くならないし、夢とか希望とか必要ないものから諦めれば、実は意外と世の中楽しいじゃん。
ということを感じているが、それは自ら感度を下げていることに他ならない。
朝井リョウのどの本だったか「僕たちは気がつかないフリをするのが得意だ」という言葉が現代の若者の感覚に的を射ている。
あ~楽しい世の中だなぁと思いつつも、ふと夜に「いつまでこのまま変わらないんだ?」という考えが頭をよぎって沈んでしまう。
良くはならないから感度を下げるしかない。下げたところで良くなるはずもないことは理解しているけど、どうしようもない。
それが現代の若者だと思う。
少子化対策!もっと若者に給付金を、待機児童ゼロを、町コン企画してもっと出会いを。
無駄なことやってるなぁと思う。そんなことで結婚しようなんて気が起きるわけないだろうほど、若者の絶望は、深い。
「その回路をみずから進んでオフにするということは、リスクにたいするセンサーを『捨てる』ことであり、生物学的には『自殺』に等しい」
この国は緩やかに自殺へ向かっている。
昔は働いてる親父が不機嫌になると怒鳴り散らしたのものだ。
「誰の稼ぎのおかげで食ってると思ってるんだ」
本当にそんなことを思って言っているわけではない。このセリフを吐くことが自己証明のようなものだ。
我が身を供物を捧げることはキリストだけではない。サラリーマンの矜持も根底のところでは変わらない。
我が身を供物として捧げることこそが人間を人間たらしめる。
「人間は『すねを齧られる』という経験を通してはじめて『自分にはすねがある』ことを確認し、
『骨までしゃぶられる』と言う経験を通してはじめて『自分には骨がある』ことを知るという逆転した仕方でしかアイデンティティを獲得することができない生き物である」
緩やかに自殺に向かうこの国では、アイデンティテイの獲得すら、絶望的である。
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現代思想を使って世の中を見るってこうやるんだよ。楽しい上に生きやすいぜと訴える本。同じようなことをプロレスの分野ではターザン山本氏が1980年代終盤〜1990年代前半に実践。内田樹氏は20年後に甦ったター山の亡霊ないしは生き霊なのではないか???
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相変わらずの内田節。
発刊は2005年でちょうど10年前。
10年前は17歳で内田樹のことはおろか社会の情勢もなにも分かってなかった(今でもさしたる違いはないけれど)。
10年後の今読むからこそ見えてくることもあるし、自分自身が感じられることもあった。
内田さんの本は読みやすくて一気読みしたくなる。
難解な文章もたまには読まないとと思うけれどなかなか気が向かず…
読書の習慣がなくなって久しい今、リハビリの一冊になってくれれば嬉しい。