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2010.2.2 図書館。
確かに日本てのは回りをキョロキョロして、あの国がこうだから日本もこうあるべきとかばかりですね。辺境というキーワードで考えるとすっきりしますね。日本は各国を引っ張っていくようなリーダーにはなれないか、それはそれでいいですよね。
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今まで日本人の言動に対し疑問を持つことが多かったが、本書で解決した点もあり、また今後考える上でのヒントを大いに学んだ。
繰り返し熟読する価値アリ。
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大学の授業で、モンゴル語科の先生が「中国語やってる人は中華思想までうつるんですかね」とぼやいていたことを思い出した。
「日出づる国」なんて自慢しても、結局は中華思想に囚われてるんだ。
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日本の中華に対する辺境性を語った本。内容はわかりやすく、単純な論。
なにはともあれ言葉づかいというのはやはり大切だなと思った。きっと著者と直接話してもそういう風に感じるのだろう。癪に障る。出だしが一番きつい。
何を学ばなければならないのかを先駆的にわかってしまう、という。絶賛するほどではないけど、民族論(日本人固有の文化らしい)もたまにはよい。
はやりの本を本屋で買う。新書ランキング1位だった。
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武田鉄矢さんが、ある番組で紹介しているのがきっかけとなって読んだ本なんです。
日本人は、何故国の成り立ちを知ろうとしないのか。
君が代は、ヨーロッパ人が作曲したことをどれだけの人が知ってて反対しているのか。
とっても勉強になる一冊です。
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「その欠点は、同時に、外来の知見に対する無防備なまでの開放性というかたちで代償されている。外来の知見に対したとき、私たちは適否の判断を一時的に留保することができる。極端な言い方をすれば、一時的に愚鈍になることができる。それは一時的に愚鈍になることによって知性のパフォーマンスを上げることができるということを私たちが(暗黙知的に)知っているからです。」-『辺境人の「学び」は効率がいい』
評論は、それは常に批評として位置づけられる定めを負っているとも思うけれど、論者がどれだけ自らを中立的な立場に置こうとも、批評の矛先を向けられている側は、論者が中立地帯という安全域に逃げ込もうとしているように捉えがちで、となると常に対立的な構図を生むことになるのだろう。そう自分で書いていながら、言葉のバランスに気を使っている自分がいることもうすうす感じる。裏に保身的なニュアンスが見え隠れする「地雷を踏まないように」する気持ちがある。つまり自分も中立的な立場を探っている。
内田樹先生の評論は、そういううじうじしたところが無いのが最大の魅力だろうと思う。もちろん、内田先生も自分の立場が中立的なものなんですよ、というメッセージを書くには書くが、一般的に評論が背負わされている上記のような構図は、さしもの内田節でも逃れようはないだろう。そして恐らく、この本の批評性に、とにかく異議を申し立てる人は出てくるだろうし、自分の見解に対して判断を留保しない(ということと自説に拘泥するということの違いというのを、こうも見事に示されると、その鮮やかさに目を奪われ論説そのものをよくよく吟味もせずに受け入れてしまいがちになるのだけれど)態度に、気分を害する向きもあるだろう。でも、この本で述べられていることは、常に俯瞰的な視点から示された知見であり続けているように思うし、その知見を一端受け止めて吟味する価値はものすごくあるだろうと思う。
「街場の中国論」で華夷秩序という考え方を学んだ時にも何か胸のつかえが取れたような感慨があったけれど、その視線をぐるりと東へ向けて見れば、この本に書かれているような日本人論に行きつくのは当然であるのにも係わらず、全く日本人である自分を棚に上げて中国とその他の「えびす」のこととして話を理解してしまっていた自分がいたことを、改めて気付かされた。更に、その「棚に上げた感じ」が辺境人としての癖に繋がっていることも指摘された思いがあり、二重にやられたという感じがする。でも、よく日本人はディベートが下手だとか、建設的な批評ができないとか言われるのが、日本語に沁みついた関係性重視という特徴にあるのだとすれば、自らを中立的な立ち位置へ追いやっておくことは案外建設的なことなのかも知れないな、とも思ってみる。まあ、一般的には「評論家的態度を取る」として忌み嫌われ易いけれども。
この本の中で一番気になったのはレヴィナスの教え。「起源からの遅れ」という感覚は自分には案外なじみのものであって、それは自分が早生まれであることに由来するものなのだろうと、ずっと勝手に納得してきたのだが、しかしそれは辺境に生まれたことを前提として受け入れている日本人の根底にある感覚であると諭され、大いに納得する。まあ、そういう態度がそもそも辺境人的ではあるとも思うが。
それでも、内田樹先生の評論を読むと元気がでるし、やはり自分は「だから追いつけ」という言を吐く側(つまり虎の威を借る側)の人にはなりたくないし、コツコツ自分に解る言葉で理解を重ねていきたいと思うことは案外悪いことじゃないという気が、今さらながらにしてきた。だって、最初から遅れているなら今更遅すぎるということもないだろうし。
「ゲームはもう始まっていて、私たちはそこに後からむりやり参加させられた。そのルールは私たちが制定したものではない。でも、それを学ぶしかない。(中略)何しろこれが何のゲームかさえ私たちにはわかっていないのだから。」-『辺境人の「学び」は効率がいい』
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この本はお掃除本である、と著者が題する内容。日本人とは辺境人である。辺境人だからこそ、相対化しないと自身の位置が確保出来ない。「きょろきょろする」(丸山眞男)。そんなやり方をとことん貫こうよ、という内容。中華思想にあり、明治維新以降においてもそのメンタリティーは代替されなかった(先行者の立場から他国を領道することが問題になると思考停止に陥り、ベルサイユ条約以降もとことん帝国主義、あまねく東洋を威服せんをやり続けた)というのはなるほどと思った。以下、気になった箇所。何が正しいのかを論理的に判断することよりも、誰と親しくすれば良いのかを見極めることに専ら知的資源が供給される。情報量の多寡と状況判断の当否は必ずしも相関しない。教化的とは諸君はまだ知らないが、私はすでに知っているからであるという言葉を口にすること。保証人を外部の上位者に求めてしまう弟子の思想(=辺境人の思想)。しかし、辺境人の思想は根本的な問い(必要性、それが何のためか)という議論ではなく、一時的に愚鈍になり(適否の判断を一時棚上げし)、知性のパフォーマンスを上げてきたとする(同じようなやり方が出来るのはユダヤ人だと内田氏は続ける。)。最後に学ぶことの意義、メリットデメリット論が学ぶ力を衰退させているとしている。終盤は水村美苗氏の『日本語が滅びる時』を彷彿とさせる内容でした。日本のやり方、キャッチアップのまとめとして有用かも。
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恐らくかなり難解なことを、とても分かり易い言葉とたとえ話で、細かく順序だてて話が展開されていき、気がついた時には、「こんなところまで来てしまった。」「あれ、結局何の話だったんだろう?」と頭の悪い僕にはそんな感覚に落ちる本である。
しかし、とても大切なことがたくさんちりばめられていて、様々なものを学んでいく上でヒントになるようなことが随所にある。うんうんうなづきながら読んだ箇所がどんなに多いことか。お陰で付箋だらけになってしまった。
ああ、おもろかった。日本人であることが、楽しくなったのである。
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非常に分かりやすく、日本人について俯瞰的に考えさせてくれる一冊。
「辺境」とは世界の中心である「中華」に対する言葉であり、
自ら何かを創ることをせず中華から与えられたものをうまく変化させて受容する態度を示している。
この態度は決して悪いものではなく、
こうした態度によって日本人は外交を巧みに行ってきたし、
外部の入力に対する応答も優れている。
?「機」の思想 は分かりにくかった。
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日本人自身はなかなか気付かない、日本人の気質というか物事の受け止め方をうまくまとめています。
日本人は世界の中でも例外的に「日本人とは?」と考えたり、読んだりするのが好きだ、と書いていますが、実際、この本がかなり売れているみたいなんで・・・そうなんでしょう(笑
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とりあえず日本人の主体性のなさ、お手本がない場合の危うさについて、その理由を述べている。
逆にお手本を作ればうまくいくかもしれないので、少子化対策はフランスをお手本にするとか、労働問題はオランダお手本にするとかとにかくお手本をとりあえず作ってしまえばいいのではないだろうか(極論)
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絶対的な権力者との距離の取り方は絶妙
それが辺境の地の日本人なのだから
それでいいではないかという
内田樹先生独特のいいっぱなしの語り口。
先生の本心かどうかはよくわかりません。
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何かの理由で挙国一致的な努力が要されるときは、このままでは世界標準から遅れるぞ、世間の常識を知らない田舎者でいいのか、と言われる。
世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することができない、それが辺境の限界。
司馬遼太郎の作品で翻訳されているのはたったの3点、吉本らの外国語訳もされていない。
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「日本人とは何ものか」という問いに、辺境人という位置づけから
アプローチした日本論。
2月の帰国の時に、ベストセラーになっているって言うので
買いました。
筆者も断っていますが、大雑把な感じは否めません。
ただ、何か物事を論じる際に、何かと比較でしか
物事を論じられない日本人って言うのは的確な
指摘だとは思う。
反対だけは言えて、じゃあ何をしたいの?って聞いたら
何も言えなかったりするし。
高校3年間の担任が現代国語の先生だったので、
こんな類の比較文化論みたいな本はよく読んだなぁ
なんてことも思い出しました。
http://teddy.blog.so-net.ne.jp/2010-04-29
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色々うまいこと言うな~!って思いました。日本人ならうんうんそうだよね…ってなるというか。序文でだいぶ予防線張られているので(笑)細かい突込みはできません。というか新書でこんなに大風呂敷を広げたらそら粗い論にもなりますて。なんかこう、大学の講義で先生が雑談してる感じで読むとよいのでは。講義って雑談がいちばんおもしろいんだよね…。
もしかして『「機」の思想』の章ですか、「筆がすべってる」ってのは。
ここだけ私ちょっとついていけなかったもんで…
「知機」っていうのはそうか、「相手の心を予測する」というのではもう遅いんだ、意識する前に同調するという感じなのか。というのはなんとなく…。