投稿元:
レビューを見る
京都で小僧として精進料理を学んだことをいかしながら
軽井沢で暮らした著者の12ヶ月。
畑と相談しながら丁寧に食事をしつらえる姿に親しみを感じます。
仏教の教えも引きながら、
食事を作ることの大切さを教えてくれる本です。
投稿元:
レビューを見る
精進料理とは日々精進して作る料理。言葉の意味も考えず、お寺のお料理ととらえていたのが恥ずかしい。
一生懸命育ってきた土からいただく生命を慈しみ、ありがたくいただく。食事のときにいただきますという言葉の意味もあらためて意識するようになります。
写真もあるので、普段スーパーで買い物するときにも水上さんの姿が思い出され、かごへのいれ方も心なしか優しくなります。
表紙の絵もこの方が書かれてて、とても繊細で暖かい気持ちになりました。
投稿元:
レビューを見る
食物を余すとこなく食べる
ほうれん草の根の部分
料理を楽しむ姿勢が印象的であり、果実酒には挑戦してみたい
投稿元:
レビューを見る
軽井沢に住む著者が一年を通じて季節毎の精進料理を如何に作り食すか、禅寺での小僧時代に体得したもの教えられたものを絡めながら、描かれた料理エッセイ。たらの芽などの野菜の天ぷらで一杯のみたくなります。金沢の仙人庵に行きたい‥
投稿元:
レビューを見る
作家水上勉が一年間の旬の食材、季節の料理について、自身の経験や思い出とともに綴ったエッセイ。
自ら台所に立ち、自宅の庭や畑で採れた野菜などで料理をする。その様子も写真を交えて紹介しています。
少年期に禅宗寺院で身につけた精進料理が料理の、そして生き方の基本的なベースになっていることが伝わってくる。
裏表紙の紹介文には「日本人の食生活の荒廃を悲しむ、異色の味覚エッセー」なんて書いてあるけど、別にそういう感じはしなかった。
比較的淡々と、時に食材に対する愛をにじませつつ、自然体で書かれた文章はリラックスして楽しめるものになっています。
それにしても、季節のものを使って飾り気なく料理ができる男性っていうのかなりの高得点、なのであります。
投稿元:
レビューを見る
20140111 何年か経つとまた読みたくなる本がある。この本もその一つ。作者が書いた年齢に近づくほど感じるところも変わってくる。料理というよりはどう生きるかを教えてくれる本だと思う。
投稿元:
レビューを見る
9歳の時に京都のお寺へ出された著者が、
時にその時分を思い出しながら、
ただひたすら12ヶ月分の“食(精進料理)”について書いた本。
端々から食に対する想い、
そこに関わる様々な事象が見え隠れする。
確か、かの海原雄山先生が、
「現代で唯一読むに値する食の本」
的な発言をしていたはず。
さすがです。
裏書には「クッキング・ブック」と書いてあって、
確かに『食べてみたい!!』と思える料理は多いですし、
真似する価値もあるんでしょうが、
それよりも思想本的な意味合いが強いでしょうか。
精進料理なー。
個人的に気に入ったフレーズは、
「この世に山野が生むもので同一のあるいは普遍の食べ物はありはしない」P211
です。
投稿元:
レビューを見る
ときをためる暮らしにでてきて、気になって借りてみた本。買ってもいいかも。昭和57年て四半世紀以上前に書かれたなんてと思うほど新鮮でありつつ変わらない何かが記されている。
投稿元:
レビューを見る
これも長いあいだ積読でした。ようやくこれを読んで沁みる境地に自分がなってきたのかなあと。自分の今年のテーマのひとつが料理ということもあり、今読むべき本だったのだと思います。くわいや山芋の焼いたの、味噌、豆腐、梅干し、筍、木の実にきのこ。どれもおいしそうでたまりません。素材の味を楽しむにはやはり旬に食べるのが一番。スーパーマーケットの野菜は味気ないものなあ。
投稿元:
レビューを見る
はじめて 水上勉の本を読んだ。
食に対する ポリシーと言うか 信念が実に明確に打ち出されていた。
旬が 美味しいのである。
旬という言葉がある 日本の文化が 素晴らしいのだ。
それに対する 生でない 保存する という文化が 対置されている。
水上勉の生い立ちというか素性が 明らかにされて
大工である父親の 自然な食に対する 気持ち。
そして,9歳にして 寺に出され 精進料理につきあうことで
料理に対する 気構えが 実にしっかりしている。
食べようとするものに、無駄なものは 何もないのである。
ホウレンソウを 丸ごと食べるには それなりの処しかたがあるのだ。
根っこの持つ意味は 食べなきゃわからない。
いいねぇ。
大根にしても,ジャガイモにしても、皮とは剥くためにあるのだろうか。
栗の渋皮にしても。
クワイの皮さえも,剥くことで 美味しいと言えるのだろうか。
捨てることは,何かを捨てていないのだろうか。
水上勉の料理のすごさは 自分が楽しんでいることだ。
そして,自分の味への郷愁があることだ。
タケノコに対する想いが 何ともせつない。
目先のものを食べることで 精一杯だった 自分を振り返ってみた。
食べるのは 生きている限り 続けるものだとしたら
来年食べるものを 今作ってもいいだろう。
そう思える なにかが そこにはあった。
自分が生まれたときに つけられた 梅干しを
60歳の時になって 食べることができたとしたら
なんてすごいことなんだろう。
そこには、不変がある。熟成と豊饒がある。
おばあちゃんの作ってくれた料理が未だに 思い出にあるのはなぜだろうか。
こんにゃくのトンガラシ煮。フナのミソ煮。
不思議な味わい。美味しいとはいえなかったが、印象に残った。
でも、卵焼きやカレーやトンカツがおいしかった。
母親が来た時に フキの料理が思い出された。
なんでフキなんだろう。くすんで黒くて、見た目にぱっとしない。
それが,なぜ母親と結びついたのだろうか。
そして、突然 チーズの味となる。
オヤジは チキンラーメンから始まり,寿がきのラーメンに発展するのも
よくわからない。そして,突然に ヒレ肉トンカツに 変わるのだ。
味が 飛躍し 料理が飛躍する。
そして,豚足とホルモン焼きに たどり着き 土手鍋になる。
味は ますます濃厚になっていくのだ。
今やろうとしていたことが,クロスする。
豆腐が 面白そうだ。
ジーマミ豆腐を作ってみたくなった。
ゴマの皮をむく。
『すり鉢へ 適量のゴマを入れ、それに水をわずかにいれて、手で混ぜ,鉢の目にこすりつける。
そして、水を加えると 皮は水面にぷかぷか浮いてくる。それを静かに捨ててしまえばいい。』
ケチ という意味が
本当に 美味しいと理解してくれる ヒトが いるかどうかなんですね。
投稿元:
レビューを見る
20140608読了
禅宗寺院の庫裡で育った著者による精進料理12か月。素材をシンプルに味わう幸せを知っているっていうのは、飽食の時代において実はけっこう贅沢で難しいことなんじゃないかと思う。精進料理、もう少し深めて知りたいなぁと思った。いずれ蔵書にしたい本。
20161115購入
投稿元:
レビューを見る
著書名と著者名をみて、「水上勉が料理の本を書いている」と驚き、読んでみた。
読み始めてすぐに、何かが違う、と感じた。
子どものころ、京都のお寺に何年間か住み込み修行をしたことが書いてあるけれど、そんなの聞いたことがない。
南紀の、地縁血縁関係のなんだかどろどろしたところで生活してきたのでは?
ぼくは水上勉と中上健二を間違えていた。
けれど、内容はそこそこ面白かった。
月ごとに、畑で採れる野菜を中心にした精進料理を作り方や思い出とともに紹介していく。
投稿元:
レビューを見る
体に良くても、おいしくない料理が沢山紹介されてるかと思いきや…体に良くないかもしれない、でも凄くおいしそうだ!
http://www.ne.jp/asahi/behere/now/newpage204.htm
投稿元:
レビューを見る
こんなすごい本に出会えて幸せだと思う。
食することの深み、重みを十分に感じた。
自給自足を目指す私。
何回も再読することになると思う。
投稿元:
レビューを見る
軽井沢の自宅の畑で採れた野菜や近隣の山菜果実を精進料理にして食す1年間の記録であるこの本を、ファミレスとかチェーン定食屋で食事しながら読むという、あまり著者に喜ばれないであろう、というか怒られそうな読み方で読みました。
ごめんなさい
だけど、質素ながらも丁寧に素材を調理して食す著者の姿を読むことで、自分自身のいつもの食事、例えばチェーン店の天丼を食べている時も(てんやです。)、米のひと粒ひと粒や、付け合せの大根のお漬物に至るまで、それが土から生まれ様々な過程を通して今自分が食すことが出来るのだということに深く感謝することが出来、本当にいつもより美味しく感じることが出来ました。
全く不摂生な都市生活者の自分でさえ、土を食す感覚を得られる素晴らしい本です。
筍や梅干し、堪らないです。
涎が出ます。涙が出ます。