紙の本
久々に純文学らしい文学を読んだ気がする
2023/05/20 12:17
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
長崎を舞台とした6篇の短編が収められている。タイトルは漢字一文字で統一されている。原爆を主題とした短編集であり、それに隠微な性の問題が絡まっていたりする。久々に純文学らしい文学を読んだ気がする。
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どれも面白かった。『釘』『石』それからなんといっても『蜜』が素晴らしかった。この短篇集で『蜜』のもつ役割のようなものはかなり大きいと思ったし、それ抜きにしても一つの作品として際立っていると思った。浮気、同居、そういった設定も確信的でよい。
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長崎の原爆と信仰と人の業が絡み合う6編。
触感に訴える生々しい描写と朴訥な語り口に翻弄され続けた。
読めてよかった。
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小さな地方の町にくらす、ごく平凡な人々を、何の衒いもない、その地の話しことばで描いた短編集だ。それなのに、文章からあふれだすこのイメージの豊潤さはどうだろう。「まだ、生きておるね?」と問いかけてくるウマオイ。寝静まった真夜中の街を、枕元までひたひたと押し寄せてくる海の水。発情した雌の匂いを放つキウイの実…。言葉のもつ想像力をひさびさに深く味わう読書体験だった。これらの短編に登場するのは、大切な誰かを失った空虚さや、老いていくことの心もとなさに、ただじっと耐え、祈りながら、先祖からの生活をなんとかつなぎとめようとしてきた人たちだ。しかし彼らのつむぐ糸はあまりに細くたよりなく、生に生じたほころびの中で立ちすくむ瞬間に、60年以上も前にこの街を覆った原子野の記憶が、この現実に浸み込み侵食するのだ。そうしたやり方で、この戦後生まれの作家は、原爆を私の物語として語っている。その手つきは、短編集の最後に置かれた「鳥」で、老夫婦が傷つき苦しんで死んでいった鳥を葬る場面によく示されているといえるだろう。なぜもっと早くに気がついてあげられなかったのか、すまない、すまないと、聞こえない声を聞きとれなかった罪をわびながら、ただ傷ついた白い羽根をなでさするその手つきに。遥か昔にカトリック信仰をもった人たちが焼かれ、原爆でさらに多くの人たちが焼かれたその土地で、今も小さな人たちが、答えのない問いを神に投げかける。その問いに答えるというよりも、問いに向き合うひとつの態度が、ここには示されている。豊潤にして深い言葉のちからを感じさせてくれる小説だ。
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爆心地長崎を舞台に、敬虔なクリスチャンに課された原爆という試練と、信仰と人の業の葛藤を描く6つの短編。
爆心地は多くの人の命が失われた神聖な地であるとともに、原爆に傷つけられた多くの人たちが生きる営みの地でもあった。
原爆症や外傷に苦しみ、地を這い生き延びた人々は、その苦しみを心の奥底に隠したまま生きてきた。
被爆後70年を迎えようとする昨今でも、心の中の大きな傷は癒えていないことを知った。
被爆地の傷が早く癒えることを望むとともに、この傷のことを永遠に忘れてはいけないと思った。
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数年前から原爆についてたくさんの本を読むようになった。当然ノンフィクションが中心になるが、被爆者文学というか、フィクションもたくさん読ませていただいた。
そして気づいた事はヒロシマとナガサキでは、フィクションの読後感が少し違うという事だ。
やはり最初の原爆投下の土地という事もありヒロシマが注目されがちだし、調べたわけではないが、被害の規模や悲惨さを語ったものでもヒロシマは数多い。
一方でナガサキは二つ目の被曝の地であるが故か、ヒロシマの影に隠れがちな面があるし、キリスト教の信仰の厚い土地という事もあり、原爆の受けとめ方の中に信仰が入ってくる事で、ヒロシマのそれとは少し基調が異なる。
爆心はそんなナガサキに居て、被爆者ではない作者が、爆心の土地に住む人々、それもまた被爆者もいれば、その事実自体に興味も薄い人々も絡めて描いた短編集。
一般的に想起されるような核廃絶とか、戦争の悲惨さを語るものとは少し異なる。
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桜庭一樹氏の読書日記で気になっていた著書。長崎の原爆、爆心地が背景になっているけれど、原爆そのものではなく、遺族や後世の抱えた暗翳を中心に描かれており、諸所にエロスやユーモラスも含まれ、非常に読み易い短篇集になっている。
『釘』『石』『虫』『蜜』『貝』『鳥』の六篇ともに、共通するのは、「長崎の原爆」「信仰心の深いキリシタン」「精神的な病」。涙が流れるような内容ではないけれど、どれも記憶に残る印象的なストーリーで、それぞれのバランスが絶妙。最終話の『鳥』は、家族とはなんなんだろうと居た堪れない気持ちになり、とても感慨深かった。
何故、キリスト教信徒の多い長崎に原爆が落とされたのだろうか。神様なんているのだろうか。祈りは神様の元に届かなかったのだろうか。原爆によって戦争は収束したけれど、爆心地で生き延びた人々やその遺族は、一見平和が訪れたように見えても、永遠に真の安らぎというものは得られないのかもしれない。
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自分が被災地の生まれというのもあるのでしょうが、
原爆ものは、気になるんですよね。
もちろん当事者ではありませんが、
子供の頃から当たり前に側にあって、
さらに、ちょっと突っ込んで考える節のある子供だったので(苦笑)、
どんな風に表現するんだろうっていうのが、
結構気になったりして、
つい手に取ってしまうワタシです。
これはね、うん、
面白いか面白くないかって言ったら、
正直面白い本じゃないですよ(苦笑)。
エンタテイメントを求めるなら、
どーぞ回れ右。
でも、戦争とか原爆とか、
そういうものに対して、
少しまじめに考えてみたいって言う人には、
超オススメ。
感情描写も人間模様も
ドロドロしてるけど、
短編だから、慣れない人でも持ちこたえられるんじゃないかな。
秀作だと思います。
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映画にもなった原作本を読んでみた。「貝」幼子を肺炎で亡くしてしまった父親の悲しみ表現は、何となく共感できた。
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今年の夏で、終戦後六十九年目を迎えた。戦争を風化させまいとする新聞読者欄に投稿者の年齢も、その多くは八〇歳を越える。その事実がかえって、戦争の記憶が薄れつつあることを知らせる。敗戦国として、そして被爆国として、記憶し、語り継ぐべきことは、まだ多く残されているのではないか。
『爆心』は、長崎の原爆をテーマにした短編小説集。谷崎潤一郎賞、伊藤整賞を受賞。筆者は、長崎市役所に勤務する傍ら、作家として活動している。短編はそれぞれ、「釘」「石」「虫」「蜜」「貝」「鳥」という漢字一字の題がつけられており、原爆の残した肉体的精神的傷跡を、丁寧な筆致で描いている。
原爆は、あまりに多くの人の命を奪うことによって、受けとめることのできない不条理を長崎の人々に突き付けた。クリスチャンの人々が暮らしてきた街を、同じキリスト教信仰であるはずの国が焼き尽くす。神を信じてきた人々を、神を信じるはずの者が殺す。その不条理が、人々の生活を、信仰を、他者への愛を、揺さぶり変質させた。
「わしらが神さまば信じるようには、神さまはわしらのことを信じてはくれんとでしょうか」(「虫」)。信仰心の不足を悔やむのではなく、信仰という人間の行為そのものの虚しさを言うのだ。「おとうちゃん、神さまがいると信じておるか?」「あたりまえやろうが」「それこそ、妄想じゃなかろうか」(「釘」)。科学的な神の不在を嘆くのではなく、人間同士のどうしようもなさ、情けなさを言うのだ。(K)
「紫雲国語塾通信〈紫のゆかり〉」2012年8月号より。
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「長崎の記憶をおりこんだ小説6篇。キリスト教が弾圧された時代に、信者たちが火あぶりや水攻めにされた殉教の歴史。45年8月9日、原発が落とされた被爆地としての過去。重苦しい土地の記憶は、現代を生きる人たちの日常にふと、立ち現れる。
なぜ自分だけがこんな目にあうのか。悲劇に遭遇し、神や運命をのろう。そんな人間の弱さが6編全てに刻印されている。だが、キリスト教徒の迫害も戦争も、人間自身がおこなったことだ。」
(『いつか君に出会ってほしい本』田村文著 の紹介より)