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ドーキンスは、遺伝子淘汰論を支持している。淘汰は、遺伝子に働くというものだ。この解釈はなかなか難解。利他行動によって、互いを守り合う集団は、そうでない集団より生き残る⁉
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"自然淘汰の単位は遺伝子"という本。そのあまりに悲観的な現実に対し、"meme"という概念を起ち上げることで、読む人へ(同時に著者自身へ)のフォローまで考えた本。個人的にそう解釈している。
利己的な遺伝子はともかく、memeという興味深い概念を知れただけでもよかったと思う。論理的に真実を衝こうとする姿勢に好感を持てた。
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超有名な本ですが、本当に面白い!これだけ面白い本がどれだけあるだろう?
長い内容ですが、全ての章において読み応えがあり、飽きさせません。主張は一貫して、遺伝子が利己的に自己を最大限増殖しようとすることによって、生物の様々な習性が解き明かされる、といものです。(有名なミームの章だけ異質ですが)
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環境による淘汰というたったひとつの法則から、生物の営みを徹底的に演繹して行く様は、生物学というより論理学かなにかのような趣き。と、同時に生存戦略という視点に立てば、それはまさにゲーム理論そのもの。利得行列やらアクセルロッドやら、そのままゲーム理論の副読本に使えるかも。
12章だけは、毛色が違って、ミームという概念を提示している。文化的な伝播としての複製をも、遺伝子の複製と同じように捉えて生命を再定義しよう、というある種の思考実験。
みんな一度は考える話だとはおもうけど、やはり遺伝子からの転換には飛躍がある。文化の伝播を社会学的に分析するツールとしては使えそうだが、生物学としてはちょっとね。
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生物の教授がすすめてくれた本
「私の授業100回分くらいの価値がありますので、買って読んだ人は
1回分の出席おまけします。」とのことでした。あれれ?
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今これを書いている自分の遺伝子も、数多の淘汰が繰り返された結果なのだと思うとなぜかセンチメンタル。
語り口がつまらないわけではないのだけど、冗長と言うかバランスを欠いてるような気がしてもったいない。
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後書きがまた面白かった。
結局のところ、遺伝子の入れ物であり、設計されているならば、
人生はある意味宿命的で、あとは事後的にえられるかもしれない偶然に委ねられているのかもしれない。
一番年老いた先祖の子孫であり、遺伝子は薄まっていく、として、
骨格的顔の類似は曾祖父までしか確認できないから、あとは未来なのかな。
うーん。
サムゼロのくだりと、誠実な夫のあたり、一般的な事例で、面白かったと思う。
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昔からタイトルだけは知っていましたが今回初めて読んでみました。評判通りとても刺激的で面白い本でした。
本書の著者ドーキンスの主張は端的に言うと、一般的に考えられているような遺伝子は主人である生物に奉仕するための従者という見方は誤りであって、むしろ遺伝子こそが主人であり、生物は遺伝子の機械的な乗り物に過ぎないということ見方こそ正しいということです。そして従来の進化論では生物の利他的行為が自然界でなぜ淘汰されなかったのかという問題がスムーズに説明できなかったが、遺伝子中心にこれを解釈すれば、生物単位では一見利他的に見える行為も遺伝子にとっては単なる利己的行為でしかないと見做せるので、簡単にこれを説明できると述べています。
著者は上記のようなアイディアを『利己的な遺伝子』というタイトルに籠めたのだと思われますが、本書の出版時には人間の自由意思を否定する遺伝子決定論の本と誤解され、世間から随分と反発を受けたのだそうです。
私自身はこの本を読んでみて、遺伝子が利己的云々というのは単なるレトリックの問題であり、特に批判するにはあたらないと思いました。本書の価値はむしろ、それまで直感的に受け入れられていた、生物こそ生命の主人公で遺伝子はその構成品の一つに過ぎないという思い込みを疑い、本当は逆なのではないかと考えた著者の洞察力にあるのだと思います。こういった発想の転換は後から聞いてみれば「コロンブスの卵」で、そんな簡単なことなんで気づかなかったのだろうと思うわけですが、逆にシンプルな真理こそ発見することに深い洞察力が必要だということなのかもしれません。
この本は出版から30年が経っていますので、文中に挙げられた事例などは時代遅れになっている部分もあるようですが、先に述べましたような著者のアイディアの核心的な部分を読むだけでも十分面白くて刺激があります。ぜひ一読をお勧めします。
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生物の行動を読み解くときに、「生物は遺伝子の乗り物」という考え方を適用するとさまざまな説明のつじつまがあう・・・。このみかたは、とても衝撃的で理にかなっています。あなたもわたしも遺伝子の利己的な命令にしたがって、生きているんですね〜・・・。
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日進月歩の生物学を扱いながら、古さを感じさせないのは凄い。紹介されるエピソードも面白い。ただ読破するのは少々大変だった。
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囚人のジレンマの所は参考になった。戦略として「気のいい奴が一番になる」 カールセーガンの「はるかな記憶」の方がわくわくした。彼はストーリー・テラーだから?
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「進化論的な物の考え方」がふつうに理解されている社会が望ましいです。例えばハイエクの思想を理解するうえでも必須。学生のうちに読んでおいて欲しい一冊。
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生命体の繁栄のために遺伝子を使うのではなく、遺伝子の繁栄のために遺伝子が生命体をつかう。自分のこれまでの生命観とは180度違う内容のため衝撃が大きかったが、すんなり吸収できたのはやはり、まず地球上に発生した自己複製子からすべて始まったからかもしれない。また、個体群の数が増えてくると、交配数を減らし、子を作らずあたかも長期的に繁栄するように、淘汰されない程度に調整する遺伝プログラムがあるようであるというのは、人間においても当てはまるのではないかと思う。90億人時代に突入すると言われている中で、先進国では晩婚化が進むというのは、そういうことではないのだろうか。また、食糧危機の回避のための農業新技術がさらなる人口増につながり、解決にならないというのは、まったくの盲点であり、食糧問題は本当に難しいと感じた。この本は、生物学に無知な人、初学者、専門家向けに書かれている。まず、無知者として生命観はまるで変わった。次は、なぜ人類だけが、先見性という能力と文化を身につけたのか?遺伝子への反抗なのか、それともその先に遺伝子の狙いがあるのか、などなど疑問が次々と生じる。初学者としてもう1度注意深く読み理解を深め、次へ進むべきなのかもしれない。それでなくとも、ゲーム理論の気のいいやつが1番になるということも参考になるし、単純に考える幅、視野が広がった。自らの思考プロセスに衝撃を与えるには十分すぎる内容だった。
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面白過ぎる。
『初期の自己複製子を生きているといおうがいうまいが、それらは生命の祖であり、われわれの基礎となる祖先であった。』
・・・26頁
『たとえば、生物体のDNA量は、その生物体をつくるのに確実に必要な量よりはるかに多いらしい。DNAのかなりの部分はタンパク質には決して翻訳されないのである。個々の生物体の観点で考えると、これは逆説的に思われる。もしDNAの「目的」が体の構築を指揮することであれば、そのようなことをしないDNAが大量にみつかるのはふしぎなことである。』
・・・63頁
個体の為の遺伝子があるのではなく、遺伝子の為に個体があるのだという発想。この逆説的な理論によってより合理的な解釈が可能になるという事実は、恐ろしく、実に面白い。
こういった、原因と結果の倒置的誤解を我々は日常でも繰り返し続けているのではないだろうか。それに気づけるか気付けないかで、世界の見え方は大きく変わってしまうのだろう。
『遺伝子もまた、直接自らの指であやつり人形の意図を操るのではなく、コンピュータのプログラム作成者のように間接的に自らの生存機械の行動を制御している。』
・・・75頁
『進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進のくりかえしであるらしい。』
・・・126頁
『宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在しなければならなかった唯一の実体は、不滅の自己複製子である。』
・・・416頁
本書を読む前に、誤解していたことがある。本書で指す利己的な遺伝子というのは、個体がもつ1本(正確には2本1組と呼ぶべきか。)の遺伝子群を1単位として、それが利己的に振舞うという話だと、勝手に想像していたのだが、どうやらそうではなくより細分化された遺伝子の一片(つまり一人の人間が複数保有している)が利己的な振るまいをしている(ようにみえる)ということのようなのだ。
よって、1個体内でも遺伝子どうしの競争や淘汰が起りうるということもまた衝撃だった。
本書によってわかったのが、
遺伝子に利己的な意志があり、極めて打算的にいかに効率よく自己の遺伝子を複製できるかを考え行動している。と想定することで、生物の生態がより合理的に解釈できるということ。
しかも、その利己的であるとか、意志があるとか、判断し行動しているというのはあくまでも比喩に過ぎないということ。
実際には、効率的に自己複製する能力を偶然にも獲得し発揮できた遺伝子が自然淘汰のなかで生き残り続けただけのことであるとうこと。
そうでありながら、その遺伝子が生き残ったという結果によって、意志なきものに意志があるように見え、利己的に戦略的に行動しているように見えてしまうということだ。
(そこで思い浮かぶのは自由意志は存在するのかという問題。それも同じようにそう見えてしまっているに過ぎず、実際には存在しないのではないか、などという方向に天秤が揺れ始めた。続きは哲学を通してまた別の機会に考えてみたいと思う。)
カッコウ、ツバメ、アリ、アブラムシ、カタツムリ、チイスイコ���モリ・・・この本では、多くの生物の生態が具体例とした挙げられ、紹介されている。私がそのなかで最も興味を惹かれたのは、社会性昆虫と呼ばれるアリやハチなどの生態についての部分だ。彼らは女王アリと兵隊アリ、あるいは日頃の雑務及び女王とその卵の世話をするワーカーというような、カーストにも似た階級制度を持っている・・・ということは知っていいたのだが、女王が支配する世界というのは一方的な視野にたった考え方に過ぎず、実際のところワーカーたちが女王を操り、自らの遺伝子の生産装置といして利用しているという考え方には、度肝を抜かれた。まるで農夫と家畜のような関係だというのだ。
そして、同時に思い浮かんだのは、貴志祐介の著作『新世界より』に登場するハダカデバネズミの生態と狂気に満ちたとも言える行動についてだ。生命の本能と可能性をグロテスクと形容できるほど見事に構築した作品だと感嘆すると共に、どこからこの着想を得たのか、気になっていた。が、きっと「利己的な遺伝子」が一役を担っているのでは?と感じていたのだ。
さらに、巻末に収録されている作者による注釈の中で、まさにハダカデバネズミの生態が紹介されていた。これはもうほぼ確定だろう。
(というか本作のような超有名なベストセラーを貴志祐介が読んでいて、むしろ当然と言えるのかもしれないが、不意に作品同士が繋がるというのは実に面白く、快感でさえあるので主張せずにはいられなかった。)
さらに、本書のお陰で副次的に獲得した発想がある。
利己的な遺伝子、遺伝子淘汰の理屈を使えば、
ウィルス、特に致死性のウィルスの謎(あくまで個人的な疑問)が紐解けるかもしれないということだ。彼らの破滅的な行動への疑問が頭の隅にいつもあったのだが、結論にたどり着くことができないでいた。
彼らは、どこからか現れ次の宿主を見つけ出す。見方の振りをして、免疫という検問を突破し、内部に潜り込む。トロイの木馬の如く潜伏し、時期を見て増殖を開始する。
彼らにとって個体の内部での生活は楽園的なものではないのだろうか。食料に満ち、外界からの攻撃を防ぐ城でぬくぬくと増殖を繰り返せる。
だが、彼らはそれだけでは飽きたらず、個体の生存機能すら攻撃し破壊してしまう。
個体の死は必ずしも彼らにとってプラス要素だけはないだろう、外界は遙かにリスクが多い。
それでも外に飛び出し、次の宿主を探し出す。そして破壊する。
感染と破壊を繰り返すことになんの意味があるというのだろうか。
個体を破壊し続ければ、個体が絶滅し、彼らの住処を失うというのに。それはつまり彼ら自身の死を意味する。繁栄のその先にあるのは破滅でしかないのではないか。
それとも別の目的地があるというのか。
遺伝子に意志はない。ウィルスにも意志と呼べるものはないはずだ。
たまたま力を得たのだろう。他のウィルスよりも、免疫システムよりも強い力を。それは言い換えれば効率よく増殖する力。その力が強いものが生き残り、増殖を続ける。その結末が破滅だとしても関係ない。臨界点に達するまでその力を行使し続ける。ただそれだけのことなのだ。
目的など無い、意味など無い。なんて身も蓋もない結論だろう。
��意味はないのかもしれない」という諦めに似た予想とは違う答えに辿り着いたとも思っている。この部分的な副作用だけを考慮したとしても、この本に巡り会えたことに感謝している。
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主旨は非常に興味を引かれる有名な内容だが、本全体をじっくり読み込むにはかなりの労力が要る。専門的に読破したいのでなければ苦痛かも・・・
以下めも。
「40億年が過ぎ去った今、古代の自己複製子の運命はどうなったのだろうか?彼らは死に絶えはしなかった。・・・海中を気ままに漂う彼らを探そうとしてもむだである。彼らは当の昔にあの騎士のような自由を放棄してしまった。いまや彼らは、外界から遮断された巨大なぶざまなロボットの中に巨大な集団となって群がり、曲がりくねった間接的な道を通じて外界と連絡をとり、リモート・コントロールによって外界を操っている。彼らはあなたの中にも私の中にもいる。彼らはわれわれを、体と心を生み出した。そして彼らの維持ということこそ、われわれの存在の最終的論拠なのだ。彼らはかの自己複製子として長い道のりを歩んできた。いまや彼らは遺伝子という名で呼ばれており、われわれは彼らの生存機械なのである。」