紙の本
ヒトの女性のマンドリル式化粧にドキドキする養老孟司氏というのはあまり考えたくはないが、別にそうであっても構わないとは思う
2009/01/18 10:14
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:hamushi - この投稿者のレビュー一覧を見る
養老孟司氏の最近の本は、なんだかとても分かりやすい。分かりやすい上に、納得感が強いので、本に書かれていないものの存在感が妙に薄くなってしまう。これは、ちょっと困ることである。
誰かの書いた文章を読み、そのひとが広げて見せてくれる世界に呼ばれていくのは、それなりに危うい行為であるのかもしれないと、こういうときには思ってしまう。自分よりも高いスキルで文章化された世界は、どうしたって優れたもののように見えてしまう。けれども、ひとが作り上げた世界なのだから、よく読めばそれなりにほころびがあり、不備もあり、見逃しも無数にある。感じ取り思考したことが膨大であっても、無限に書き続けることはではないのだから、限界があるのは当然なのだ。
だから、そのひととは違う立ち位置で、ナナメから同じものを見れば、ぜんぜん違った風景になってしまうことだってある。そのことを忘れて養老孟司の世界に呼ばれてしまうと、自分が知っているはずのものが、よく見えなくなるという、困った魔法にかかりかねない。自分のリアリティを見失わないための「魔除け」が必要だと思う。以下少し引用。
「脳化の行き着く先が何かといえば、それが都市です。私たちは建築家の脳の中に住んでいる。あるいはさまざまな人が設計したシステムの中に住み着いています。人が設計しなかったもの、それが自然の定義です。人間の身体というのはゲノムがつくったもので、ゲノム自体も人間が設計したものではありません。(中略)私たちの社会が近年までずっとやってきたのは、非常に強く脳化していく方向でした。つまり何から何まで意識できるもので埋めつくそうという方向です。」(P39)
ここで語られていることには異存は全くない。けれどもそうやって受け入れていくと、私自身の抱える現実や受け止め方、つまり「魔除け」が、次第に無効化されていく。しかもなかなかそれには気づけない。
「私流の言い方をすると、我々が住むのにいちばん楽な環境、安心できる環境というのは、私たち個人個人がそれぞれもっている心と身体です。この場合、心は意識的なもの、身体は自然がつくったもの。両者の釣り合いが我々の中にあるはずで、その釣り合いが狂うと居心地が悪くなります。
つまり脳のほうに行きすぎても、私はそれを脳化社会というふうに表現しましたが、どうも居心地が悪い。しかし完全に自然状態に戻せば、不気味な世界になってしまいます。
我々個人が持っている自然と人工、あるいは心と身体の釣り合いのようなものがあると思います。具体的な数字を出すことはできませんが、両者がうまく均衡する状態に落ち着いたとき、いちばん安心できるのではないかと思います。かけがえのない人間というのは、そういう存在だということです。(P41)」
これも、淡々と読むと素直に納得して通り過ぎてしまいそうなところである。
けれども、ここで「魔除け」を握りしめてみる。すると、上のような考え方からいささかはみ出した世界で自分が暮らしていることを、ふと思い出すのである。
私は主婦で、住んでいるのは都会のマンションの一室である。比較的新しい町なので、だれかの脳の強い意図によって作られた都市計画や、建築家の脳が作り上げた環境に暮らしているということとを、意識するのはわりとたやすい。
しかしこの脳化された住環境のなかで、私が日々対峙し処理し、ときには格闘して敗北するのは、たとえば、まだ幼い子どもたちの肉体や感情であり、かれらや自分の重篤な病気や障害であり、その他大脳新皮質に由来するところの少ないさまざまな困難であり、家事にともなう様々な物理的、化学的変化であり、天候や災害であり老いであり、さらには時の流れであったりする。つまり、多くは養老孟司氏のいうところの、「かけがえのないもの」に由来するものたちである。
たいていの主婦は、意識するしないにかかわらず、そうしたものとがっぷり四つに組んでいる。それらはごくありきたりで、脳化した枠組みのなかに収まっているように見えるために、もしかしたら陳腐で取るに足らないものとして、養老孟司氏のような人の脳には認識されているのかもしれない。
たかだか人の作ったものと均衡することで、安心を得ることが可能な程度の小自然。都会のマンションの一室で巻き起こる「生老病死」が、それを現場で、場合によっては孤軍奮闘しつつ引き受けているのではない人から、そう受け止められるのも、無理はない。
けれども、たとえばうちの息子。重度の自閉症で、台風のときの暴風が大好きではしゃぎまくり、なのに強い低気圧が近づいて来ると精神のバランスを大きく崩して、大パニックになったりする。脳が大自然とつながった、この天然の息子に、常にすこやかな均衡をもたらすことのできるような「(健常な)脳化システム」は、私の知る限りでは存在しない。一方的に押しつぶし、管理もしくは抑圧することはできても、均衡を取ることなどできるかどうかもわからない。その時々で折り合いをつけ、やりすごすということは、均衡をとることとは少し違うと思うのだ。
そうしたマイノリティの抱える事情に限らず、ひとが生まれ、成長し、老い、病み、死ぬということは、極度に脳化したという都市のなかでも、いや、都市であるからこそ、すさまじい高密度で巻き起こっている。それらと共にありながら、「どうしたらいいんだか」「わけわかんない」と、さほど性能のよくない脳を頭蓋骨ごと抱えながらも、わからないままに折り合いをつけたり受け流したり、ときには撃たれてバタッと倒れたりしながら、ぎゅうぎゅうに人間臭の漂うドラマを醸しつつ、日々を送っているものたちがいる。それを「大自然とせめぎ合う生活」と称するのは、さすがの私でも二の足を踏むけれども、養老孟司氏の切り取って見せてくれる世界とは、相当に印象の違うものを見ながら暮らしていることだけは確かである。
でもこの本を読むのは、とても楽しかった。昆虫採集の大好きな解剖学者の脳が開いて見せてくれる文章の世界に遊ぶことは、脳化した空間の最たるものであるとも言えるディズニーランドに遊びに行くヒマのない主婦にとっては、スリリングでうるわしい娯楽である。
蛇足だが、本書で一番笑ったのは次の箇所である。
「女性は、その出していい顔と手を徹底的にいじる。顔は白く塗り、たいていは赤い口紅を塗って、目の周囲を青くする。赤、白、青とい三色の取り合わせは、マンドリルの雄の色でもあって、霊長類にはもっとも影響の強い色合いです。(p116)」
確証はとくにないが、養老孟司氏もたぶん霊長類だと思う。ということは、やはりこの配色に影響されてしまうのであろうか。いや、あまり考えたくはないけれども、なんとなく気になった。
投稿元:
レビューを見る
一言で言うなら、いつもの養老孟司。
彼独特のシニカルさに、決して同調しようとは思わないけれど、これはこれでひとつの視点を提示し、当然と思っている事象にもフォーカスできるという意味では、カウンターとして意味があるんじゃないかなと。
投稿元:
レビューを見る
理屈には限界があり、それを超えるのは感性だ。
人間の創ったものを信じるな。
予定に支配された未来は現在である。
未来は未来のままにしておけ。
・・・まとめるとそういうこと。
内容は素晴らしいけれど、構成が・・・。
講演をまとめただけのものだから、仕方ないのかもしれないけど。
投稿元:
レビューを見る
・目というのは本当は脳の出店なんです。
・人生は取り返しがつかない決断の連続として見えてきます。
・財産というのは自分の身についたものだけだ
投稿元:
レビューを見る
同じ話題がぐるぐるでるなと思っていたら、
講演会を集めたものだった
現在を意識する
未来は白紙、それは不安とは別、選べる
ケアとキュア
以身伝心、形真似れば心もできるようになる
投稿元:
レビューを見る
真理。
我々は「かけがえのないもの」を尊びながら、我々の社会と言うものはそれをなくす事で発展し続けるという矛盾。
しかし俺はこういうものを危険思想と呼ぶ。
なぜなら、このような真理を知ってしまうことは、「かけがえのあるもの」を作らない、すなわち全て偶然と自然の力に任せてしまうことを肯定するからである。
養老先生の仰る事はとても納得できたし、「予測不能なことがあるから人生は面白い」というのはごもっともである。しかし、だからこそ我々がすべきことはやはり未来と自然を食いつぶし、全てを予測し、因果を追求し、科学することだと思う。そして可能な限りを追求した先に、偶然にも予測不能な自体が起きた時に、我々は「ああ、やられたな」と苦笑いしながらまた自然に挑む。それが人間と自然の宿命の対決であり、その中にこそ人間の幸せはあるのではないだろうか。
「予定されてしまった未来は現在の一部である」
時間についての考察では茂木健一郎と同じことを書いていた。どうやら出所はミヒャエル・エンデのようだ。過去を否定することで、それまでの自分を抹殺することで人は変化し成長し続ける、と前に書いたが、先生は「過去を否定することは現在を否定することだ。なぜなら現在は必ず過去の上に成り立っているから。」と書かれている。これは単に言葉の使い方の問題であって、俺の考えと変わらない。俺はその都度考えを変え続ける、つまり考え続けることを「過去を否定する」と言い、彼はもっと広い意味で、「その否定の連続を肯定する」ということを言っているのだ。俺は何かを否定したり、間違いを訂正したりして何が正しいかということを探し続けることを肯定しているからこそ一時的な否定の連続なのである。
また、老子や荘子、仏教、そしてラスタやナヴァホもそうなのだろうが、「自然に委ねる」思想をまた少し理解した。彼らは予測できないどんな事態にも覚悟があり、勇気があるのだ。臆病な俺や、科学の社会は見えないもの、自然の予測不能な力をあまりに恐れる。だから原因を探り、そこから未来を予測して現在にしようとする。ただ、俺から言わせると、俺はそうやって全ての事象に責任を持ち、自由になろうとしているんだ。みんな何千年もそうしてきただろう?悪あがきだろうがなんだろうが、そうやって見えない大きな力に挑戦し続けてきたんだよ。そうやって自然や未来を食いつぶして、最後に残ったものが、たぶん俺が勝ち取れなかった「予測不能」という人生のエッセンスとなって最高のスパイスを効かすんだろう。
投稿元:
レビューを見る
養老孟司入門に好適な書。脳化(都市化)、自然、手入れ、死体、意識、無意識と云ったキーワードが理解出来る。要素還元主義から導かれる、予定調和的未来なんて幻想に過ぎない。「ああすればこうなる」の価値観は決して幸福を齎さず、後悔を齎すのみになる可能性が高い。増して、意識が創り出した「ねばならない」の絶対主義は不毛だ。 203頁
投稿元:
レビューを見る
「かけがえのないもの」・・・・なんて、妙にきれいなタイトル。養老先生が何を書いているのかと読み進めた。あなたにとってかけがえのないものは?なんて聞かれても「命」とか「わが子」とか月並みな答えしか出てこないもので、養老先生の考える「かけがえのないもの」とは一体何なのか???読んでいくうちにそれは「人間」かなと思ったが、答えはどうも「自然」であるようだ。ここでの「自然」雄大な自然・・・海や山ではなく(いや、それも含まれるのかもしれないが)要するに人工的でないもの、人為的な手がはいっていないものをさす。そういう意味では「人間の身体」もその一つだ。確かに「かけがえのないもの」とは誰も手を施していない自然なるもの・・・。現代では相当価値があるのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
立ち止まって肩の荷を下ろすことができる本。科学者もこういうことを考えるんだな、と共感できるところが多い。
投稿元:
レビューを見る
数ヶ月前からAMAZONで本を買い始めて、活字中毒が加速している。
50歳くらいの時に見るべきものは見た、読むべきものは読んだと思ったことがあるが、いやいやどうして時代も世界も諸行無常、絶え間なく変化するので次々と見たいもの読みたい本が続々出てくる。
今読んでいるのは、養老孟司さんの「かけがえのないもの」新潮文庫。
「バカの壁」で彼の名が世間に出たときは立ち読みをしたくらいだが、最近何冊か読んですごい人だなと思う。彼の本を読むと、自分の考え方がついつい世の表面的な事象に惑わされているのがよくわかる。
彼の言うことは物事の根本、根っこを捕まえて言うので、言葉にすると見もふたもない話だが、その視点は斬新。彼の使う言葉は平易でありわかりやすいが、根本的哲学的なので言わんとすることをつかむのは結構難しい。この「かけがいのないもの」は彼の本の中でも本質的という意味でベストだと思う。
「我々が住むのにいちばん楽な環境、安心できる環境というのは、私たち個人個人がそれぞれもっている心と体です。この場合、心は意識的なもの、体は自然がつくったもの。両者の釣り合いが我々の中にあるはずで、その釣り合いが狂うと居心地が悪くなります。つまり脳のほうに行き過ぎても、私はそれを脳化社会というふうに表現しましたが、どうも居心地が悪い。しかし完全に自然状態に戻せば、不気味な世界になってしまいます。我々個人が持っている自然と人工、あるいは心と体の釣り合いのようなものがあると思います。両者がうまく均衡する状態に落ち着いたとき、いちばん安心できるのではないかと思います。かけがえのない人間というのは、そういう存在だということです。」
「戦後の日本は何だったかということです。多くの人は民主化とか近代化とか、いろいろなことを言いますが、 私はそれでは話がわかりにくいと思う。話の筋が見えない。戦後起こったことの本質をはっきり言えば、それは「都市化」なのです。」
過剰な脳化、都市化は世界的人類的な課題です。あらゆる国、民族の共通課題です。一部引用でわかりにくいかもしれないが、養老さんの考えを今の世界の色々な出来事にあてはめると、ウーンと思うものがあります。彼の意見には目を離せません。
投稿元:
レビューを見る
都市化によって人間の生き方が変わったという一貫した主張。
自然を制御するのは難しい。
人生は予測不能だから面白い。
投稿元:
レビューを見る
「意識の外にあるものを認めない=都市化=バカの壁」と考えていいのかな。「壁(=意識)の外の世界を経験してみなさいよ」ってことだろうか。
投稿元:
レビューを見る
脳化した世界では未来が無くなっている。
なるほど、と思いました。
ああすればこうなる。こうすればああなる。
想定して生きる社会にあるのは未来ではなくずっと続く現在なのかも。
予定表が現在なんだ、は何てわかりやすい。
想定外を前向きに受け入れるのが大切だな、と。
思った矢先に大災害が起きました。
自然は予測出来ないもの。
都会は脳から生まれた想定内の固まり。
この本でも書かれていた事だけど。
何か災害が起こると不祥事だと言って関係者をつるし上げる。
まさにその通りの事が起こっています。
今回の震災が起きて養老さんが言われた言葉が
「今、僕たちの目の前に起きている事は問題ではなく答え」
色んな養老さんの書籍を読んでいるとこの一言程スっと入ってきてわかり易いものはありません。
がけがえのないもの。
大事にしたいです、ほんと。
投稿元:
レビューを見る
折りにふれて読み返したい本。
埋めてしまった予定は未来ではなくもはや今、予測不能なのが未来の貴重なところ
投稿元:
レビューを見る
http://daily-roku.hatenablog.com/entries/2013/07/04