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東浩紀氏のあとがきから引用すると、この本が出版された2000年はまだアキハバラはただの電気街だったし、アニメやゲームについての学問的な研究もなくウェブも今のように批評の場とはなっていなかった。
ということでゼロ年代の批評の場を用意した先駆的研究のようです。
戦闘美少女を欲望する側の(オタクの)精神分析、戦闘美少女史の鳥瞰、視覚表現の遷移、日本的空間と西洋的空間の差異などなど、ちょっと難解ながらも、現在を知る上でも(遡行的な意味で)重要な1冊。
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この本の著者には「素朴な読み方だ」と蔑まれるだろうけれど、読み物として楽しく読んだ。
おたくの生態の観察に「あるあるww」と膝を打ったり、「この作品以降、まったく新たな作品系列は現在まで出現していない(キリッ」なんてツッコミを入れたり。
著者自ら「文庫版あとがき」に「質的にも量的にも拡散を極めたおたく文化の動向は、もはや個人がその全貌を語りうる対象ではなくなりつつある」と書いているように、分析のもとになっている「おたく文化」は、相当古いものだ。
にもかかわらず、著者の「おたく文化」に関する観察は、今でも通用するものがたくさんある。優れた観察力は、精神科医ならではのものだと思う。
しかし、最終章の「ファリック・ガールズが生成する」は何を言っているのか、何を言いたいのか分からない。著者が分かってもらおうと思って書いているようにも思えない。
きっと、「おたくのおたく」同士が「おたく」について熱く語り合っている場に足を踏み入れてしまったからだろう。
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精神分析家のジャック・ラカンの理論を応用した漫画・アニメのヒロインについて論じた本。表紙見れば分かるよね。
何回か読んだけどかなり難しい。2回ほど読んだ後にジャック・ラカン、メラニー・クラインとかの理論を学んでやっと少し理解できた。
最初は引き篭もりや分裂気質について興味があったから読んでいたけど、サブカルチャー研究書としても読めるんじゃないかと。
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2000年に出版された単行本の文庫版であり、オタク論としては初期のもの。
欧米ではフェミニズムの政治性の影響からか、男性的な「戦う女性」が人気を博しているのに対し、日本ではナウシカ、セーラームーン、綾波レイなど可憐さを持った「戦闘美少女」が持て囃される。戦闘美少女は戦うからこそ存在意義を持っているからこそ人気を保っている。戦いの中の葛藤に苦しむ戦闘美少女たちを目にして、一部の日本人は自分のアイデンティティの確認をしているのかもしれない。
日本人、特に「オタク」と呼ばれる人々はロリコンの傾向があると思われがちだがこれは誤解。実際のオタクにロリコンは少ない。宮崎勤事件以来、メディアが「オタク=ロリコン」の構図を人々に植え付けただけ。
よく考えてみれば、オタクはある一つの趣味に熱狂しながらも、現実的で、斜に構えていて、醒めていて我を忘れていない部分がある。逆に、実際の恋愛で大金を恋人に貢いだり、公衆の面前でイチャイチャしたり、愛の逃避行に走ったりする人のほうが、よっぽど非現実的な考えの持ち主である。
オタクが得意するのは、二次創作(同人誌など)のように、虚構を自分(たち)だけのものに作り変える「虚構の仮構」である。 それなりにためになったし、興味深かった。
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「戦闘美少女」という概念は面白いですねー。日本に住んでいると、アニメをはじめとする諸作品で戦う少女って多く出てくるわけです。「セーラームーン」しかり、「綾波レイ」しかり。でも、海外の作品ではこういうのって少ないらしいです。最近こそ、「ジャパニメーション」的な記号が輸出される形で登場を始めたようですが、もともとはほとんどない。「アマゾネス系」の女戦士はいても、「戦闘美少女」はいないのです。
何故、日本にのみ「戦闘美少女」は生れ得たのか、そんな謎に迫るのが本書なわけですな。
うーん、しかし、どうにもピリッとしない一冊だった。さすがに、この本のまとめにあたる「第六章」はなかなか示唆に富んだことが書かれていたり、面白い視点も提示されていたりする章だったんだけれど、全体を通して見ると……うーん。
雑多な印象を受ける上に、それでいて言いたいことがあまりにも一貫しすぎている感が強く、読んでいて必ずしも面白くはなかったなあ。つまり、色々なことを説明してくれているんだけど、全部結論は同じっていう感じ。
余計な、納得もしづらい記述が多いのかなあ。例えば本書では「戦闘美少女」の登場するアニメ作品を13の系統に分類しています。でも、その必然性は感じられない。一応、「戦闘美少女ものというジャンルには数百もの作品が存在するにもかかわらず、 物語設定はわずか一三の系列分類に尽くされるのだ」というように、言及はしているんですが、13である必要はないし、そもそもそのように分類されることが「戦闘美少女もの」に限定されるのかといえば疑問だったり。
っていうふうに、納得の行き辛い部分も多く見受けられるわけですよ。でも、僕如きが気づけることっていうのは、とっくに明らかになっているもので。「解説」にて東浩紀さんが、本書をサブカルチャー分析の先駆けであると指摘した上で「先駆的であるとは、猥雑であるということでもある。本書には実に多くのノイズや矛盾が含まれている」と述べています。つまるところ、そういう状態であることが公認されていたわけですね。
【目次】
はじめに
第一章 「おたく」の精神病理
第二章 「おたく」からの手紙
第三章 海外戦闘美少女事情
第四章 ヘンリー・ダーガーの奇妙な王国
第五章 戦闘美少女の系譜
第六章 ファリック・ガールズが生成する
あとがき
文庫版あとがき
年表
解説 東浩紀
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精神分析学なんて辛気くさいものををやる気になったのは、やっぱり大好きな筒井康隆の影響だと思います。
フロイトにユングそれからエリクソンとかラカンを、珍しく殊勝な真面目な態度で、ノート取りながらお勉強モードで貪り読んだものですが、憑き物が落ちるように、遠ざかって久しいからずやでした。
まあ、岸田秀くらいは読んでいましたけれど。
私が手にしたのは太田出版から出た単行本ですが、そもそもこの本との出会いがまたまた運命的なものなのです。
だってここ何年も心理学とか、ましてや精神分析学なんてものに近づこうなどとは思ってもみなかったのに、フラフラとして気が付いたら『せんとうびしょうじょのせいしんぶんせき』と全部ひらがなのタイトルのこの本を手にしていたのでした。
そして開けてみてビックリ。何とこの本には、以前1/8に取り上げた『「かわいい」論』(四方田犬彦)で言及したヘンリー・ダーガーのことが、もっと詳細にしかもカラーの実物の絵入りで載っていて、くしくも感激のあまり涙してしまった。
環センセのおっしゃるには、ヘンリー・ダーガーは、意識して描いたのではなく神経症の中で自然に描いたのだというのです。
そんなことって・・・・・・
この感想へのコメント
1.猫野正 (2007/05/06)
オタクという現象に(自分もその範疇に含まれる可能性大なので・・)大変興味があり、関連書籍を読んでる最中にこの本を見つけました。戦闘美少女という目の付け所が面白い!!
追記 好きな作家に「山上たつひこ」さんがあるとは・・。
古本屋で「光る風」を手に入れてから気に入っている人です。今でも知っている人がいるとは・・。ちょっと驚き。
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著者は、「戦闘的美少女」という日本のオタク文化に顕著なキャラクターモデルを軸に、アウトサイダー・アーティストのヘンリー・ダーガーの作品分析、ラカン派精神分析の理論、海外オタクの告白、かな漢字二重表記にみる日本のメディア特性などのさまざまな考察を迂回しながら、情報化と相対化の進む現代社会において自らの「セクシュアリティ」を利用することの重要性を主張する。
著者は「セクシュアリティ」こそ「情報化・相対化に最後まで抵抗するもの」として称揚するが、その根拠が肝心であるにもかかわらず明らかにされていないため、主張のところどころに腑に落ちない部分が多くある。
だがヘンリー・ダーガーの分析やおたくの定義、日本のメディア特性に触れた各論の分析の深度には唸らされものがあり、本書が2000年代以降のサブカルチャー分析に多大な影響を与えたのも納得である。
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2011 9/29パワー・ブラウジング。Amazonで購入。
以前から他からの引用ではあまりにも頻繁に名前を見かけていた本。
解説で東氏が述べているようにこの界隈の批評を切り開いた、という位置づけにあるんだろうと思う。
であるにも関わらず読んではいなかったので、批評本をまとめ買いしたときにあわせて購入。ずがーっと目を通した。
もう10年以上前の本なのであって周回遅れにも程があるな自分(苦笑)
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(推薦者コメント)
『セーラームーン』は勿論のこと、スタジオジブリ『風の谷のナウシカ』など、近現代の多くの日本の漫画やアニメでは「戦う女性」が描かれてきた。彼女らは欧米的な強い女性のイメージとは異なり、いわゆる「美少女」として描かれる。では、それは本当に日本だけのイメージなのか。そして、そのイメージはなぜ少女たちのみならず、いわゆる「オタク」に愛好されてきたのか。その理由を、精神科医である著者が考察する。「オタク」の痛いところをつく、精神分析本である。
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戦闘美少女についてセクシュアリティという視点で考察している。
後半は難解なところだらけでほとんど理解できなかった。
精神分析の予備知識があったら少しは理解できたかもしれないが。自分は本書の言葉の意味(特にカタカナ語)からわからず、辞書を片手に苦労した。
自分としては、オタクの特性について新たに分かったところがあったので、苦労して読んでよかった。
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本屋で見かけて、堅い本の並ぶちくま文庫の中にずいぶん柔らかそうなテーマのものがあるなと手にとったところ、おもしろそうだったのでそのまま買って読みました。
確かに最近のマンガやアニメでは、妙に「若い」を通り越して「幼い」とも言える少女がヒロインとなり、しかも助けられ役のお姫様でなく、戦士の役割を持っているものが多くなっているようだなとは思っていました。が、そのテーマをここまで濃密に掘り下げることができるとは思いもよりませんでした。
作者は、本職の精神科医らしく(?)それを「セクシュアリティ」の問題としてとらえて様々に論を展開しているわけですが、僕としてはその分析部分よりも、むしろ結論をまとめた第6章の前半部分にあった、アニメやマンガはハイコンテキストのメディアであるため、ハイテキストの言語である日本語を操る日本人との親和性が高い、という論を非常におもしろく感じました。
最後はちょっとおたく擁護に力が入りすぎといった感じで、あまり共感できる意見内容ではありませんでしたが、日本のマンガ史、アニメ史を手軽に概観できるものとして、いい勉強になりました。
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戦闘美少女に「あの日」はあるのか
その辺りのことは書いてなかった
戦闘美少女に「あの日」がないのだとすれば
惣流・アスカ・ラングレーは戦闘美少女失格である
式波さんのほうはどうであろうか
「Q」予告編のあの有り様を見るに、
ふつうの女の子が戦闘美少女になるための代償は
相当大きいものなのかもしれない
ううん
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先生ということで言葉が難しい。
言っていることは理解できますが、もっとスマートに書いてもいいんじゃないかと思います。
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アニメ、漫画研究対象とする意義・意味の説明や、それ自体の構造の説明に使えそうな文献。日本↔米のアニメ、漫画に関する比較有り。ことばに関する記述はほとんどなし。
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日本アニメによく登場する「戦う少女」について、分析した本。
もともと欧米からきたイメージだろうと思っていたので、"欧米には「戦うヒロイン」はいても「戦う少女」はいない"という記述にハッとしました。
どうやら、魔法で何でもできるファンシーな魔法少女の系列から、より具体性をもつ戦うキャラクターへと派生してきたもののようです。
魔法少女は、日本独特の流れだと思いますが、そもそも『魔法使いサリー』はアメリカンホームドラマ『奥様は魔女』にヒントを得て制作されたというのは驚きでした。
全く関連性を感じませんが。そして、日本に取り込まれる段階で、主婦から少女に若年化しているのが、日本の特徴だそうです。
自分が子供のころは、戦う少女たちを「かっこいいな」「男の子キャラに負けてないな」と思って、単純に応援する気持ちで見ていましたが、男性はまたかなり違う目線でとらえていたことを知りました。
この本はとても深遠で哲学的で、ここまで論述化されることに驚きを感じます。
単純に言えば、日本の男性は、日本の戦う少女たちキャラクターに「けなげさ」「か弱さ」「いじらしさ」を見て愛好しているとのこと。
逆に、そうした需要の文脈は欧米圏にはほとんど見られない、日本独特の嗜好だそうです。
「戦う少女」といったら、つい少女が活躍する宮崎駿作品を連想しますが、彼の作品の中で、本格的な戦闘美少女ヒロインは、ナウシカともののけ姫のサンしかいないとのこと。
確かに、誰もが的にひるまない強い精神を持ってはいますが、実際に武器を取って戦っているわけではありません。
それでもナウシカやサンは、男性に頼らない独立的な存在がとても特徴的だと思います。
ヘンリー・ダーガーの作品分析に文字数を割き、広範なアニメ知識の上にラカン派精神分析やベルクソン、シニフィアン論を展開させており、どれほどまでに広がっていく論文なのかと思いますが、明確な結論には至らず、風呂敷を広げすぎて雑然とした印象が残ります。
「戦闘美少女の出現は、ヒステリーの症状が虚構空間において鏡像的に反転したもの」と言われても、まったくピンとこずに、首をひねるばかりでした。
さまざまなアニメが紹介され、著者の見方、とらえ方がわかったのはおもしろく感じましたが、タイトルにうたわれた「精神分析」本と見るにはどうかという感想。
今のアニメ全盛期以前に出版された本なので、こうした事象が問われる黎明期の書としての価値を見るべきものだと思います。