紙の本
地理学的彷徨恋愛小説
2003/11/01 23:06
4人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:脇博道 - この投稿者のレビュー一覧を見る
主人公が東京に到着し住まい探しをまず行なう描写からこの小説が
有する移動的快楽にぐんぐん引き込まれていくのであるが主人公が
眼にする表札には鴎外自身のものも有り諧謔的趣味ここに極まれり
といった面白さもさることながら他の同時代作家への皮肉もそこは
かとなく散りばめているあたりが一筋縄ではいかない鴎外自身の複
雑なる性格も伺えて非常に興味深いのであるがさりとて本小説が漱
石の三四郎に刺激されて書かれたものである事は周知のことがらで
あり主人公が漱石の分身ともいえる当代の人気急上昇中の作家の談
話会に出席する場面は前半の山場であるがここの描写は鴎外が漱石
に一目も二目も置いていたと思われる畏敬を含んだ描写としてその
作家の講演自体が現在においても傾聴に値する内容を含んだもので
あることはなにやら本小説が入れ子構造を有しているようにも思わ
れるのであるがこの場での主人公が木下杢太郎の分身たる登場人物
との邂逅を果たす場面はたまらなく良いのであるし以後この2人の
友情を軸としてしばらく話は展開するのであるが上野の西洋料理店
で2人が交わす会話はこれまた先程の談話会に勝るとも劣らない哲
学的考察に満ちていて魅力的でありその直後汽車に乗った際の木下
杢太郎的登場人物が見せる意味深長な素振りはそのまま2人の意味
深長な関係性の端緒ともいえるのであるがそう深読みをせずとも当
時の風物誌的読み方を行ないながら主人公と移動を共にすれば充分
楽しめる訳でもあるのだがあろうことか劇場で邂逅した美しき婦人
との出会いが主人公を恋愛の煩悶にどんどん導いていく描写は読む
側としても中々煩悶を強いられる場面の連続でありこの辺の消息が
漱石の三四郎においての類似した場面では極めて映像的に美しく描
かれており読者に一抹の清涼感を残す語りの巧者としての腕が冴え
ていたとすれば本小説では一途に思念的になっていく主人公の内心
忸怩たる気持ちはよく解るとはいえ中半あたりまでの心地よい速度
感が残念ながら少々そこなわれているのも事実なのであるが三四郎
の軽快さに対峙しつつ本小説を異なる角度において収斂させようと
する鴎外の気概も伝わってくるようでもありこの辺が2大巨匠の創
作の方法論が大きく異なる部分であるとの深読みもつい行なってし
まう訳ではあるが結局のところ本書も三四郎も同程度の頻度で再読
してしまうのはそのやうな差異を超えた所でどちらも優劣付け難い
魅力を有する小説である証しといえる。
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小説家志望の上京したばかりの純一の話。女性や、会合で出会った大村や、読書など、その生活の中で体験したことを糧に次第に内面を充実させていく。
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2006. 10月頃
過剰な自意識を文章として出されても何も感じない
僕はそんなに自意識過剰でしょうか。
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森鴎外2冊目はこの『青年』であり、これを選んだ理由はただ目に入ったからです^^ どれが有名な作品かもわかりませんよっと\(^o^)/ でも、そういう境遇で読んだものの、なかなか興味深いものでした。もちろん、時代や環境がまったく違うものの、私は主人公に共感するところが多々ありました。よくこのような青年の心を書くことができると、つくづく感心させられます。あ、私はまだ青年の心を持っていますよーヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
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ニイチェの詞遣で言えば、einsamなることを恐れたのではなくて、 zweisamならんことを願ったのである。
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目の描写がよくあるきがする。主人公やお雪、未亡人の目。それぞれの目。
漱石の「三四郎」と比較される事がよくあるかな?発表時期も近いし、内容としても。
横文字混ぜてくるのはまあしょうがないですよね。
男子の貞操について悩んでるの面白い。
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三四郎に対抗して書いたらしい。
鴎外自作の東京地図を辿りながら主人公が歩いていく場面も
初めだけだし、お雪もおちゃらもキャラが弱いかな。
坂井夫人も初めは強烈だけど、後は印象が薄い。
物語の筋も主人公が文学を書こうとしながらも書き上げられず、
やたらモテるという中途半端な感じだった。
ふらんす後が書いてあっても意味がわかりませんな。
ロシア文学だと訳にフリガナとしてフランス語だったりするからわかるけど。
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田舎の金持ち坊ちゃんが小説家志望で東京に出てくるが、具体的には何もせずうだうだと暮らしてる話。美人の未亡人にふられて今なら何か書けそうだ!てとこで終わってるが、きっと何も書けないでしょう。
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難しく、まだ良く解らないので時間を置いて再読したい一冊。背伸びしても響かんものだなぁ…と実感。あ、でもほかの方のレビューを見てたら、三四郎を先に読んでみたいなと思いました。
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思想の話やあたしの知らない人物、外国語がでてきて読みにくかった。あきらかに知識不足。それだけの知識を持った森鴎外はさすがというかなんというか。
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解説にある通り、夏目漱石「三四郎」に対する森鴎外の作品といっていいと思う。自分としては「三四郎」よりもこの「青年」の主人公の方が自分の感覚に近いような気がして、場面、場面の心情に同意できる。20代の初めってこんな感覚だったなぁ…と懐かしくなったりもした。間違いなく良い作品。
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時は明治。田舎の裕福な家庭に育ったぼんぼんの小泉純一は、上京し小説家を志していた。東京では同郷の小説家や、美術学校に通うかつての同級生の瀬戸、文学を愛好する医学生の大村などとの交わりで次第に東京にも慣れ始めていたが、ある日、劇場で出会った美貌の若き「未亡人」坂井夫人に誘われるまま彼女の豪邸を訪問し、そこで「男」になるのであった・・・。
この物語自体、特にどうという進展がなく、ひたすら主人公が出歩き交流してその時々に考えた様子を描いているだけなのですが、何ともいえなく味わい深い雰囲気を持った作品でした。主人公が訪れる小説家の部屋や、文学会の様子、同郷会の宴会、街々の風景など「明治」という空気を感じさせる「場」の雰囲気がとても良く、そして、そこに登場する遊び慣れた瀬戸や、西洋文学に造詣が深い大村、それに愛なく純一を虜にする坂井夫人といった様々な人物要素の対立軸で、田舎から出てきたぼんぼんの精神を涵養させていく様子はある意味「律儀」な展開の面白さであり、その鴎外特有の和洋をとりまぜた硬質な文体と相まって、なかなかコクのある香りを発散させていました。時折挿入される西洋文学や哲学の評論や引用なども、この雰囲気を盛り上げるのに一役も二役も買っています。
最後は「精神」の修練と愛なき「性欲」の対立項という「青年」ならではの葛藤と展開になり、その衝動と知性に揺れる描写はなかなか面白いものでありましたが、それが「青年」の「文学」に昇華された様もみてみたかった。
それにしても、借家の知人の令嬢で微妙に迫ってくる「お雪」といい、宴会後にこっそりと名刺を渡してきた16才の美しい芸者「おちゃら」といい、箱根旅館の女中の中でも一番美しい「お絹」の微妙な干渉といい、そして誘惑され速攻落とされた美貌の「坂井夫人」といい、「精神」を磨き「文学」を志す!なんていってられないほど羨ましい境遇ですね。(笑)
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なかなか面白かった。道徳についての思い悩みなど自分と重なるところ多し。
先生は「能動的な受動」「歩く耳」と言っていた。小説家になりたくて上京したものの、積極的に話したり書いたりするわけでもなく創作意欲があるとはとても思えない、自分の身の置き場にひどく困っているわけでもない、借りた本も読まずに返す。
適度な世渡り上手と恵まれた境遇ゆえに、切羽詰まることなく、結末でも書けるかどうかは分からないまま切られてしまう。
今の自分にぴったりな作品だった。
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1910-11年発表。西欧語と和装用語が満載の教養小説だが、美男子がもてまくりつつ自分の性欲に悩むという面倒臭い話でもある。当時の高等遊民の風俗や、イプセン、メーテルリンク、ヴァイニンガーあたりの知的インパクトが推し量られる点が興味深い。
「人形食い」という言い回しが出て来て、他でも見かけたような気もするが、面白いなあと思った。少し前なら面食い、今ならイケメン好きと呼ぶところだが、今も昔も特に女性の性向として特化されるのはどういうわけか。もっとも、本作ではあくまで、男性から見た女性の異常性欲という扱いなのに対して、イケメンはむしろ女性同士の隠語のような気がするので、それはそれで、時代の流れと言うべきか。
それにしても、本作はブクログではISBN検索でしか引っかからないし、iPadでは「性欲」は助詞付きで変換できないし(あ、「助詞」もだ)、何とも暮らし辛い世であることよ。
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文豪、森鴎外の作品『青年』。
実家の私の本棚から取り出しました。
中学生のころに買って読んだ本です。
一度読んだ本を、今の私がもう一度読んだらいったい何を想うか。
主人公の名前が「小泉純一」。
なんとなく、今は政界を引退した元総理大臣のことを思い起こさせます。
私が本を読むときはあまり主人公のイメージを固めないのですが、
この作品に関しては、元総理大臣の息子(芸能人のほう)のイメージが定着してしまいました。
しかも、純一は地方のお金持ちの家の人。
勉強ばかりしてきた育ちのいい、しかも外見がとてもよいお坊ちゃま。
親の援助で東京に出てきて、「本を書きます」といいながらも
なかなか手をつけることをしない。
医師を目指す友人と議論をたたかせたり、
人脈を広げ見聞を広げようと、いろいろな会合に顔を出すが、
たいした収穫も無い。
あげく、偶然であった魅力たっぷりの未亡人にもてあそばれ、
傷心の坊ちゃまは未亡人のもとから逃げ帰る。
自分を傷つけた未亡人へのあてつけで、ようやく
本の執筆を決意する。
「今書いたら書けるかもしれない」
なんなんだ、この男、「小泉純一」。
これが「青年」なのか?
こんなんでいいのか?小泉幸太郎!!
解説を読むと、文学的な裏づけがしっかりしていて、
また当時の世の中への風刺がちりばめられている作品
とのことです。
すみません、私が不勉強でした。
結論:私、中学生のころにはこの作品読んでいないと思います。