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ここでとりあげられている映画を見たくなった。
特に興味深かったのは第3章の「アメリカの男はアメリカの女が嫌い」である文化についての考察。
「アメリカ」というのは昔からなんとなく子供の時からひっかかる国(言葉?)なのである。自分の違和感がどこから来ているのかの一つの切り口になったら面白い。
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文庫本になってやっと読んでみました。
内田さんの書かれている物はなんでも好きでわりとよく読みます。
昔の映画も好きなのでこの本はとても面白かったです。
ただ、ヒッチコックの「裏窓」という映画のくだりでフーコーなど登場するとちょっと難解でつまづきました。
面白かったのは「エイリアン」の章。
「エイリアン」は以前に何度も観たのでとても分かりやすく・・・
いえ、というより実はそういうお話だったの??と、ちょっとびっくりしました。
ジェンダーフリーというのはいかにもアメリカ人が好きそうなテーマですよね。
あらためて、映画って深いと思いました。
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いっぷう変わった映画評。映画を通じて現代思想を紐解こうという試みは、興味深くもあるがこじつけに思える部分もある。筆者自らが述べているように、これはひとつの(しかもかなり変わった)見方にすぎない。が、その論理の展開が面白い。娯楽映画に隠された(?)メッセージをこんな風に読み解けるとはまったく想像もせきなかった。とりあえず、もう一度この映画たちを観なくては。
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なかなか、楽しんで読めました。ボールには価値はない。次の多様性を引き出すパス(解釈)こそ称賛されるなんて、ホント巧いコト云いますね。
だけど、それじゃいつまでも、ゴールが無いじゃない、というのはウチダ先生に対するというより、構造主義的言説に対する不満。ポストモダンのやり方。作者を否定して、作品をテキストとして扱うというその方法に、限界を感じるというか、いい加減飽きているんですよね。だって、意識してか無意識かは判りませんが、鳥ならざる鳥を不自然に登場させているのは、ヒッチコックその人に間違いないのですから。
それでも、ウチダ先生の映画解釈はなかなか刺激的でした。
しかし、クズ映画という映画まで、よく見てられるんですね。変な処に感心。僕は、この本に取り上げられた中ではエイリアンしか見ていません。海より深く反省。
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副題 ハリウッド映画で学べる現代思想
副題が示す通り、これは映画評論ではなく、思想論なので、なかなか歯応えのある本でした。集中して読まないと、頭に入ってっこないし、理路がわからなくなる。
内田さんの文章の読みやすさは、極めてロジカルで、随所に喩え話を交えることで成り立っている。
この本では、その喩え話が映画に固定されているわけで、その映画を知らないと、話がわからない(笑)。
だから、歯応えのある本だったのだ。私が観たことがあり、記憶に残っている作品であれば、氏の展開する論考がより深く、分かりやすくなったはず。
とは言え、随所に面白い分析を見せてくれました。
文章を「テクスト」つまり、一本の文脈と見るのではなく、『織物(テクスチャー)』と解釈し、より複雑な絡み合いを通じて織り上げられる生成物だという視点は特に印象的なものだった。
しかし、この人、映画もたくさん見てるのね。すごいなぁ。
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映画を題材にした現代思想の入門書。
第一章でラカンの欲望論、バルトのテクスト論、フロイトの精神分析が解説される。(あとフーコーも)
第二章では、フーコー「言葉と物」で語られるベラスケスの「侍女たち」を再解釈する。題材はヒッチコックの「裏窓」と小津安二郎の「秋刀魚の味」で描かれる四人目の会席者と第四の壁という概念。
第三章はアメリカのハリウッド映画、特に西部劇を取り上げアメリカのミソジニー(女性嫌悪のイデオロギー)理解を説明。
全体的にスラスラ読めて内容も分かりやすかった。
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人間たちの欲望はつねに「おのれが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」を軸にして編成されています。p.103
「それが意味するものの取り消しを求めるシニフィアン」を中心に欲望は編成され、そのシニフィアンを退蔵し、パスすることを怠ったものはその瘴気に打たれます。p.137
わかったようなわからないような。
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映画を元に現代思想を学ぼうという趣旨の本。なかなか面白かった。
いくつかの概念をインプットできた。
その中の一つがマクガフィンという概念。マクガフィンとは「それが存在すること、それが何であるかという同定を忌避することで、物語の中枢を占め、人々を支配されている装置」のことをいう。例として挙げられるのがスパイ映画での「人々が命がけで奪い合うもの」。
他に気になったキーワードは実定的な抵抗感、欠性的な抵抗感。
「何を意味するのかよくわからないものが映り込んでいるというのが映画の魅力」「意味の亀裂がある部分こそ、人間は解釈をしたくなる」など色々なるほどなという主張が散見された。もう一度読みたい映画論。
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物語が「物語」たりえるのは構造があるからである。話をつくるための枠組みをレヴィストロースは「構造」と名づけたのだった。そして実はその構造の種類とは意外と少なく有限である。ストーリーラインはパターン化されていて、多くの物語はその反復に過ぎない。バルトにいわせれば、これは「私たちの精神の本質的な貧しさ」ということになろう。といって物語そのものが貧しいということにはならない。なぜなら有限の構造の組合せで複雑な物語を無限に生みだす事ができるからだ。でなければ、今日まで映画を創り続けられたはずはないし、多くの人々が魅かれるはずもない。本書ではその映画の多様性がどうして生まれたかをみんなが知っている作品を題材にして分析するものだ。
文学と映画の違いはなんだろうか?ある人はいう。前者は文字情報のみであるが、映画は映像、音響、文字情報、etc五感を刺激するすべてを使うことができると。ある人は、アンダムアクセス、シーケンシャルアクセスについて語るだろう。しかし、最近はBD,DVD、電子書籍が登場して書物と映画が接近しつつあるのだという向きもある。にもかかわらず、映画と文学には大きな隔たりがある。それは映画は莫大なコストをかけてはじめて成立するという厳然たる事実だ。つまり、映画はマーケットと直結していて、観客を動員して初めて成立する芸術分野であるということだ。(多くの)観客の参与を必要とするからこそ解釈という神話的要素がパッケージとして商品化されているのだ。映画は集団的創造であるからこそ、何を意味するのかよく分からないものが移りこんでいる。意図せざる映画内の記号に本質的な魅力があるのだと著者はいう。バルトはそれを「鈍い意味」と評した。以下引用
「鈍い意味はシニフィエなきシニフィアンである。それゆえ鈍い意味が何を意味しているかを名指しすることがこれほど困難なのだ。(中略)鈍い意味を確定することができないのは、明示的な意味とは逆に、それが何ものをも複写していないからである。何も表象していないものをどうやって記述すればよいのか」
彼は(ロランバルト)後にこうした物語をくつがえすことなく、別の仕方で、映画を構造化する力を「映画的なもの」と名づけることにしている。
この「映画的なもの」に着目して、『エイリアン』・『大脱走』・『ゴーストバスターズ』を読んでいく。そこからラカン、フーコー、バルト、フロイトの術語がわかりやすく紐解かれていて、知的好奇心を刺激された。
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映画を現代思想で構造分析する。「エイリアン」「大脱走」などの映画は、いろいろな見方ができる。現代思想家の立場で分析すると、例えば「エイリアン」には秩序と混沌が並立した首尾一貫したテーマがあると言う。制作者が意図したかどうかは解らないけれど、見る立場の解釈はその人の考え方で判断するので、著者にはそう見えるのだろう。この本を読んでみて、納得できる部分と解らない部分が併存していて、頭の中が混沌としてきた。映画がストーリーが面白ければ良いというレベルであれば、こんな小難しい本は読まなくても良いと思う。映画を見て、さらに現代思想を知りたいのであれば、読んでみる価値があるかもしれない。
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エイリアンやゴーストバスターズなどのハリウッド娯楽映画にも、実は根底に哲学的テーマがあった…という実に面白い内容。今後ますますひねくれた映画の見方をしそうだ
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思想理論の「実践」として映画を分析するという趣向のもの。なので単純な映画批評ではなく、理論そのものの説明でもない。そのへんを間違えると「なんだ?」という感じになるのかもしれないが、僕はまさに思想理論の「実践」に関する本を読みたかったので、そういう意味では大当たりだった。
内容としては本書で挙げられているような映画を僕がまったく観ていないということもあって、クリティカルヒットというほどではなく。とはいえ、自分自身が「実践」をするにあたり、参考になることは間違いない。
当たり前の話ではあるが、この本のような分析を見て「いやいや、著者はそんなこと考えていないよwww」とか突っ込むのは方向性を誤っている。肝心なのは、その映画が「そう受け取ることが出来る」という構造をとっているということであり、これは文化に根付く「無意識」を解体しようとする一つの試みなのだろう。それはただ一つの「遊び」にしか過ぎないような気もするのだけど、解釈においていかにその「遊び」がうまく行っているかということは重要なのだ。
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サンプルとして取り上げた映画それぞれに主題を見出し、その構造を解説する手法がおもしろい。制作者が意図するとせざるとに関わらず「そう読み解ける」というもの、つまり漠然と感じたことを歴史的背景やジェンダー論、現代思想などで具体的に教示されるのは溜飲の下がるような気分がしてとても爽快。
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内田ファンですが、構造主義とかレヴィナスとかは、私には歯が立ちそうもないので手に取ったことはない。でも、この本はもしかしたら、と思って読んでみた。一口、二口ぐらいは噛めたけれど、咀嚼して飲み込む事はできなかった。残念。
興味深く印象に残ったのは(他の歯が立つ本でも読んだ記憶があるが)、アメリカの男はアメリカの女が嫌い、ハリウッド映画は女性嫌悪(ミソジニー)にドライブされている、という指摘。
こういう理屈です。
西部開拓時代の最前線には女性の数が少なかった。男数百に対して女性一人というような集団もあった(レディ・ファーストの起源)。フロンティアの男たちのほとんどは、生涯に娼婦しか知らずに死んだ。フロンティアの死者たちはアメリカ建国の礎を築いた人々で、アメリカは彼らに安らかに眠ってもらわなくてはならない。というのは、人類学が教える事実として、死者を安らかに眠らせるのは生者の重大な仕事であり、死者が「それを聞くと心安らぐような弔いのための物語」を語り継ぐことは、死者が蘇って、生者の世界に災禍をもたらすことを防ぐための人類学的コストだから。「女なんてろくなものじゃない」。これは、生涯ついに女に選ばれることなく死んだ無数の開拓者の墓に向かって、アメリカ人が語り続けている弔辞である。
うなずける理屈ですが、私には、それ以前に、アメリカ映画が女性嫌悪、という部分が、そうなの?という感じ。でも、面白い。なので一応テイク・ノート。
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日本の平安時代の物語には、殺人がひとつもないんです。【…】殺人なしで物語を構成するというのは大変なことですよ。