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「外套」を読んでいて、真っ先にモーパッサンの「脂肪のかたまり」を思い出した。多数の他者から辱められる弱者を描くのが、当時の海外の文壇では評価される小説の型だったのだろうか。日本の文壇では、一般的には悩める知識人の姿を描くのが文壇の評価の対象なので、その違いがとても気になった。今後の勉強の課題にすることとする。
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外套も鼻も、物語の設定が特殊。特に鼻のほうはのっけから笑えるくらい書き出しがすごい。
序盤でタイトルが「鼻」である理由がわかる。
まぁ、あえて読まなくてもいいかもね。。。
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昔、NHK(だったと思う)の人形劇で子供向けにやっていた番組の
原作が何なのか気になって探していたところ
どうやらゴーゴリの『鼻』であるらしいことが判明。
読んでみたらどんぴしゃりでした。
『外套』はクリスマス・キャロルみたいな
ぞくっとする感じもあり
ロシアの寒々しさと、貧しくも誠実な主人公が
いい味を出していて、
何といった特別な話でもないのに強く印象に残る作品。
『鼻』は
とっぴょうしもないような話で
人形劇になるのもうなずける。
大人向けに書かれているが
子供向けに絵本などになってもいいような作品。
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「外套・鼻」(ゴーゴリ:平井 肇 訳)を読んだ。「外套」はたぶん人間存在の普遍的な悲劇性を的確に捉えた最高傑作である。などと、わざわざ私が鼻の穴を膨らませて自慢げにつぶやくまでもなく(笑)、誰もが認める傑作なんだよな。アカーキイ・アカーキエヴィッチ・バシマチキンよ安らかであれ。
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青空文庫・koboで読了しました。
■外套
アカーキイ・アカーキエヴィチ、生まれたときからなんだか雑な名づけられ方だなと感じたけど、個性を得ることを許されていないかのような地味さだった。
それでも、外套を新調できて嬉しそうでよかったな、と思ったんだけど……仕事仲間の外套は当然のように毛皮つきで、なんとなく芥川龍之介の『芋粥』を思い出した。
あまつさえ追いはぎに遭ってその後すぐ死ぬなんてかわいそすぎる。。。
原題:Шинель
■鼻
クリリンのことかーっ!
いいえ、コワリョーフさんのことです。
鼻を取り戻すための悪戦苦闘が滑稽で面白かった。芥川の『鼻』は常人離れした鼻の為に自尊心を傷つけられている禅智内供の話だけど、コワリョーフさんは普通の鼻を失って困り果てる話。
鼻が服を着て歩いているってどういう状況なんだろう。首から先が鼻なの? それとも全身が鼻なの?(それだと服着れないような気がするんだけど……)
原題:Нос
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オススメの理由
どちらもアヴァンギャルド芸術・シュルレアリスム文学として有名な小話であり、大勢の読者が「奇妙なもの」「理解が出来ないもの」「違和感を感じる」作品である。本にせよ映画にせよ対人関係にせよ、どうしても理解できない事物に私たちは数え切れないほど出会う。そこで一番大事なのはどうして自分がそう感じたのかとか考えるのことであり、全てを分かろうとするのではなく違和感を感じた原因(そう感じる原因は自分の中にもある)に思いを巡らすことではないだろうかと私は考える。そうすることで今まで見過ごしていたものや、意味の分からなかったものから何か本質的なものを見つけ出せる場合もあるのではないだろうか。
その点において本書はそうした思考プロセスを養うのに量・質ともに最適である。
我々は自分の理解を越えたものを敬遠しがちであるし、「理解できない!」と切り捨ててしまうことが多いが、本書について思索を巡らすことをきっかけにこうした避けがちなものと向き合ってみて欲しいと思う。
推薦者のページ
⇒http://booklog.jp/users/a22i4u
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正直、特に凄いと思うこともなかったのだが、外套が1840年、鼻が1835年の日本で言うと幕末に書かれたことを考えると、やはり凄い。
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原書名:Шинель,Нос(Гоголь,Николай Васильевич)
外套
鼻
著者:ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852、ウクライナ、小説家)
訳者:平井肇(1896-1946、ロシア文学者)
あとがき:横田瑞穂(1904-1086、函館市、ロシア文学者)
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ロシアの厳しい冬と貧しい市井の暮らしが、時にユーモラスに時に哀切に描かれた傑作だと思います。翻訳を通しても見える文体の剛毅さもロシア文学に通底する魅力です。
当時の社会事情にも興味がわくことでしょう。
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「私たちは皆、ゴーゴリの外套の中から出てきた」という科白は、実に多くのことを語っている。ドストエフスキーの言だとされることの多いこの一節だが、しかし、実際にそのような記述は彼のどの著作にも見当たらず、発端の真相は未だ謎に包まれている。
だが、誰が言い出したかも知れないこの科白がまことしやかにドストエフスキーの名を借りて人口に膾炙しているというのも事実である。火のない所に煙は立たない。ペテルブルクの凍てつく街角でゴーゴリが散らした火の粉は、プーシキンを経由して、ツルゲーネフへ、トルストイへ、ドストエフスキーへと拡がり継承され、やがて絢爛たるロシア文学を完成し、世界を照らす篝火となった。
『ロリータ』の作者として知られるウラジミール・ナボコフは『外套』をカフカの『変身』と並ぶ文学的ペシミズムの金字塔として絶賛した。ここで『変身』を引き合いに出すあたりに、僕などはナボコフの意図を感じてしまう。
というのも、『外套』はなるほど文学作品ではあっても、その構成や描写などの手法が十分に小説的であるとは言い難い。「小説」という方法が登場して以来、文学は巨大な革命を経験した。『外套』の中でゴーゴリが描くのは、そんな革命の予感を漂わす、嵐の前の静けさそのものなのだ。物語が小説へと、作家の視点が世界から人間存在へとその矛先を変えてゆく革命前夜の薄明にあって、終に物語の中に踏み止まった最後の文学者が、ゴーゴリであった。
本書に収められた二篇の小品は、どちらもゴーゴリの代表作として名高いものであるが、「小説」として扱われることをもう一歩の所で拒否しているかのような、独特の滋味がある。それは味気ない官僚批判であったり、心理描写の淡白さであったりするのだが、作品に瀰漫するこの非小説性は、ひとえにカメラワークという概念の欠落に起因していると言えよう。作者の視点はペテルブルクの冷たい灰色の虚空に固定されていて、外套が盗まれようと、主人公が死のうと、突然顔から鼻がなくなろうと、微動だにしない。落とした鼻が妙に紳士然として街で黄昏ていても、やはり微動だにしない。
一方の『変身』では、我々読者は虫になったグレゴール・ザムザの感覚を通して世界に触れることになる。流動的な視点はもちろんのこと、嗅覚、触覚、感情や欺瞞が痛烈に暴露され、それらが主人公ザムザにとっていかなる為体であるかも、他ならぬ彼の心中独白として、丁寧に語られる。どんなに物語的な構成であっても、その手法という点に於いて、やはりカフカが生み出したのは紛れもなく小説なのであった。
小説という方法の発明によって、物語の中にいた人間はその外套を剥ぎ取られ、生々しくその存在を世界に晒すことになった。外套を失ったアカーキィ・アカーキエヴィッチは死んでしまった。しかし、彼の亡霊は今も虎視眈々と「小説」に奪われた外套の奪還を目論んでいるのではないか。そんなことを考える。
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面白い小説である。『外套』は下級官吏がさんざん迷って外套を新調するのだが、追いはぎに盗られて、あちこちに訴えるのだが、「有力者」に訴え出た所、逆に叱り飛ばされ、発熱してそのまま死亡、化けてでるという話である。解説には、虐げられた人に対する人類愛の小説だと社会主義的な観点から書いてあるが、書きぶりをみると、自身も下級官吏だったゴーゴリの自虐的な所も垣間見え、日本の落語みたいなものじゃないかと思う。『鼻』はやっぱり下級官吏が主人公で、鼻がある日なくなって、また、もとにもどる話である。自分より官位が上の服装を着て「鼻」が歩き回ったり、遊びでつきあっている令嬢の親が呪術をかけたとか、いろいろ大騒ぎをするけど、人間を嘲笑的に書いている感じがして、やっぱり落語みたいである。
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図書館で。そう言えばあまりロシア文学って読んだこと無いなあと思い。
どう考えても不幸の匂いがする彼が外套をこしらえた辺りでああ、と次に何が起こるかわかってしまうのですが続きが気になり読まされてしまうというか。さすがだなあと思います。アカーキエヴィッチさんも今の世の中なら量販店でものが買えるのに。まあでもいつの世の中も必要なのに簡単にが手に入らない物があるのだとは思います。外套はその象徴なのかな、と思いました。
鼻はシュールな話ですね。自分の鼻が逃げ出して五等書記官の格好をして町から逃げ出そうとする。なんでだろう?ちょっと考えてみないとわからなさそうなお話でした。
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『鼻』こっちのが面白かった。鼻がパンから出てきてそのあと棄てられたのに、人間みたいに鼻が服を着てるって鼻の形の顔をしてるのか、鼻自体が服を着てるのか考えてたらおかしくて仕方なくなりました。変な話。
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読書メモにあらすじを転記したが、筋書が面白い小説ではない。
細部の記述の滑稽味や韜晦的な語り口にこそ面白味があるのだ。
あとで思い返すと徐々に面白くなってきた。
小説というよりも、法螺話というか。
これはドストの「過剰さ」にも一脈通ずる特徴でもある。
第一、アカーキイ・アカーキエヴィッチって。
「鈴木鈴木夫」みたいなもんか。
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ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリの短編小説2編です。どちらの作品もしがない下級役人の悲哀とその役人の真面目さがかえって滑稽さに結びついているという皮肉な面白さがありました。
『外套』は、ひたすら書写に仕事の生きがいを見出している下級役人がはからずも外套を新調することになり、それに付随して起こった悲喜こもごもの出来事を滑稽に描写した作品です。
主人公の下級役人本人はいたって真面目ですが、その真面目さを事細かく描写することで可笑しみを増しています。読者からすれば外套の新調という些細な話ではあるのですが、ゴーゴリの手にかかれば、主人公の困惑から喜び、そして一転絶望と、その顛末に応じた感情が面白可笑しく伝わってきます。最後は意外な展開でしたが、不条理な悲哀を感じさせるものの、このどこかひょうきんな物語の締めくくりとしては、これまたゴーゴリの茶目っ気ぶりが発揮されているといえるでしょう。
自分にとっても哀しみと滑稽さを同時に感じた複雑な作品でありました。(笑)
『鼻』は、ある日、目覚めると鼻が無かった!という奇想天外な話です。しかも、その鼻は近くの床屋の朝食のパンの中に入っていたり、きちんとした身なりで馬車から降りて礼拝に向かうなど、ちょっとどのような光景なのか想像すらできないほどのハチャメチャな場面が真面目な様子で描写されているのが楽しいです。
これまた主人公の下級役人のあくせくぶりが面白可笑しく表現され、実際、切実な問題(?)であったはずなのですが、事態が事態だけに主人公のその滑稽ぶりが何とも可笑しかったです。
2作品ともゴーゴリのひょうきんさが伝わる作品ですが、惨めな人をじっと観察して笑い飛ばすような残酷な面も併せ持っているような気もします。しかし、抑制の利いた文章表現が適度な可笑しみと悲哀ぶりを両立させ、逆に印象深い作品となっています。